私がAppleの記事を書くことを仕事にしていると知ると、誰もが必ずこう尋ねる。「それって、いったいどんな感じなんだい?」
私はたいてい、「クレイジーだ」と答える。おそらく、Appleについて、そしてAppleがコンピュータ、通信、音楽の世界に与えている大きくなる一方の影響力について記事を書くのに、今ほど面白いときはないだろう。だが、それは同時に、日々行われる中傷の泥仕合を目撃する(ときには巻き込まれる)羽目になることを意味する。
その大きさや組織的規模については議論の余地があり、大げさに取り上げられているケースも多い。だが、Macintoshユーザーが自分たちの使う製品に一途に情熱を注ぎ、強く支持する度合いは、テクノロジ業界では群を抜いていることに疑問の余地はない。その情熱は驚くほどで、感動的でさえあるが、同時にひどく厄介なものにもなりうる。
私が最近書いた「Macの約束の地をめぐる諸問題」と題する記事の中で、AppleがMacとPCを対比する形でMacのユビキタス性を強調する広告キャンペーンを展開し、Macを「すぐに使える」コンピュータとして売り出したやり方を取り上げた。しかし、どの製品もそうであるように、Macもまた問題と一切無縁というわけではない。ここ数カ月にわたってAppleの動向を追跡してきた人なら、発売直後に「Leopard」を購入したユーザーがいくつかのトラブルに遭遇したことを知っているし、私たちもそれを一度ならず記事にしている。
私は記事の中で、MacユーザーがLeopardに激怒しているとか、Leopardの深刻な脆弱性のせいでユーザーがMacから離れてしまったなどと書いたことはなく、それに近いニュアンスのことさえ書いていない。にもかかわらず、記事に対するコメント欄では、議論の大半がお決まりのMac対PC戦争に陥ってしまった。投稿者どうしが攻撃しあうだけでなく、なかには私を非難する投稿者までいた。自分はMacを使っていてトラブルに見舞われたことはないし、Leopardをインストールしても問題はなかったのだから、記事は私のでっち上げに違いないというわけだ。Microsoftの手先になって、Macを攻撃するか、Appleのビジネスを邪魔するか、あるいは私とCNETが露骨な自己利益を図ってページビューを増やそうとするかの、悪巧みの一環だと決めつけた。
Appleについて書くといつもこんな具合になる。公平を期すと、Macユーザーの誰もがこうした攻撃的な行動をとるわけではない。しかし、この凝り固まったやかまし屋の集団は、論点をねじ曲げ、議論を炎上させ、Appleとその製品を合理的に見ているだけのことを、ついには世界唯一の真実の宗教を決定する探究へと変容させてしまう。現実世界でそんなものの答が出るはずもないのに。
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