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プログラミングを愛し、ゲームと歩んだ30年の全記録(第11回:中嶋謙互) - (page 2)

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 母は音楽の教師で、ピアノやリトミック/電子オルガンなどを教える音楽教室の経営者です。僕も子供の頃やっていましたが、先生と喧嘩をしてやめました。言われた通りにするのが嫌だったんですね。

 今は色々な方法があるようですが、昔は子供に楽しく教える方法がなかったのでつまらなかった。母は今でも大津でその教室を経営しています。

 父親は着物をつくっていました。着物には、織屋と染屋、小売りに問屋とありますが、父は着物を染めて問屋に卸すという仕事をしていました。ゲーム業界で例えると問屋がプロジェクトファイナンスをして、染屋が受託開発の開発会社のような役割です。今は通販の仕事等をしていますが。

--着物のような伝統的な事業への興味はなかったんですか?

中嶋氏 「大学でインターネットに触った瞬間に『これで世界が変わる』と思いました。もう1つの衝撃はオープンソース。今まで10万円以上していた開発ソフトが、オンライン上にフリーで公開されているわけです。もうこの環境下になれば、ボトルネックは自分だけなんですよ。自分の能力だけしか限界はないんですから」

 小さい頃から父は傍らで見ている僕に、「この産業は20年後に厳しくなる」とよく言っていましたから、目指そうという気はおきませんでしたね。妹は2人いますが、2人とも音楽の道へ進んでいます。

--なるほど、家を継ぐというイメージはなかったんですね。大学は京都大学の農学部へと進まれるのですが、ここは最初から目指していたのですか?

 京都大学の「京大マイコンクラブ(KMC)」に入りたかったんです。KMCといえば、その頃はサークルレベルでオープンソースのプロジェジェクト、例えばルーターのルーティングのアルゴリズムのライブラリを作ったり、OSをつくったりするような人間がゴロゴロいるようなサークルだったんです。それを仕事にしている人もたくさんいます。

 このサークルに入るためには、京大に行くしかないと思ったんです。しかし、プログラミングばかりをして、勉学に関しては頭が良くなかったので、1年間浪人をしてしまいました。

「コンピュータのある所に人あり」

--マイコン倶楽部の魅力は何だったのでしょうか?

 そこにいったらプログラミングができるんですよ。実際、高校卒業前からKMCに見学にいっていました。「合格したらきます」という状況です。

 何故そのサークルが盛り上がったかというと常時接続のインターネット環境は大学にしかなかった。そしてそのサークルにいけば、Sunのワークステーションやイーサネットなど凄い環境が整っていたわけです。今ではノートPCもネットワーク環境も整って、自宅でいくらでもできますが。

--コンピュータがあるところに人が集まるという感じですね。そこでは具体的にどのようなプログラミングをやっていたのですか?

 大学には7年もいました。ぜんぜん単位とれなくて。。。ただ、その間にゲームを作ったり、本を書いたり。当然スキルアップしますし、環境も整っていますから、オープンソースのコンパイラーで本格的なゲームが作れるんですよ。

 アルバイトも初めて、バイト先では「Lifestorm」というオンラインゲームを作っていました。うちの社史にはその辺りから載っています。

 Lifestormは世界で最初につくられたJAVAベースのMMORPGですね。

 「Ultima Online」より若干速いです。ここで生まれた技術は、いまでもコアの部分にコンセプトがのこっています。

--中嶋さんの書かれた『50年後の情報科学技術をめざして』という論文でも農業についてに触れていますが、農学部にいかれたことも関係していますか?

 大学の卒業論文は、山林の経済効果を最大にするためのシミュレータでしたし。まぁ結局はプログラミングだったんですけど(笑)。評価は高かったですよ。

 その時に思ったのは、農業にコンピュータを入れるとめちゃくちゃ改善できるということ。友人がやっているのですが、イスラエルの産品でトマトがあります。トマトは、雨がいらなく地面にパイプをいれて点滴で根っこに直接水をあげればいいんです。必要な分だけ水をあげれば、上から水をあげるよりも100分の1の水量で良いわけですから砂漠でも育つんですよ。

 実際、イスラエルでは「そろそろ収穫の頃だから」という指示がサーバから人間に発信されて、それから収穫にいくというシステムに近づいています。

 このように日本の農業もITを上手に活用することによって、食料自給率を上げることが可能だと信じていますし、実際そうなると思っています。

--なるほど、勉強になりました。さて、個人や友人間で遊ぶレベルからいよいよ商用のゲーム作りのフェーズに入っていきますが、作る楽しみもさることながら、使って楽しんでもらうことへの喜びはどこのタイミングで得ましたか?

 僕にとっては、作る事自体は面白くないんですよ。プログラムは面倒くさいですから。こういうゲームが欲しいと思った時にすぐにある方がよっぽどいいですよね。しかし作ってみると、実際そのゲーム上で、知らない人と会話し一緒に戦ったりしている中で、知らない人のスーパープレイが出たりするんです。なんだか人間の限界が引き上げられた感じがするじゃないですか。これは面白いですよね。

 コミュニティーエンジンが無料でやっている「gumonji」というゲームは今までなかったコンピュータのシステムをつくって、ユーザーがその中で今までに想像もつかなかったような空間を個人個人が作っています。それをみるのは面白いですし、やりがいがありますよね。ニコニコ動画のように今までにないユーザーインターフェースをつくれば、今までにないものが生まれてくる。僕はそれがやりたかった。

「ボトルネックは自分」

--Lifestormがコミュニティーエンジンの社史に載っているということですが、起業という方向へ進むきっかけになったということですよね?

 Lifestormは日本システムサプライという会社でアルバイトをしていた1997年に作ったゲームで、このゲームのプレイヤーの中にエニックスの斉藤陽介プロデューサーがいらしたんです。そして、これを商用化しないかということでわざわざ大阪に来られました。

 彼の上司が本多圭司さん(当時エニックス経営企画部長)でしたから、その辺りから今の話につながります。日本システムサプライと斉藤さんとの打ち合わせがありまして、その打ち合わせには僕も作り手として参加しました。この日本システムサプライは、その後潰れてしまい、多くの社員が別のゲーム会社に移りました。

 その後、僕はアバターをつかった「アバターウェア」という会社を日本システムサプライの社長と作ったりしていたのですが、エニックスの斉藤プロデューサーに今後のことについて相談をもちかけると、「では本多と福嶋に会いましょう」ということになり、本多経営企画部長と福嶋康博会長とお会いする機会を頂きました。その時に福嶋氏にされた質問は、「今何歳?英語はできるか?いくら必要か?」という3つでした。

 当時僕は25歳で英語はそこそこできたので、ざっくりとした必要なお金を提示したところ、半分とちょっと出資いただくことで話がまとまったんです。

--その頃にやりたかったことは、Lifestormを作った時に感じていたオンラインゲームビジネスだったのでしょうか?

 MMORPGには無限の可能性を感じていました。その頃からということではなくて、大学でインターネットに触った瞬間に「これで世界が変わる」と思っていましたから。

 もう1つは“オープンソース”ですね。今まで10万円以上していたものが、オンライン上にフリーで公開されている。この環境下になれば、ボトルネックは自分だけなんですよ。自分の能力だけしか限界はないんですから。インターネットでMMORPGをトコトンやってみようと思いでこの会社を立ち上げるに至ったんです。

--社名はやはりコミュニティに特化をするという思いからですか?

 名前は他の案と比べたわけではなく、これしかなかったんですよ。アバターソフトウェアという会社にいた時に、アバターだけでは少し狭いなと思い、「インタラクティブソリューション」という社名が出てきましたが、これだとあまり面白くない。その次に出てきたのが、「コミュニティーエンジン」だったということですね。

 ゲームは一過性のものであって、それがネットワークと融合して進化した先にある何かに興味があるから、ゲームを会社名に含めたくなかったんです。

--設立当初のコミュニティーエンジンはどうでしたか?

 最初は2人で始めました。僕ともう1人ですが、その“もう1人”というのは、「Lifestormを作ったのは誰だ?」と自分で調べて大阪まできた人です。いわゆる帰りの電車賃を持たずに来る人ですね。ゲーム業界ではこういう人はけっこう多いんですよ。やってきた次の日から、会社に住んでいましたね。

「自分が出来ない事を出来る人が沢山いる」

--ゲームを作った人に吸い寄せられて行くということなんでしょうね。その後、会社は成長過程でどのように変わっていったのでしょうか?

 2005年までは12人という規模で成長をしてきましたが、2005年に限界を感じました。「チームワークを真剣に考えなければダメ」という気づきです。

 そして、「自分では絶対にできない仕事をやれる人がいっぱいいるんだ」ということへの気づき。デザインや僕の得意分野であるプログラミングの分野でも全く違うバックグラウンドやスキルを持っている人間がいて、彼らの才能が合わさらないとできないことがたくさんあるということが分かりました。

 また、2005年に自分のリードプログラマーとしての限界を感じ、2005年以降からは社長業に専念することにしました。

--リードプログラマーに限界を感じたのは何故?

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