ところが翌1983年は、一転して日米ともにゲーム業界にとって悪夢の年となる。日本でブームだったLSIゲームが急に売れなくなったのだ。米国ではサードパーティの粗悪なソフトが出回ったことでATARI 2006が売れなくなり、「アタリショック」とまで呼ばれた。
任天堂のファミリーコンピュータ(通称ファミコン、米国では任天堂エンターテインメントシステムの頭文字をとってNESと呼ばれる)が世に出たのは、そんな1983年の7月のことだった。ファミリーコンピュータとは、「家族のコンピュータ」という意味。「茶の間でみんなで遊ぶという日本的なイメージをそのまま名前にした」という。
ATARI 2006と同じく、ハードとソフトを分け、自由にソフトを入れ替えられるようにした。「家庭用ゲーム機は初めてだったので、どんなソフトがいいか分からなかった。だから、アーケードで出ていたソフトを無制限時間で遊べるように設計しなおして移植した」(上村氏)といい、発売と同時にでたタイトルは「DONKEY KONG」「DONKEY KONG Jr.」「POPEYE」の3つだった。
ファミコンはその後2003年に製造中止となったが、累計販売台数は国内だけで1900万台、対応ソフトは同1億4000万本の大ヒットとなった。
上村氏はこれだけファミコンが人気を集めた理由として、4つの点を挙げた。
まず1つめは、グラフィックをアーケードゲームと同じレベルにまで高めたこと。「アーケードのグラフィックを家庭用ゲーム機で再現できる技術革新が起こっていた。それを最初に利用し、グラフィック面での大革命を家庭用ゲーム機にもたらした」。グラフィックの美しさは、その後ゲーム業界の競争において重要なポイントの1つであり続けた。
2つめは、十字キーとABボタンというコントローラの存在だ。GAME&WATCH・MULTI SCREENで採用していた形をファミコンにも取り入れた。ゲームをしているとき、人の目はコントローラを見ず、ゲーム画面の映ったディスプレイを見つめている。それでも、手の感触で自分がどのボタンを押しているかが明確にわかる。「おもちゃで開発された新しいインターフェースを採用した」。このコントローラの形も、Wiiが発売されるまでゲームコントローラの基本となっていく。
3つめは、DONKEY KONGを移植した点。「まだやるんですかと笑われた」というが、アーケード版では遊ぶたびにお金を払う必要があり、プレイヤーにとっては遊び足りないという気持ちがあった。GAME&WATCH・MULTI SCREENにも移植はされたが、アーケード版を完全に移植しきれなかったという思いが任天堂にもあった。DONKEY KONGはその後いくつも続編が作られ、現在でも任天堂の人気キャラクターの1つとしていろいろなゲームに登場している。
4つめは、さまざまなソフトメーカーが参画できるようにした点だ。ファミコンの普及において最も効果を発揮したのはこの点だろう。ファミコンの発売からちょうど1年後の1984年7月にハドソンが対応ソフトを販売。その後もナムコ、コナミ、エニックスなど多くのソフトメーカーが続いた。
「任天堂もがんばったが、(ソフトメーカーが)1社では100万台を売るのに11カ月かかった。しかしそれが10社集まるとたった3カ月で100万台売れた。ビデオゲームはソフトを一番重要視している。良質なもの、家庭で楽しめるソフトがないとハードは売れない」
そして累計販売台数が500万台に達すると1985年9月に「スーパーマリオブラザーズ」が発売。「これで火に油を注いだ状態になり、まさに大ブームになってしまった」
これらの要素が「偶然、家庭用ゲームが全滅した年にうまく集まった」ことで、20年も製造される大ヒット商品が生まれた。「任天堂としては、1890年ごろから作りつづけている花札に次ぐ大ロングセラーになった」
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