人々がコンピュータとやり取りする方法を、Steve Jobs氏がどれだけ劇的に作り替えたかについては、いくら言っても言い過ぎにはならないだろう。短気で優秀だったこの指揮官は、ミニコンピュータや、ベージュ色の金属の箱に押し込まれた「IBM PC」から、「Macintosh」や「iPhone」、そしてテクノロジは使って楽しいものであるべきだという考え方への移行を先導した。
Appleの共同創業者Jobs氏についての書籍は数多くあり、「バトル・オブ・シリコンバレー」などの映画もある。そのおかげで、Jobs氏の生涯についてはかなりよく知られている。同氏はリード大学を中退した後、パーソナルコンピュータ業界が誕生しつつあった時期に、伝説のエンジニアSteve Wozniak氏とともにAppleをスタートさせた。
Jobs氏は、1996年にAppleに復帰し(当時の米CNETの記事は、AppleがSteve Jobs氏を「買収」したという皮肉な見出しとなっている)、音楽業界と携帯電話ビジネスの変革に乗り出した。Appleは「iPad」によって、タブレットのビジネスの価値を確かめた。あるいは、タブレットビジネスを作り出したといえるかもしれない。Apple Inc.において、Jobs氏は時価総額が世界一の企業を率いた。
しかし、あまり知られていないのは、Jobs氏の後の成功が、以前の失敗からどのようにして生まれたかということだ。
1985年、パーソナルコンピュータ業界が販売低迷期を迎え、Jobs氏の気まぐれな行動に対する不満が高まると、Appleの取締役会はJobs氏を事実上解雇した。同氏には会長職は残されたが、Macintosh部門トップとしての職務はすべて解かれてしまった。
Macintosh開発チームの一員だったAndy Hertzfeld氏は、取締役会の決定の2日後にJobs氏の自宅を訪ねた時のことを、次のように書いている。「それまでSteveの家に行ったことはなかった。それは1926年に建てられたスパニッシュコロニアル様式の邸宅で、広さは1万7250平方フィート(約1600平方m)、寝室は14部屋あった。Steveが1年ほど前、1984年に購入した家だ。わたしは、この変化がそんなに悪いものとは限らないということや、Appleに戻って小さなチームでもう一度一緒に働けたらうれしいということを、Steveに納得させようとした。しかしSteveは慰めようもない様子で、それまで見たこともないくらい落ち込んでいた」(Hertzfeld氏)
Jobs氏は30歳にして、すでに消し去ることのできない影響をパーソナルコンピュータ業界に残していた。また、Apple株式で1億ドルの純資産を蓄積していたほか、Timeの表紙も飾っていた。米国を象徴する存在とは言わないまでも、まさにそうなろうとしていたところだった。
しかし、Alan Deutschman氏が2000年の著書「スティーブ・ジョブズの再臨」で詳しく書いているように、Jobs氏は全く満足していなかった。Jobs氏は友人に、庭の手入れに専念することについて語っている。同氏は旧ソ連に渡ってコンピュータ利用を推進することを考えていた。米国上院議員への立候補も漠然と考えていた。建築家のI.M. Pei氏には、カリフォルニア州ウッドサイドにある、例の老朽化した邸宅を取り壊して、理想のシリコンバレーの家を建てることについて話している(Jobs氏は2009年にようやく、ウッドサイドからその許可を得た)。トスカーナ地方をめぐる自転車旅行もしている。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
ZDNET×マイクロソフトが贈る特別企画
今、必要な戦略的セキュリティとガバナンス
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」