発売当時のゲームボーイは本当に画期的だった。あの緑色のディスプレイは間違いなく、筆者が10代のうちから眼鏡をかけるようになった一因だが、ゲームボーイにはNESと同じ任天堂エッセンスがあった。グラフィックこそ粗かったものの、据え置き型ゲーム機向けのようなゲームを、どこにでも持ち運べる端末でプレーできたのだ。
筆者は任天堂のゲーム機をすべて持っていたわけではないが、友人が持っていた機種で遊んだことも多い。「Super NES」(北米版「スーパーファミコン」)では「スーパーマリオワールド」を、「NINTENDO 64」では「ゴールデンアイ 007」を、「Wii」では「ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス」をプレーした。
大人になるにつれて、他のゲーム機に興味が移っていった。ルームメイトや友人が持っていた「PlayStation」や「Xbox」などだ。任天堂の魅力が薄れたわけではなく、筆者の方が任天堂から離れていっただけだ。同社のゲームは20代向けではなく、小さな子ども向けだと感じたせいだろう。「ポケモン」には少しもはまらなかった。ポケモンを避けているうちに、やがて任天堂のすべてに興味がなくなっていった。
ビデオゲーム業界という砂場の中で、任天堂は周りを忘れて自分の世界に生き、砂の城を築いている。その城にお姫様はいないというのに。筆者は「PlayStation 4」(薄型)を持っており、「アンチャーテッド 海賊王と最後の秘宝」などのゲームを最高におもしろいと思う。率直に言って、今までにプレーしてきたなかで最高レベルのゲームだ。しかし、やはり任天堂的な要素はない。それを目指しているわけではないので問題ないが。任天堂もPlayStationやXboxを目指してはいない。「スター・ウォーズ」と「スター・トレック」を比べようとするようなものだ。両者はまったく違った作品であり、一部のマニアがなんと言おうと、どちらか一方が優れているというものではない。
任天堂は、娯楽用の2人乗りコンバーチブルカーのようなもので、ドライブを楽しむには理想的だ。もっと速くて乗り心地の良い車も買えるはずだが、任天堂の純粋なエッセンスは二つとない。あいまいで説明は難しいが、テクノロジ製品の多くがそうであるように、そこにつながりがあれば確かに感じられる。
筆者がNintendo Switchを買うのは、過去の楽しい思い出をよみがえらせるためではない。それに向いているのはNintendo Classic Editionだ。Nintendo Switchが欲しい理由は、初代NESやゲームボーイにあったのと同じ任天堂エッセンスが詰まっているから。楽しいゲームプレー、親しみやすさ、友だちが集まって楽しめる感覚、そういったものだ。
Nintendo Switchでは他にも、筆者が以前からずっと夢見ていたものが実現した。つまり、家庭用ゲーム機を兼ねるほどパワフルな携帯型ゲーム機だ。任天堂はそれをシームレスな形で実現する方法を見つけ出した。携帯型から、Wiiと同じようなコントローラの付いたタブレット型へ、そして大画面テレビにつなぐ据え置き型ゲーム機へと形を変えるのは、実に楽しい。この変幻自在さは子どもにも大人にも魅力だろう。
初めのうち、コントローラとボタンは、筆者の手には少し小さく感じられた。「Joy-Con」はそれぞれ、ビスコッティ(イタリアの焼き菓子)ほどのサイズだ。しかし、それにもすぐに慣れ、「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」をプレーしているうちに、手になじむようになった。
任天堂らしいちょっとしたおふざけもある。Joy-Conをディスプレイに取り付けるときにはちゃんとクリック音が鳴るし、がっしりとしたスロットのテレビ用ドックも、いかにも任天堂らしい仕上がりだ。ゲーム機のためにこのようなドックを作る企業がほかにあるだろうか。これを見ると、1992年にAppleが発売した「PowerBook Duo」のドックを思い出す。
筆者から見て、Nintendo Switchは任天堂の最高のDNAにあふれている。1人プレーでも申し分ない体験ができそうだし、「マリオカート8 デラックス」などで2人プレーに挑むのも待ち遠しい。Joy-Conをハンドル型のコントローラに取り付けられるから、というわけでもないが。
Nintendo Switchのおかげでニンテンドー愛が復活した今望むのは、「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」をプレーし終わるころまでに、他のゲームも出そろってほしいということだけだ。
この記事は海外CBS Interactive発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。
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