絵文字が開いてしまった「パンドラの箱」第5回--絵文字と日本マンガの親密な関係 - (page 8)

世界に広がりつつある日本の「emoji」

 このような日本マンガの感情表現を、簡単にパッケージにしてネットワークで使えるようにしたものが顔文字と考えられます。他にも絵文字の多くに日本マンガの影響が認められます。

 これは日本マンガのリテラシーを体得している人間には、非常に便利なものです。たとえばカップル同士で「約束に遅れそう」というメールを送ったとして、その返事に、あのソフトバンク#22「表情(がーん)」を使えば、ふつう書かれるような「わかった」など文字だけの返事と比べ、切り口上になるのを避け、書かれた以外のニュアンスをこめることができます。どのようなニュアンスかは2人の関係性にもよりますが、ちょっと大袈裟なこの絵文字を使うことで、シリアスな状況を緩和することが期待できます。

 ただし、そうした使う方ができるのは、あくまで日本マンガのリテラシーをもつ人間同士に限るはずというのは、ここまで繰り返し書いたとおりですが、どうやらマンガの国際化とインターネットが地球をくまなく蔽ったことにより、必ずしもそうとは言い切れない状況が生まれつつあるようです。

 たとえばiPhoneで絵文字を使えるのは、ソフトバンクのメールアカウントに限定されます。つまり日本で登録した端末に限られるはずです。しかし、これを日本以外の端末でも絵文字を使えるようにする方法が、日本人以外のたくさんの人々によって公開されています。たとえばGoogle検索で対象言語を英語にして「emoji iPhone」で検索すると、じつに約24万件という膨大な数がヒットします(以下、結果はいずれも2009年8月9日のもの)。

 本来iPhoneで絵文字など使えないはずの国や地域でこれらのキーワードが使われているということは、とりもなおさず「iPhoneで“emoji”を使う」ことが、それだけ話題になっていると考えられるわけです。同じキーワードで検索しても、日本語で約38万5000件であることを考えると、この英語での検索結果の多さが分かるでしょう(なお、日本語で「絵文字 iPhone」では約252万件)。

 それだけではありません。英語ほどではないにせよ、どうやら「emoji」は世界中に広がりつつあるようです。Google検索がサポートする45言語のうち、同じキーワードでヒットした件数が1000件を越える言語だけをピックアップすると、以下のようになります。

 件数に感心するだけではダメですよ。せっかくGoogleが「このページを訳す」を提供しているのですから、実際にそれぞれのページを見てみましょう。どこまで正確な訳かは保留すべきでしょうが、少なくとも多くの人が日本の「emoji」を使えるようになったことを喜んでいることは分かるはずです。

 たとえば、1000件以下なので上記では挙げませんでしたが、アラビア語で絵文字が使えるようになったことを、アッラーの神に感謝しているらしき掲示板の書き込みなどを見ると、正直いって頭がクラクラしてきます。いったい、どこまで「emoji」は広がっていくと言うのか。上記に挙げた言語の話者人口を考えれば、絵文字を喜ぶ人々が多数派だとまで言えません。しかしこれらのページは、もはや絵文字が日本だけのローカル文化とは言えない現実をはっきり物語っていると言えるでしょう。すでに絵文字は一定の国際性/汎用性を獲得しているのです。

 ここまで絵文字と日本のマンガの関係、そして国際的な広がりについて考えてみました。その上でもう一度アイルランド・ドイツ提案を検討すると、どんなことが言えるでしょう。

 少なくとも「emoticon」ブロックに関しておこなわれたデザイン変更に限って言えば、そのほとんどは不必要であったばかりでなく、日本のマンガ文化の国際的な広がりに逆行する改悪だった、そう言い切ってしまってよいでしょう。つまり、アイルランド・ドイツ提案は汎用性という理想に固執するあまり(もしくはUnicode-MLの仇をWG2で討とうとするあまり)、直しすぎてしまったわけです。日本人からすれば、いい迷惑ですよ。

次こそ最終回

 おかしいなあ、今回が最終回のつもりだったのですが、全然終わりませんでした。つい面白がってマンガ表現にまで手を伸ばしたのが失敗だったかしら。仕方ありません、次回こそ最終回にしますよ。アイルランド・ドイツ提案が発表された約2週間後、4月20日にWG2ダブリン会議の開催日を迎えます。各国ナショナルボディのメンバーがダブリン空港に降り立ち、いよいよ会議が始まります。Google提案をもつアメリカNBとアイルランド・ドイツNBが、ついに正面からぶつかりあうのです。

 それにしても思い出してほしいのですが、前節でいろんな言語により「emoji iPhone」を検索した結果を報告しましたね。本当に世界中と言ってよいほど、多くの言語を使う人々が自分のiPhoneで絵文字が使えることを喜んでいました。あれらの人々は、本当に全員が日本マンガのリテラシーを持っているのでしょうか? とても全員がそうだと言い切る自信はありません。もしかしたら、けっこうな割合の人が「奇妙で目新しい文字らしきもの」に飛びついただけではないでしょうか。

 それでもそうした人々の存在は、絵文字がISO/IEC 10646に収録され、世界の携帯電話に搭載されるようになった場合、かなりの速度で普及するかもしれないことを予感させます(GoogleとAppleの目の付け所はよかったわけです)。しかし、アイルランド・ドイツ提案による顔文字のデザイン変更は、多くが元の意味を変えるものでした。もしも、それがそのままISO/IEC 10646に収録されてしまったら?

 なによりそれは、マンガのリテラシーを持つ人間にとっては大きな迷惑です。使い馴れた絵文字を今までどおり使えないわけですから。しかし、問題はそれに留まりません。マンガを読み馴れない人は、「意味が変わった」などとは思いません。与えられたものをそのまま使うだけです。つまり、日本の絵文字は奇妙に歪んだ形で世界に普及していくことになってしまいます。そうなると、マンガのリテラシーのある人とない人の間で絵文字が使われた際、意味が通じないという事態が発生するでしょう。

 本当にそうなってしまうかどうか、それはダブリン会議の結果にかかっています。はたして日本の絵文字はどんな運命をたどるのか。どうか次回をお楽しみに。

小形克宏

1959年生まれ、和光大学人文学部中退。

2000年よりJIS X 0213の規格制定とその影響を描いた『文字の海、ビットの舟』を「INTERNET Watch」(インプレス)にて連載、文字とコンピュータのフリーライターとして活動をはじめる。ブログ「もじのなまえ」も更新中。

主要な著書:
活字印刷の文化史』(共著、勉誠出版、2009年)
論集 文字―新常用漢字を問う―』(共著、勉誠出版、2009年)

主要な発表:
2007年『UCSにおける甲骨文字収録の意義と問題点』(東洋学へのコンピュータ利用第18回研究セミナー
2008年『「正字」における束縛の諸相』(キャラクター・身体・コミュニティ―第2回人文情報学シンポジウム
2009年『大日本印刷における表外漢字の変遷』(第2回ワークショップ: 文字 ―文字の規範―)。

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