東芝科学館(川崎市幸区)において、東芝ノートPC25周年を記念した企画展示が始まった。期間は2011年1月29日まで。入場は無料。初日となる12月18日はノートPC事業を立ち上げに深く関わった東芝会長の西田厚聰氏による講演も行われた。
企画展示は、東芝のノートPC25周年を記念して開催されたもの。初日には東芝の佐々木則夫社長、西田厚聰会長らがテープカットを行った。展示会場には初代となる1985年にヨーロッパで発売された「T1100」をはじめ2006年のFIFAワールドカップドイツ大会を記念したモデルまで歴史的な21機種が展示された。
中には1986年に登場した、橙色に輝くモノクロのプラズマディスプレイ搭載の国内初製品ラップトップPC(当時は国内でもラップトップPCと呼んだ)「J-3100」や、世界初のTFTカラー液晶搭載の「T4400SXC」、NECと国内ノートPC対決の火蓋を切った「DynaBook J-3100SS 001」や、ミニノートとして世間を驚かせた「Libretto 20」、薄型ボディで注目を集めた歴代の「DynaBook SS」シリーズなど、懐かしい機種が勢ぞろいする。
また、コンピュータの歴史として1954年に東大に納入した真空管式電子計算機や、1978年のワンボードマイコン「EX-80」、PC黎明期の1981年に投入された8ビットPC「PASOPIA」も展示された。PASOPIAはブラウン管式のモニタや、専用の5インチFDDユニットも同時に並べられた。そのほか、内部の基板の移り変わりなども展示された。
西田氏による「東芝PC事業の創造〜新事業の創業・育成〜」と題した講演では、ノートPC事業の立ち上げを担当した西田氏が、事業展開には「起こしたイノベーションの乗数効果が大きいかが重要」と訴えた。
ノートPC事業を営んだ中での乗数効果は「液晶ディスプレイがあったから、大型薄型テレビがあった。リチウムイオン充電池があったからこそ、現在の電気自動車用が生まれ、蓄電池がいろいろなところで普及している」と述べた。
西田氏はノートPC事業をはじめるきっかけを振り返り「最初にデスクトップPCを手がけ、うまくいかずアメリカ市場から撤退、もう一度参入するにはどうしたらよいか考えた。その結果できたものが初代のT1100」と語った。
ポータブル機へシフトするきっかけは「デスクトップでは勝ち目がない、日本の得意な軽薄短小として液晶を使ってみよう」と考えたこと。1985年にヨーロッパで売り出して成功、次いでアメリカの成功をもとに、日本にも投入した。
その後は7年間この分野でナンバーワンを獲得し続けたが、その座が揺らいでくる。「認知度がゼロだったところから大変な好評を得ていると、多少、緩みも出てくる。おごりもあったかもしれない」と反省する。「死角はコスト。1991年に大変なことになる。コンパックが値下げをして我々も相当やられた。地域によっては、コンパックにやられてしまった」
そこで、アメリカにおけるシェアを奪還するために投入した機種が「T4400SXC」だ。西田氏は「486世代のCPUはデスクトップに搭載されていたが、ノートPCへの搭載は世界ではじめて。さらにTFT液晶を世界ではじめて搭載した。この商品を出したことで、コンパックからシェアを奪還した」と振り返った。
さらに、ノートPCの歴史を振り返り、直販というビジネスモデルで参入したデルについて「ずいぶん泣かされた」と感想を述べた。さらに2005年にレノボに売却されたIBMのPC事業については「最初は東芝が買うんじゃないかと言われていたが、買収せず少し悪いことをしたかな」などと振り返った。
また、台湾のODMメーカーがノートPCの製造に乗り出したことは「安い物を、大手のサプライヤーのために作りだしたのは、たいへんな貢献」と評価。その台湾側からは「東芝がノートPCのビジネスを始めていなかったら、ビジネスが存在しなかったと感謝されている」と話した。
今後のPC市場とその見通しについても触れ、25年後にPCという形態がなくなっているという意見に対しては「なくなることはない」と否定しながらも「高度なレベルの技術革新が続くのは間違いない。曲がるディスプレイも出てきているので、今のような形をしているかわからない」と予測した。
今後に向けて、「PC事業はイノベーションのたゆまない創出が原動力。過去の25年に安住することなく、当社のPC事業が将来の25年に向け世界先駆けてイノベーションを創出できるかにすべてがかかっている」と語り、講演を締めくくった。
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