GPL 3.0は現代版「虚栄のかがり火」か

文:Jonathan Zuck
翻訳校正:坂和敏(編集部)
2006年03月29日 22時15分

 私は、IT業界の争いや悲哀を、ギリシャやシェークスピアの悲劇になぞらえてしまうことがよくある。しかし、現在議論の的になっている「GPL 3.0」には、高校時代の西洋史の授業を思い起こさせるところがある。

 15世紀後半、ルネッサンスはその絶頂期を迎え、フィレンツェはその中心にあった。メディチ家の庇護のもと、人文主義の学者たちは、芸術、科学、哲学の分野で膨大な数の新しい成果を生み出していた。その一方で、当時は退廃的な行為(飲酒、賭博、レスビアンなど)も蔓延していた。ルネッサンスの主役である人文主義者たちの多くは、熱心なキリスト教信者であったが、彼らも自らの信仰と目の前の現実のギャップに折り合いをつけるしかなかった。

 そこに登場したのが、ドミニコ会の修道士Girolamo Savonarolaである。彼は1494年にフィレンツェで権力の座に登り詰めた。Savonarolaは、ルネッサンスの人文主義のすべてを、神と真の宗教に対して顔を背ける虚栄であるとみなした。そして、新しい芸術や学問に対して非常に厳しい態度で臨んだが、そうした態度は街の広場で優れた芸術作品や科学文献を燃やすかがり火が次々に起こされるという形で最高潮に達した。こうした行為はのちに「虚栄のかがり火」として知られるようになる。

 Richard Stallmanは、ソフトウェア開発に対して、現実的な考えを一切拒否し、Savonarolaと同じような宗教的な立場をとっている。Stallmanにとって、ソフトウェアを開発する際の唯一の関心事は「自由な」ソフトウェアという概念(を維持すること)だけである。実際、彼は「ソフトウェアが自由(フリー)であることのほうが、その質を高めることよりも、はるかに重要である」と断言している。このことから、Stallmanは、オープンソースソフトウェアの開発に携わるコミュニティを、懐疑や軽蔑の目で見るようになった。オープンソースソフトウェアのコミュニティは、フリーソフトウェアのコミュニティと親戚のような関係にあるものの、現実的な考え方を抱いているからだ。

 しかし、そもそもオープンソースのコミュニティが議論されるに足る重要な存在になったのは、Linus Torvaldsなどの個人や、IBM、Red Hat、Hewlett-Packardといった企業による、極めて現実的な努力があったからである。LinuxやApacheといった製品が普及するのに伴い、オープンソースという緩い枠で括られるソフトウェア群はそれ自身のルネッサンスを経験した。

 さまざまなハードウェアやソフトウェアが混在する市場のニーズに対応するため、オープンソースのコミュニティは、オープンでフリーなソフトウェアとプロプライエタリな製品との橋渡しに、その労力の大半を傾けてきた。GPL 2のもとで、企業はこうしたオープンソフトウェアとプロプライエタリ製品を組み合わせたハイブリッドシステムを構築する方法をいくつも見つけ出してきた。現在、Red HatやSuSE などが販売しているLinuxディストリビューションには、多くのプロプライエタリなコードやフリーではないコードが含まれている。しかし、こうしたフリーなコードと自社のプロプライエタリなコードの「混在状態」に異議を唱えているメーカーもある。その代表格がTiVoやAdaptecだ。彼らのようなLinuxユーザーにとって、重要な知的財産を保護できることは不可欠な条件である。しかし、この保護という考えは、Stallmanの唱えるフリーという概念や、コミュニティとソフトウェアを共有する必要に直接的な攻撃を加えるものだ。そこで問題になるのは、有名なLinux搭載製品の商品的価値を維持するために、Stallman的フリーソフトウェアの概念をどの程度犠牲にしてもよいのか、ということだ。

 Stallmanに言わせればそんな犠牲は必要ないということになるのだろう。彼は、そうした実用性重視のハイブリッド商用システムを、本当に重要なことから目をそらす「虚栄」であると考えている。彼にとって本当に重要なこととは、もちろんStallman的フリーの実現である。GPL 3.0は、「Stallman的フリーに背くあらゆるものを破棄せよ」という宣言にほかならない。それはまさに、ルネッサンス時代に工芸品や美術品を広場に集め、それを贅沢品として焼却した「虚栄のかがり火」と同じではないだろうか。あるインタビューのなかで、Stallmanはソフトウェアの「TiVo化」(フリーソフトウェアとプロプライエタリソフトウェアを組み合わせて、1つのシステムを構成すること)を禁止すべきだと語っている。また、Stallmanは、デジタル著作権管理をStallman的フリーを制限するもう1つの試みとみなしているが、GPL 3.0はそのデジタル著作権管理を全面否定するプラットフォームにもなっている。「Creative Commons」で有名なLawrence Lessigをはじめとする商業主義寄りの「人文主義者」たちは、ソフトウェアの旧約聖書たるGPLに背を向けたが、GPL 3.0は忠実な支持者らに、そうした虚栄を拒否するよう呼びかけるものとなっている。

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