新聞の没落、易きに流れる世界--コンテンツ価値の「ゼロ」化を防げ

 ネットに代表される新しいメディア環境へと世界が移行する中、人々がコンテンツに接する機会はこれまで以上に増加している。しかし、その一方でコンテンツを制作する個人や組織が得る収益が減少し、ついにはゼロへと行き着く可能性が出てきた。

新聞の没落

 米国では新聞社の経営危機が深刻だ。産業革命以来250年以上の歴史を持つ新聞であっても、その危機的な状況は規模の大小を問わない。誰もが知るNew York Times、あるいはLAやシカゴなど主要地域の新聞を抱えたトリビューン(すでに破産法11条を申請)、あるいは週に1度しか発行しない地区の新聞までが、深刻な経営状況にある。

 そこで、B・カーディン上院議員らが、新聞社をNPOと同様の特殊な法人形態に移行させ、その経営負担を減らして存続させてはどうかという「新聞救済法案」まで飛び出している。

 これまで新聞社には自らが情報産業という自覚がなく、紙に印刷をした「新聞」という物財に対して対価を得るという製造業の発想からの転換を促し、情報産業へと移行する猶予を持たそうという意図があろう。

 その背景には、新聞に代わる存在は依然なく、新聞はネットの時代でも生き残る価値があるという認識がある。インターネットによって、市民による情報提供とその解釈や分析が、集合的な知性としては従来思われてきたほどに信頼が置けないものではないという認識が広がる一方、やはり記者による緻密な情報収集と、真摯な分析と洞察を提供する新聞は、ネットの言説の基点としては重要だという理解があるからだ。

 新聞社はネットに記事の多くを掲載し、従来の紙の新聞の購読者以上の読者を得ても、ネットから得られる収益はこれまでに比較ならない規模にしかなっていない。

 従来、物財+情報財として得た対価の多くは、新聞の情報財としての要素を生み出すには過大な費用であり、ネットから得られる収益が情報財のそれとしては妥当な金額。ゆえに、物財部門を切り捨て、情報財部門をそれら対価の総額に適した規模に調整していくべきという発想があろう。

 しかし、米国のジャーナリズムの真髄である長期にわたる調査の徹底、全国をカバーする取材網の維持は、従来の収益の10分の1程度の収入では不可能なことは明白だ。仮に、その個別に規模を縮小し、主要都市ごとに異なるブランドを持った新聞社の存在を断念、合併して補完しあい、重複部門を圧縮すれば総コストは減るだろう。しかし、地域ごとの購読者を束ねるのとは異なり、複数の新聞のネット部門を合計したとしても収益を倍増させることは難しい。

 そう、現状のネット広告を中心にした収益では、効率化したとしても現状の米国の新聞を現状に近い形で維持するのに必要な固定費を賄うことは困難だろう。全米で1つにまで統合されれば、状況は異なるだろうが、そうなってはジャーナリズムの多面的な分析や内部競争が損なわれてしまう。

 このままでは紙の、そして紙でもない新聞は消えてなくなってしまうかもしれない。それを代替するのは生活者発の情報となり、それらのみが無料で流通する=コンテンツ価値がゼロになるという状態が恒常化した時代が訪れる可能性を否定できない。

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