“インスタ映え”を求める現代人に「脱・自己承認欲求」を--僧侶・小池龍之介氏が語る

 ニュースサイトやSNSを通じて、湯水のごとく膨大な情報が消費者に届けられる現代社会。人々は朝起きたときから夜寝るまでの間、常に情報を脳内で処理しており、自らも誰かとつながるためにSNSで情報を発信している。頭や気持ちを休める時がないといっても過言ではなく、こうした日常に疲れを感じている人も少なくないだろう。

 こうした世の中で、どうやって私たちは心と頭に大きな負荷となる“荷物”を軽くすればいいのか。僧侶である小池龍之介氏が朝日インタラクティブを来社し、講演を行った。


僧侶の小池龍之介氏

 小池氏は、東京大学教養学部卒。神奈川県鎌倉市の月読寺、山口県山口市の正現寺で住職として活動する傍ら、2003年にウェブサイト「家出空間」を開設したり、一般向けに座禅指導などを展開。「煩悩(ストレス)フリーの働き方。」「しない生活」「煩悩を静める108のお稽古」など、ストレスを抱える現代社会に向けた、数多くの著書を発表し、全国で講演活動などを行っている。

辿り着いた「思考を捨てる」という境地

 小池氏はまず、自身の大学時代を振り返った。東京大学では哲学を学んだという同氏。哲学という学問は、人生や社会、物事におけるあらゆる根源の在り方を考え、思考によって追求していくというものだ。その学問の性質上、頭の中では常に答えの見えない問いに向き合ってきたという。「頭の中がパンクしそうなくらい、常に何かを考えてきた」(小池氏)。

 そして、思考に支配される生活は学問だけでなく、対人関係でも同じことが言えたと小池氏は当時を振り返る。「この人は自分のことをどう思っているのか。自分は他人からどう評価されているのか。この人の友情は本物なのか。細かいことを考え始めると止まらなくなっていた」(小池氏)。

 小池氏によると、人間の脳は“考える”という行動を歓迎する性質があるという。たとえそれが苦痛であったとしても、人間は思考をはじめて脳が活発になると、止めどなく考え続ける性質を持つのだ。

 たとえば、悩みを抱えたときに四六時中その悩みと向き合ってしまったり、周囲からの評価が気になりだすと落ち着かなくなってしまったりすることをイメージするとわかりやすい。「脳は考えたり悩んだりといった刺激を感じることが好きで、考えれば考えるほど活発になりさらに考えるようになる」(小池氏)。

 大学時代にこうして"考え続ける苦痛”と向き合ってきた小池氏は、「このまま止めどなく考え続ける生活をしたら、苦しみが続き自分自身が破綻してしまうのではないか。このままこうやって頭を使い続けては幸福になれないのではないか」と考えるようになったという。これが、小池氏が仏教の道に進む転機となった。

 小池氏は、仏教の思想について「頭の中にあるさまざまな思考をきれいサッパリと手放してしまうこと」と説明する。これまで哲学の道を歩み、常に思考とむきあってきた小池氏にとっては、180度異なる考え方だ。とはいえ、思考を手放すというのはどういうことなのか。人は何もしなくても思考する生き物だ。現に小池氏も、講演をしている間は常に思考しているはずだ。

 小池氏は、この思考を手放すということについて、「湧いてくる考えに執着するか、しないのかということ。手放すというのは、湧いてくる考えに執着しないことを指す」と説明した。

 たとえば、日常生活や仕事の中で、「自分が人からどう思われているのか」「何かに失敗した。どうしよう」という思考が頭の中に湧いたとする。普通の人であれば、こうした思考に執着することで、考え続けたり悩み続けたりといった思考のスパイラルに陥る。

 小池氏の考え方によると、こうした状態が“思考に執着する状態”なのだという。「考えが湧いてくることと、その考えに夢中になることは同義ではない。考えが湧いてきた時に、それを客観的に見つめて受け流すことができれば、思考を手放したということができるのではないか」(小池氏)


 小池氏は、仏教の道に進んだことで、こうした思考を手放す訓練を続け、結果的に「思考に執着することは、ものごとの本質ではない。どうでもよろしい」という境地に至ったのだそうだ。「思考に執着すると、思考の奴隷になってしまう。思考を客観的に捉えることができれば、『この考えは使おう』『この考えは捨てよう』と思考を自在に操ることができるようになる」(小池氏)。

 私たちは日常生活においてさまざまな人と関わり、SNSなどを通じて多くの人に向けて情報を発信する。そうした日常において、思考に支配される契機と常に隣り合わせの状態にある、あるいは日常的に何かしらの思考に囚われている状態と言えるかもしれない。熟考することがよい場合もあれば、熟考しすぎることがマイナスに作用する場合もある。私たちの日常には小池氏が言う“捨てる”という発想も必要なのではないだろうか。

SNSが自己承認欲求の欠落感を埋める

 話はここから、インターネットを通じて常に誰かと交流し、思考の端緒が生まれ続ける現代社会における生き方に及んだ。私たちの日常的なインターネットの利用では、たとえばSNSに投稿した写真やテキストにどれだけの反応があるか、仕事で相手に送ったメールがどのように受け止められているかなど、常にインターネットの先にいる相手が気になっている。

 小池氏は、インターネットとの付き合い方について、「それが自分のコントロール下にあって、心地良く使えているかが大事。できれば他のことをしたいのに、仕方なくそれを使って時間を浪費してしまっていたり、スマートフォン(に来る通知)が気になって寝食に支障が出てしまうと、日常におけるさまざまな満足度が落ちてしまうのではないか」と提起する。

 小池氏はSNS創生期にSNSを使っていた経験もあるそうなのだが、そのサービスの特性について次のように語る。

 「SNSは、ユーザーにとって気になる要素が盛り込まれていて、それによってユーザーのアクセスを促進しなければ生き残れないサービス。では、どうすればSNSがユーザーにとって気になる存在になるのか。それは、“自分がどれくらい周囲から評価されているか”という人間のナルシシズム(自己承認欲求)を刺激すれば良いということだ」(小池氏)。

 確かに、スマートフォンやSNSが登場する以前は、デジタルなコミュニケーション手段は携帯電話のメールくらいしかなく、それが恋人や友人との絆を確認する手段だった。電話の頻度や長さから、会えない時間に自分がどれだけ相手に大事にされているかを実感していたと言える。

 「誰にも会っていないとき、人間は『誰からも欲してもらっていない』という自己承認欲求の欠落感や不安感を感じる。その心の欠落を埋めて快楽を得るために、『誰かに愛されたい』『誰かに認められたい』という心理になる。『ずっとあなたを愛している』という恋愛における承認は強烈な強さを持っているが、仕事やSNS上での承認は微弱なもののかわりに数を求めたくなる。いいね!と言ってくれる人が数多くいることで、自分はこれだけの人にすごいと言ってもらっているという充足感に満たされる」(小池氏)。

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