一昔前の「日本人キーボードアレルギー説」などその典型だ。消費者を深く理解せず、「今、使われていないものは、いやだから使っていないに違いない」と、ユーザーが積極的な判断をしているという事実を勝手にすっ飛ばして結論を出しているとしかいいようがない。そもそも、キーボードで入力する必然性が日本にはなかったのだから、キーボードというものに親しまなかっただけだ。それがあっという間にどこもかしこもキーボードが当たり前になっている。きっかけさえあればよく、我が家の親父だって70歳を過ぎてから使いこなすようになっている。
「キーボード以外の入力デバイスの開発が普及の条件」などと理にかなったようで、奇妙な主張が当然と見なされたとこと自体、今となっては滑稽としか言いようがない。
過剰なユーザビリティへの注力やユニバーサル・デザインの議論も往々にしてこの轍を踏む可能性が高い。基本的には経済性とのバランス感覚が大事だろう。
供給者も限定した視界の中で判断している
心理学の研究などから、人間は概して非常に積極的な情報処理メカニズムを有した存在であるという理解が進んでいる。ただ、すべてを見通した鳥瞰図的な視野を前提とした「積極性」はないということを理解することが重要だ。このことはアフォーダンス(認知のレベルでの生態学的≒相互依存的な外界と人間の関係性)の議論でも明らかだ。すなわち、例えて言うなら、すべての人々は迷路の中をさまよっている=限定した視界の中での判断による行動を常に積極的にとっていることになる。
誰もが迷路の全体像をあたかもを空中から(パズルの迷路ゲームのように)見るような立場にはない。それはメディアを含めた供給者であっても同様の条件なのだ。そのため、誰もが直感的に解を得ることはできない。
供給者は受給者よりも情報量が多いことが常だった過去では、迷路の中を見通す力が供給者はいくらか優れていたといってよい。しかし、現在では情報量の多寡では優劣を問うことができない。相手を無垢な羊だと見くびっていると、時と場合で羊は凶暴になることを忘れてしまう。そもそも供給者は圧倒的な力を持っていないのだから、いったん暴走し出したらいかに羊といえども扱いきれるはずはなく、大変なことになるのは目に見えている。ましてやそれが群れとなったら・・・。
臆病になりすぎることはないが、常に現実を正確に理解しておくことは大切なのだ。なぜならば、供給者であっても、視点を変えれば需要者なのだから。
おっと、B、Cくらいまでは続けようと思ったのだが、ついつい長話が過ぎたようだ。この続きは、随時ということで。
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