化粧品・スキンケア用品メーカーのマンダムが、10月5日より同社のオンラインショップで、宇宙用製品「ギャツビー スペースシャワーペーパー」の販売を開始している。宇宙飛行士向けの頭皮およびボディ拭き取り用のシートとして開発されたもので、宇宙飛行士の若田光一さんも2022年10月から国際宇宙ステーション(ISS)に持ち込んでいる。
同製品は、JAXAが推進するビジネス共創プラットフォーム「THINK SPACE LIFE」で提案し、採用されたもの。宇宙飛行士が過ごすような物資の限られた極限環境において、暮らしを快適にするソリューションの1つとして認められたわけだ。水を浴びることができない宇宙でもお風呂上がりのような爽快感が得られるように、ということをコンセプトとした「ギャツビー スペースシャワーペーパー」、その開発に携わった3人に話を伺った。
―宇宙領域の商品開発に取り組んだ経緯を教えてください。
志水氏:「両利きの経営」というビジネス書に書いてあることですが、企業にとっては深く研究していく「知の深化」と、新しいことを見つけて取り組むための「知の探索」の両方のバランスが重要だと。企業はどうしても自分たちの慣れたやり方、かつ利益にもつながりやすい「深化」に偏りやすく、「探索」はおそろかにしがちです。しかし、最近は小さなベンチャー企業の革新的な技術に大企業がひっくり返されるようなことが起こっています。
これはまさに「探索」に力を割いていないのが要因です。そこで、当社も「探索」に重きを置いた組織作りのために「フロンティア開発研究室」という部署を2020年に立ち上げました。活動の指針になるようなキーワードとして掲げたのが「Close to the Edge:極限での挑戦が新たな価値を生む」で、極限状態、極限環境でチャレンジしている人にとっての困りごとの解決にフォーカスしようということになりました。
たとえば宇宙飛行士もそうですし、トップカテゴリーのアスリートもそうです。僕らは化粧品の会社なので、一般の方が日常的に何に困っていて、どんな製品を求めているかという調査を行い、そこに役立つ商品を作ってきました。しかし、これだけ物があふれて便利な世の中になると一般の方が困るようなことが少なくなってくる。それでも近年のパンデミックのような大きな出来事があると一気に困りごとが浮かび上がってきます。
そういった困りごとは、極限状態・極限環境でチャレンジしている人からすると日頃から向かい合っていることなんですね。宇宙空間で過ごす閉鎖隔離環境は、人からも自然からも離れて、人工物だけに囲まれるという相応のストレスを感じる状況だと思います。対して地上でも、パンデミックになったことで人と対面できず、医療施設で面会できなかったりするストレスにさらされました。
また、アスリートの方は極限状態のなかで集中力を高めて成果を出すわけですが、僕たちも大事なプレゼンで極度の緊張状態にあるときに、それでも集中してベストなパフォーマンスを出さなければいけない、といったシチュエーションに出くわすこともありますよね。そういうわけで、すでにチャレンジしている方の困りごとにフォーカスすることで、普段は気付かず見過ごしている困りごと、あるいはみなさんが未来に体験するかもしれない困りごとにもアプローチできるのでは、と考えたんです。
―そうしたなかで、なぜ宇宙飛行士向けのボディシートの開発に着目したのでしょうか。
志水氏:現在「アルテミス計画」が進んでおりますが、「月面都市ムーンバレー構想」では、2040年に1000人が月面に居住し、年間1万人が地球と月を往来するだろうと言われています。そこでは衣食住が課題になってくるわけですが、なかでも「住」のところ、日々の暮らしをどう支えるかという部分では「入浴」が大きな課題として挙げられます。
現在、宇宙飛行士の方は地球帰還後の重力に耐えられるように、宇宙生活の間、毎日計2時間以上の筋力トレーニングを行っています。当然汗をすごくかくので、本来ならその後はお風呂に入りたくなるところですが、宇宙では水が貴重なので入浴はできません。女性の宇宙飛行士は本当に大変で、長い髪を大量の水で洗えないため、洗い流さないシャンプーを髪にのばすように馴染ませて拭き取る、という方法をとっています。つまり洗髪に時間がかかる。これが滞在中続くわけで、かなりのストレスだと思います。
また、お風呂に入るという行為には、単純に身体をきれいにするだけではなく、リラックスする役割もあると考えています。そういうほっとする瞬間がどこにあるかというと、私たちの場合、シャワーやお風呂に入っているときもそうですが、上がったとき、身体がほんわかしたり、そよ風に当たって涼しく感じたり、というときにもあると思うんです。なので、あの感覚を再現するべく、肌の清潔さを保ちつつ心地良い肌感覚も得られるように、「心も体もホリスティックに整える」ということを目標にして、貴重な水を使わず容易に頭皮や身体をきれいにできる宇宙飛行士向けのボディシートを開発することにしました。
―宇宙向けに開発していくところではどんな課題がありましたか。
志水氏:当社はさまざまなタイプの拭き取り用シートを販売していますが、これらの製品には清涼感を生むためにエタノールなどのアルコール成分を配合しています。
ところが、このエタノールをはじめとする水溶性揮発性成分は、ISSでは使用禁止成分に指定されています。ISS内の大気循環装置、生命維持装置などのセンサーにアルコール類が悪影響を与えることがわかっているためです。したがって、いかに清涼感、お風呂上がりの気持ちよさを再現しつつエタノールなどの水溶性揮発成分を抜くかを考えなければなりませんでした。
―アルコール類を使えないことに対しては、どのようにして解決したのでしょう。
志水氏:大量の水やアルコール類なしで、お風呂上がりのような清涼感を実現するにあたっては、我々が以前から取り組んでいた「TRPチャネル」の研究が役立ちました。
「TRPチャネル」というのは、人の細胞にある温度や化学刺激を感じる感覚センサ―のことです。我々マンダムが、自然科学研究機構・生命創成探究センターの富永真琴教授と2005年から共同研究を続けてきたものになります。
ちなみにセンサーの発見者であるデビッド・ジュリアス氏とアーデム・パタプティアン氏という2人の研究者は、2021年にノーベル生理学・医学賞を受賞しており、富永教授はその共同研究者でもあります。
その成果は当社では「Kai-tech」技術という形ですでにいくつかの製品に採用しています。たとえばバイク用品メーカーのアールエスタイチ様と共同開発し2021年4月から販売している「ギャツビー リキッドウインドウォーター」です。この製品の身体を冷やすシステムの冷却液に「Kai-tech」技術が活用されています。今回の「ギャツビー スペースシャワーペーパー」は、「Kai-tech」技術をベースにして、アルコール不使用の製品を実現しました。
皮膚センサーのメカニズムを簡単に説明すると、「TRPV1」というセンサーが「熱くて痛い」、「TRPA1」を刺激すると「冷たくて痛い」など、特定のTRPチャネルを刺激することで不快感を与えます。「Kai-tech」技術は、その2つが活性化するのを抑え込みながら、快適な冷たさを感じる「TRPM8」のみ活性化させる、というものになります。
今回の製品では、イソボルニルオキシエタノールとL-メンチルグリセリルエーテルの2つを、不快センサーを抑え込み、快センサーを活性化させる成分として使用しています。
ボディシートで拭き取ったときにどれくらい心地良く感じているかを調べたところ、宇宙飛行士が今まで一般的に体を拭き取るために使用していたおしりふきと比較して、「ギャツビー スペースシャワーペーパー」では大幅に心地よさが高まっていることがわかりました。
―「ギャツビー スペースシャワーペーパー」の特徴、従来の地上用製品と比べたときの違いなどを教えてください。
志水氏:「ギャツビー スペースシャワーペーパー」では頭皮用とボディ用の2種類を用意しました。お風呂の代わりとして全身を拭いてもらうために、頭皮用は1枚、ボディ用は上半身に1枚、下半身に1枚、1日に計3枚使っていただく感じになります。もちろんアルコールフリーで、エタノールは0.00%、49ppm以下としていますが、実際にはこの基準値以下でクリアしています。
他の特徴としては、通常のボディシートと比べると過去最大(当社比)の液量が含まれていること。全身しっかり拭けるように多めの液量にして、気持ちよさが長時間続くように工夫していますので、それでお風呂上がりのような爽快さを感じてもらえると思います。また、宇宙では香りを感じる機会が食事時以外にはほとんどないということで、頭皮用はシャボン、ボディ用はグレープフルーツといったように、地上の生活で感じるような心地よい香りをつけています。
ペーパーも選び抜きました。通常のおしりふきやおしぼりの不織布だと柔らかすぎて拭きにくかったり、使っていくうちに丸まったりします。そうならないように、「ギャツビー スペースシャワーペーパー」はゴシゴシ全身を拭けるように少し硬めの不織布にして、メッシュ構造にすることで汚れを効率よく絡め取ることができるようにもしています。
また、全身を拭けるように液量を多めにしたと話しましたが、不織布の素材も構造によっても吸水量が変わってきますし、たくさん吸水できても外に出てこなかったり、なんてこともあります。そのため、吸水量が多く、絞ったときに水が外に出てきやすい吐出性の良い不織布を選んでいます。
そのうえで、室温22度、湿度30〜65%という一定の温湿度に保たれているISS内部で、一番気持ちの良い爽快感が得られるような成分の配合にしています。ISSには大気循環システムがあって、あえて風を起こして微小重力下で空気を循環させていますので、ボディシートで拭いた後は、その風によってより心地よさを感じていただけるはずです。
―製品を開発していくなかでは苦労もあったかと思います。
森野氏:一番大変だったのは品質の担保ですね。こうした化粧品類の商品は市販する際、安全性などの品質を3年間は担保しなければいけません。通常の製品はアルコール成分が入っていて、それが防腐剤の役割を兼ねてくれますが、宇宙向けはアルコールが使えないのでそれ以外の方法で防腐効果を発揮させる必要があります。ですので、いかにアルコール成分を抑えて防腐していくかが一番苦労したところです。
防腐効果を発揮する成分としては、主にフェノキシエタノールや安息香酸ナトリウムがありますが、不織布の種類や構造によっても防腐効果が変わりますし、そうしたさまざまな成分・素材の組み合わせや配合量を変えながら防腐試験を何度も繰り返して、なんとか3年以上を担保できる品質にたどりつけました。完成したのはJAXAさんが設定した期限ギリギリだったので、ほっとしましたね。
齋藤氏:私が苦労したのはパッケージデザインです。従来製品はシンプルなパッケージでしたが、今回は中身だけでなくデザインもかなりこだわりました。宇宙プロダクトデザイナーにお願いして、頭皮用とボディ用とでデザインを変えて、それぞれどの部位に使うものなのかわかりやすいようにしました。ただ、一部複雑なデザインとなっており、印刷が少しでもズレると見栄えが損なわれてしまうので、ぴったり合わせなければならず……。それも生産現場で実際に立ち会って、何度も試してはこれはいい、これはダメ、と検証していくのが大変でした。
―今、製品を宇宙に持って行っている宇宙飛行士の若田光一さんやJAXAとは開発中にどんなやりとりをされましたか。
志水氏:まず、最初の段階ではJAXAの他の宇宙飛行士の方に身体周りの困りごとについてアンケートを取りました。1年ほど前からは若田さんによるフィットチェックも受け、そこで液量を増やしたいですとか、香りはこういうものがいいですとか、いろいろな意見をいただいて最終仕様を詰めていきました。
サンプルを試していただいたときには、その時点の限界まで液量を増やしたものをご提案したのですが、それでも「もっと増やしたい」と要望されたときは大変でしたね。
生産するときには、このくらいのペースで生産ラインを流せば想定した計画になる、というような閾値があります。それをキープしつつ、より多くの液量をペーパーに浸透させていかなければなりません。ただ、液量を増やしたときにその分ペーパーが全て吸って保持してくれればいいのですが、多すぎるとこぼれてロスしてしまいますし、吸ったとしても、その後ペーパーをパッケージに入れるために折って重ねなければならないので、それが可能なのかという問題もあります。ロスのないように十分な液量とラインのスピードを保てるよう、調整を繰り返して最適なところを探っていきましたね。
―エタノールの含有量についてもクリアしたとのことですが、0.00%、49ppm以下を実現するのはどれくらい難しいことなのでしょうか。
森野氏:製品の素材としてアルコール成分が一切入っていなくても、工場で生産するときに入り込む可能性があります。周囲でまったくアルコールを使っていないのであれば問題ありませんが、同じ工場内の他の生産ラインでアルコールが含まれる製品を生産していることもしばしばです。広い工場内ではいろいろなラインが隣り合っていて、壁などで区切られているわけではありませんので、空気中に気化したアルコールが漂ってそれが製品に吸着してしまうことがあります。また、工場内の設備の洗浄や殺菌にはほぼアルコールを使用していますから、それだけで49ppm以下は達成できなくなってしまいます。
ですので、そこをいかにコントロールするかがポイントです。生産現場の人たちと何回もテストしながら、「この条件なら達成できる」という方法を見極めて、基準はもちろん、基準以下の数値でクリアすることができました。
―「Kai-tech」技術は「冷たさ」だけでなく「温かさ」にも応用したり、痛みのような刺激はVRなどにも活用できたりしそうな気がします。
志水氏: TRPチャネルを使って温めようというのは、トライはしていますがまだ技術的には難しい部分です。「TRPV1」は活性すると温かく感じるセンサー、たとえば唐辛子を食べると温かくなりますよね。でもその反面、不快な刺激がどうしても出てしまい、温かくなるけれどひりひり痛くなるという課題があります。一般向けに商品を提供しようと思うと、メーカーとしては安全性を担保しなければなりませんので、そういった刺激が出るものは扱えません。
とはいえ、今は香りを出す技術も出てきていますし、それに加えて冷たくなったり温かくなったり、攻撃を受けたら痛くなったり、といったような機能をVRに付けることができれば、個人的にはとても面白いだろうなと思います。
―「ギャツビー スペースシャワーペーパー」を今後地上でどのように展開していこうと考えていますか。
志水氏: 宇宙と同じような課題は地上にもあります。たとえば災害が発生すると水や空気、日用品などのリソースが制約されますし、衛生環境も低下します。最初の方でお話ししたように、パンデミックなどがあると閉鎖隔離環境になってしまいますから、「ギャツビー スペースシャワーペーパー」は、そういう場面で活用していただける製品になるのではないかと期待しています。
また、アルコール不使用という意味では、イスラム教徒の方はアルコールが入っている製品の使用を避けますので、そういう方々にも商品をお届けできるようになります。乳幼児や高齢者のように肌の弱い方でも使いやすく、どこでも使えるので、介護現場でも活用できるのではないでしょうか。
入浴介助が必要な方は高齢者に多くいらっしゃいますが、介助する側の人手は多くないので入浴が週に1回など十分ではないのが現実です。そこで、簡単に身体を拭くだけでお風呂上がりのような感覚が得られる利点は大きいでしょうから、官公庁や市町村で備蓄していただいて、災害対策用品として活用していただくことも考えられます。あるいはお風呂に入れないこともあるキャンプにも便利かもしれません。こういったソーシャルな問題は地球上のあちこちにありますので、いろいろなところで今回の製品や技術を応用できないかと考えています。
―製品開発で得た知見や技術を、これからの業務で活かしていけそうなところはあるでしょうか。
齋藤氏:会社として新しい取り組みということもあって、生産現場だけでなくマーケティングや販売部門、流通なども含め、いろいろな部署との協力が不可欠だということを実感しましたし、社内だけでなく社外との連携も必要でした。すでに次の新しい取り組みを始めていますが、やはり新しいことを進めていくときには多くの部署、多くの協力会社の方を巻き込むことになります。そういう意味でも今回の宇宙向け製品の開発を経験し、さまざまな協力体制を築くことができたのは本当に良かったと思っています。
森野氏:宇宙という新しい市場に挑戦したことが、他の領域へ挑んでいくときの1つの足がかりにもなると思います。今回の経験や技術が、未知の領域でもこんな風に使えるのではないか、もっとうまく応用できるのではないかと新しい発想を生み出すトレーニングにもなったと感じます。今後はその力を発揮できるところをどんどん見つけていきたいですね。
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