9月に本格始動したMUSVIのテレプレゼンスシステム「窓」には、約20年に渡る歴史がある。2000年にソニー内で提案した「人と世界をつなぐ『窓』と空間事業戦略」を起点に、テレビへの搭載やたった1人の部署として営業を続けるなど、起業するまでに多くの紆余曲折を経ている。「すべてが人との縁によってここまでくることができた」とする一方で、「毎日少しずつほふく前進するような日々」と話す、MUSVI 代表取締役CEOの阪井祐介氏に起業までの試行錯誤の日々と、「窓」が持つ「気配が伝わる」仕組みまでを聞いた。
――阪井さんご自身、長年勤めたソニーを退職されMUSVIを立ち上げられた。かなり思い切った決断だと感じたのですが、起業までの経緯を教えてください。
ソニーには1999年に通信工学のエンジニアとして入社しました。当時は携帯電話が全盛期で、スマートフォンのようなものの登場が予想されていた時期。通信が新しい時代を開くと、とにかく期待されていました。ただ、重視されていたのは転送レートの向上などの数値的なもの。私としては、そういった技術の先に、デジタル通信を通じた芳醇な体験というか、リアルなつながりみたいなものを感じられるようになればいいなと考えていたんです。
元々放浪癖があって、旅する生活を長く続けていました。旅先で出会った人や場所にデジタルを通じても出会えるみたいな未来が来ればいいなと。そんなことを思い描きつつも、会社員として、無線LANやBluetoothのチップを開発する日々で、やればやるほど、デジタル通信の速度は上がり、人がいるような空間のつながりができる未来が近づいてくる。そんな風に考えていた2000年当時、出井さん(ソニー元社長の出井伸之氏)が、社内で未来の事業を作る新たな提案を募集したんです。
本来は30代中盤のミドルマネジメント層を対象にしていたと思うのですが、入社2年目ながら応募して、それが「人と世界をつなぐ『窓』と空間事業戦略」でした。当時から通信の数値を上げるといったスペック的なものではなく、自然にそこにいるような感じのシステムを作りたいと思っていて、表彰もされて、「ソニーはこの空間接続事業を10年後にやるべき」と提案までしていました。
ただ、そこからは本当に甘くない(笑)。やればやるほど奥深くて、技術だけでは補えないんですね。最初に必要性を感じたのが建築と空間デザイン。それを習得するために、社内留学制度を使って、ニューヨーク大学のアートスクール(New York University, Tisch School of the Arts)に留学する準備を進めました。
無事合格し、いよいよ留学という段階になって、出井さんが原宿に「コンセプトラボ」(Concept Lab - S.E.T. Studio)という研究所を立ち上げると。そこは、ソニーの未来の製品を考える研究所で基本的には社内のトップデザイナーの方々が集められていました。私自身はエンジニアなのですが、デザイナーとともにエンジニアもいたほうがいいということで、声をかけていただいたんです。当時26歳くらいだったのですが、これは大きなチャンスだなと思いNY大学への留学を辞退して、コンセプトラボでデザインの基礎を学びながら、「窓」の開発をさせてもらいました。
――それは究極の選択ですね。
結果的にはすごく実りのある時間を過ごせました。そこで、必要と感じていた認知心理学やインタラクションデザイン、さらにプロトタイプの技術などを徹底的に磨けました。「窓」は100件以上の特許を取っていますが、その根幹となる20件程度は、コンセプトラボ時代に出しています。
特に、プロトタイプを作るという部分では本当に勉強になりました。今、新規事業に携わっている方で、アイデアはあるけれどうまく形にできない、動かせないと感じている人も多いと思います。難しい部分ですが、アイデアは形にして、動かすとものすごく説得力が出てくる。この部分を学べたのも大きかったですね。
――その後はどういった事業を担当されていたのですか。
2007~2008年くらいからはテレビ事業部でカメラ内蔵テレビの開発に携わりました。インテリジェント人感センサーを搭載し、見ている人の顔を検出して、人がいないと消えるという省エネ機能に結びつけました。この機能を使って、子どもがテレビに近づきすぎる防止策も作ったんです。小さな子どもはテレビにどうしても近づいてしまうんですよね。そこで、子どもの顔が近づきすぎると画面がボヤける、消えるという設定にしました。消えてしまうから自然に画面から離れられる仕掛けになっています。
――ディスプレイ、カメラ、センサーと今の「窓」に近い組み合わせの商品ですね。
はい、このモデルをベースに、テレビにビデオチャットを内蔵したモデルもリリースしました。2014年頃でしたが、インターネットを通じて離れた家族とテレビで話せる機能をテレビに内蔵しました。時代的な背景からもかなり需要があると考えたのですが、思った以上に伸びなくてその要因を調べていくと、人間の認知特性と関係があることがわかってきたんです。テレビのチャンネルは強力な訴求力を持っていて、誰かとつながっていたいというふんわりとした欲求では選ばれない。この時に脳の仕組みというのは面白いなと思いました。
この経験を経て、テレビのチャンネルの1つに人とつながる「窓」のような仕組みを入れてもうまくいかないことがわかりました。「窓」を通じて誰かとつながりたいと思う気持ちがかなえられるようなシステムにしなければなりません。
コミュニケーションって、意外と雑音や周囲の情報があると豊かになるんです。一見、気づきづらい部分なのですが、場作りとかコミュニケーションの仕組みをしっかりとデザインする必要がある。その機能をテレビのいち機能としてではなく、一つの新しい製品として、ゼロから作るくらいの気合でやらないと無理だなと思い、2015年頃からR&Dセンターで新たなプロトタイプの開発を進め、特許を活用した社外パートナーとの実証実験を経て、2019年にSRE AI Partnersというグループ会社で1人で「窓」の事業を始めました。
――ここがMUSVIの原点になっているんですね。実際事業として始めた時の周囲の反応はいかがでしたか。
誰にも信じてもらえなかったんですよね(笑)。当時、「窓」は数百万円(2台一式)で提供を始めたのですが、「これをこの金額で導入するなんてありえない」と言われたこともあります。そうした中で、本当にほふく前進で、少しずつ、でも着実に進むことで、学校や病院などに導入事例が増えてきました。
――発表会の時もですが、ほふく前進というキーワードがよく出てくるように感じます。
使い方としては適切でないのかもしれないのですが、当時の自分を振り返ると本当に少しずつ、少しずつ、這いつくばるようにして前に進んでいて、その様子がどうしてもほふく前進という感じなんですよね(笑)。進みはすごく遅いのですが、でも絶対に止まらないという感じです。
――ほふく前進の日々から起業されるわけですが、そのきっかけは
2021年の初め頃、セーフィーの代表取締役社長CEOである佐渡島隆平さんに「窓」は「世の中にニーズが必ずある」と言っていただいて、実はその場で導入もしていただきました。そんな風に言ってくださるのなら、本格的に立ち上げてみてもいいのではないかと背中を押してもらいました。加えて、十時さん(ソニーグループ 副社長兼CFOの十時裕樹氏)からも、今後、阪井さんみたいな人は、増えてくると思うので、新しいエコシステムというか、大企業とスタートアップがうまく連携していくような形でやってみたらいいんじゃないかと言っていただいて、起業を決めました。
当初はソニーを退職して1人で始めようとしていたのですが、そこまで覚悟を決めているんだったらということで、ソニーグループ、セーフィー、SREホールディングスから支援をいただけることになりました。各社とも技術開発や事業展開で連携するパートナーとして新しいチャレンジを応援する、という形で出資していただいています。
――現在MUSVIには7人の方が携わっているようですが。
テレビ事業部時代からずっと一緒にやってきたエンジニアや、1人部署で始めたあとに合流してくれたスタッフなど、ソニー時代から仕事をしてきたメンバーと立ち上げています。例えば広報を担当してくれている中静さん(MUSVI 執行役員/広報・マーケティング担当の中静道子氏)は、ソニーグループ内で金融事業傘下の介護事業の時に知り合い、MUSVIの立ち上げに加わってくれました。そんな形で全員縁があってつながっているという感じがしますね。
――では、次に「窓」の持つ、臨場感や気配まで伝わる力について教えてください。オンライン会議のディスプレイが大きくなっただけとは違う理由とはどこにあるのでしょう。
改めてお伝えしたいのは、「窓」が目指しているのは、人と人とが距離の制約を超えて、あたかも同じ空間にいるかのように自然につながっている感覚です。その観点では、先程も少し話しましたが、建物の側を走る電車の音や室内でキーボードを叩く音、隣の人が会話する声など、本来いらないと思われるような音がとても重要なんです。今ここにある「窓」の1つ(取材時は複数の「窓」がオンラインの状態になっていた)は高知スタートアップベースにいる野崎さんとつながっていて、先方の声も「窓」を通して聞こえて来ますが、こちらの話と混線していませんよね。
これを実現しているのは、言葉や環境音などを含む”音“を、常に双方向に臨場感をもって伝え続けられるステレオエコーキャンセル技術です。「窓」における最も重要な技術の一つで、左右に搭載したマイクにより空間の音を双方向に共有することができます。この技術で、離れた場所であってもあたかも同じ空間にいるような雰囲気を感じながら、複数の方が同時に別々の会話を行えるなど、違和感のないコミュニケーションが可能です。
オンライン会議のように、アジェンダがあって、必要なことをきちんと伝えるのが目的であれば、周辺の音はいらないですよね。だからカットしてしまう。だけどそこをカットしてしまうと場所と場所がつながっている感覚はなくなってしまう。ここがオンライン会議ツールとは異なる特徴の一つだと考えています。
こうした「向こう側の気配が伝わる感覚」が再現できれば、それこそ遠い場所にいる人にあえたり、行ってみたい場所にディスプレイ越しで訪れたりといったことが可能になる。移動せずともいろいろなところに旅できるような感覚が作れるのではないかと思っています。
――エンターテインメントのような活用も考えられるのですね。
もちろん実際に旅先を訪れたら、そこには「窓」では得られない発見があると思いますが、遠すぎて行きづらい、歩いていくのは大変といった、距離や体力の問題を解決できる手段の一つになると思います。
実際、「窓」を持つ人同士をつなげる「MUSVIの会」というのを結成していて、お客様同士を「窓」でつないでいるのですが、意図的につながるのではなく、自然につながることで、思わぬ面白い情報が入ってきたり、新しいアイデアが生まれることがあります。「窓」同士をつなぐことで、そうした展開も見えてきました。これは、単なるオンライン会議ツールでは難しいのではないかと思っています。
――実際につながっている場所同士の雰囲気はいかがですか。
島根県益田市と島根県隠岐郡海士町の小学校をつないで子供たち同士の交流の場を作ったり、横浜とつないで夏休みのダンスレッスンをしてみた例があるのですが、何と言っても単純に楽しそうなんですよ。別の事例なんですが、コロナ禍で社会科見学に行けなかった小学校と水族館を「窓」でつなぎ、社会科見学をしてもらいました。そうしたら、参加してくださった小学生の絵日記に「今日、ペンギンと会った」って書いてあったんです。ディスプレイ越しなので、ペンギンを見た、となってしまいそうなところですが、会ったという表現になっていて、これはすごいなと。
――ペンギンと遊んだという表現が出てくるには音以外にも秘訣がありそうですね。
「窓」のディスプレイは縦型55インチなのですが、これはなぜか世界中どこでも約21対9の比率で作られている建物のドアをモチーフにしています。このサイズだとほぼ等身大で人が映せるので、それが特徴の一つです。人を映すときに丹田(臍の下)までが見えるというのはすごく重要で、ここまで見えるとリアリティが増す。加えて、人の視覚は縦方向で空間の情報を認識しているので、縦型というのも意識しました。
もう一つのポイントが距離感です。対人距離には、ソーシャルディスタンスよりも近いパーソナルディスタンス、より遠いパブリックディスタンスなどがありますが、「窓」では、親身な会話がしやすい距離であるパーソナルディスタンスまで近づけるようにすることで、相手の目を見ながら自然とコミュニケーションがとれるような感覚が生まれます。
――音や映像を細かくコントロールすることで、気配を伝えられているわけですね。その辺りがオンライン会議ツールとは全く違うものになっていると。
「窓」は常につながっている状態を想定していますので、心地よくつながれる、疲れないという違いはあるかと思います。「窓」でつながる仕組みが世界中に広がれば、相互理解はもっと進むと思います。私たちは、「世界中の80億人をつなげる」というビジョンを掲げていて、これって壮大ですけれど、すごくいい目標だと思っています。「窓」さえ置ければ、世界中どこにでもいける。
一方で、距離はそれほど遠くなくても絶対に会えない場所というのも地球上には存在して、その壁をなくしていきたい。実際に面会が難しい入院中の病室とご家族を「窓」でつなげたことがあるのですが、入院しているのは妹さんで、お兄ちゃんは会いたいのに、会えないという状況が続いていました。でも「窓」を介することで、病室と面会室をつなげた誕生日会を実現でき、その時のお兄ちゃんが「どこでも『窓』だ!」といって、本当によろこんでくれました。こういった「窓」がつながった瞬間のいい雰囲気がたまらなくて、その「いい気」を広げていくのが「窓」の使命だと思っています。
私たちの名刺には「いのちをちかくする」というフィロソフィーが書かれているのですが、これはとあるクリエイティブディレクターの方に作っていただいたものなのです。この方はソニー時代の私を訪ねてきてくださったことがあって、その時に「阪井さんがやっていることは「窓」ではなく、結びですよね」と言われました。「窓」はどこまで行ってもデバイスというか装置なんですよね。しかし私たちの事業の本質は、人と人の空間をつなぎ、新しいご縁を結んでいくこと。そこから、「結び=MUSVI」という社名に決めました。
今、一緒に事業に取り組んでいるスタッフもそうですが、MUSVIの立ち上げにはこうした人と人の縁がものすごく絡み合って、大きな流れの中で起きたと感じています。
――ご自身の変化についても教えて下さい。長年勤めたソニーを退職されて、変わったことは。
個人的なことなのですが、基本的に細かなルールや規則が苦手で(笑)、ソニー時代は、その苦手を後天的に克服してなんとかやっていたのですが、そうしたものがなくなって自由になった感じは正直ありますね。子ども時代は、カラスと話しているような子どもで、それを見守ってくれた母には本当に感謝しているのですが、そういう自分本来の性格を抑えて、仕事をしていた部分があったと思います。
もちろん会社を立ち上げて大変なこともありますが、その時々で良い判断と行動をし、周りの人に感謝しながら事業を進めていければと思っています。実際、立ち上げから今まで、人と人の縁をつなぐように仕事がつながっています。そうしたご縁をダイレクトに感じられることもスタートアップならではだと感じています。
――大企業を退職し、これから起業したいと考えている方に向けアドバイスをいただけますか。
私自身、本当に20年間、「窓」の開発に取り組み、普及させるために頑張ってきたので、このままでは死ねないというか(笑)。起業にあたっては、そういった「覚悟」をもって、取り組むことが大切だと思います。ただ、チャレンジしたいことがあれば、どんどんやるべきで、チャレンジしていく先に道は広がっていくと思います。
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