私は大学時代を大変不安な気持ちで過ごしたことを憶えている。
当時は、米国が世界で最強の国としての地位を失いつつあることについて、真剣な議論が交わされていた。イランではアメリカ人が人質になっていた。オリンピックのボイコットもあった。日本の株式市場は活況を呈し、もうじき日本が米国を追い抜いて世界一の経済大国になるだろうと多くの人が思っていた。米国の自動車業界は輸入車に押され、シェアを奪われた。インフレ率は過去最高を記録していた。
私の母校であるインディアナ大学でも、州全体のさまざまな問題が学内新聞の見出しになった。アンダーソン(インディアナ州)の失業率が20%を超えたことが伝えられた。経済情勢の悪さを示すさまざまな数字は、大恐慌時代かと思わせるくらい深刻だった。他の街でも状況は変わらなかった。
学生たちも、決して楽観的ではなかった。私は卒業を控え、就職活動に必死だった。製造業は不景気のあおりをまともに受けていたが、幸いにも他の業種は元気だった。その中には、Xeroxの研究所、シリコンバレーやシアトル、そしてニューメキシコのベンチャー企業、マサチューセッツ州の128号線沿いやニューヨーク州のアーモンクにあるコンピュータ関連企業も含まれていた。コンピュータビジネスが急成長しようとしていた。
コンピュータの歴史、特にマイクロプロセッサ革命については、さまざまな書物で取り上げられている。しかし、コンピュータが経済の再活性化に果たした役割と、それをわれわれがどう感じてきたかについては、あまり理解されていないようだ。
不景気のどん底から5年足らずで、就職の心配をしていた学生たちは、新しいPC世代の旗手となっていた。私は大学を出てから、コンピュータのクラスを受講したことがある。当時は、カードにFortranのプログラムを打ち込んで、見たこともない巨大なコンピュータ(メインフレーム)に処理させる必要があった。コンピュータ分野の仕事の大半は、「コンピュータ科学者」に限られていた。しかし、そうした状況もあっという間に変わっていった。
表計算ソフトの使い方を知っていれば、仕事にありつけた。DOSでバッチファイルを書ければ、仕事があった。ローカルエリアネットワークを構築したり、マルチタスクの意味を理解したり、リレーショナルデータベースを使ったプログラムが書ける程度のスキルがあれば、好きな仕事を選ぶことができた。
PCは大学卒業者の雇用市場を一変させた。そして--こちらのほうが重要なのだが--企業のビジネスのやり方も根底から変えてしまった。しかし、ことはPCだけにとどまらなかった。考え得るすべての分野でアプリケーションが開発された。PCはローカルネットワークに、そして世界規模のネットワークに接続された。プリンタはタイプライタに毛が生えたような代物からレーザープリンタに進化した。通信環境はモデムからブロードバンドへと変わった。オンラインサービスの数はわずか数千から数百万に激増した。しかも、これはインターネットやAmerica Onlineが本格的に普及する前の数字である。そして、ムーアの法則よりもメトカルフェの法則が注目されるようになった。
このテクノロジー革命は、次の2つの点で驚くべきものだった。まず、テクノロジがこれほど長期間にわたって進歩し続けたという点がある。われわれは今や新しいテクノロジーが登場してもさほど驚かなくなり、一方で、起業家は新しいアイデアを次々に生み出し、新しい製品やサービスを世に送り出している。テクノロジーは米国の経済にも大きな影響を与え、雇用を創出し続けている。
2つめの驚くべき点は、民間で起こっているこうしたテクノロジー革命に対して政府が口出ししなかったということだ。なぜだかわからないが、われわれが選んだ議員たちは自由市場から自由を奪うようなことはやらなかった。
しかし、それも今、変わろうとしている。
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