森祐治・情報経済への視点--「社会的なテクノロジ」が苦手な日本

 ネットの世界だけではなく、リアル世界でもさまざまな行政のためのテクノロジ(社会的テクノロジと呼ぼう)が適用されている。国家政策レベルで活用すべきだが、どうも日本人は使い方が上手ではないらしい。

子ども手当を実現するために適切なテクノロジとは

 さまざまな社会的テクノロジが編み出されてきているにもかかわらず、日本では採用の度合いが低い。

 例えば、先日法案が衆院を通過した「子ども手当」なども、その実施の是非やその財源の問題、あるいは対象の範囲に関する議論はともあれ、手法としては現金のバラ撒きをするというのは明らかにおかしい。

 「子ども手当」と称した現金を一部の国民に還元しても、その直接・間接/短期・長期に国として成果はないことは明らかだ。すでに2人に1人は「貯蓄に回す」と調査に回答しており、内需拡大にゼロまたはマイナス。また、低所得家庭では子どものためではなく、生活や余暇(!)に使われてしまう可能性も高いという指摘もある。

 であれば、少なくとも多くの国で実績があり、その課題も含め数多くの実証がなされている「バウチャー」としての給付が妥当でしょう。それも、広く「子育て」を対象とした利用と使用期間に期限を設けたものであれば、子どもを持つすべての家庭では十二分にありがたく、かつ教育や子どもに関連する全ての産業の活性化(公共・私立の差なく!)が期待できるなどメリットは大きい。

 以前、教育バウチャーの導入は規制改革会議で提案され、その後、安部政権の目玉政策として掲げられえたものの、安部首相の辞任とともに消えてしまった。一説によれば、その背景には一部労働組合や官僚らの激烈な反対にあったためという。反対派の主張は「教育格差を拡大させる」からという。本来、教育バウチャーの導入目的は、機関への一律補助ではなく、利用者による選択を可能にし、サービス提供機関に競争を導入させ、結果として全体の質的向上を目指す。すなわち「格差を生じさせ、そして、競争で是正させる」という動的な発想だ。長期的な成果を求める発想とその手段である社会的テクノロジが、短期的な「不公平」への危惧によって潰えた典型例になっている。

テクノロジだけを採用しても問題は悪化するだけ

 民主党による事業仕分けは、間違ったテクノロジの使い方の典型だろう。事業仕分けそれ自体は、ユニークな社会的なテクノロジだ。しかし、以前のエントリーでも指摘したように、適用範囲や運用指針がないまま(フレームワークなし)に実施されると、観客であるメディアの視聴者らにはネタとなり、ウケがよくても、その現場に携わるものには萎縮効果しか生まない。

 面倒なことに、フレームワークがなくとも、テクノロジそのものは強力であり、その推進を行う官僚たちは極めて優秀な人材ばかりだ。加えて、参加することになった「仕分け人」の配役としてスマートな方々が揃ってしまうと、正に場所をわきまえない大舞台が展開されることになる。そして、面倒な結果が生まれる。局所的には正しい議論が交錯し、全体としての正論はいずれかよりも、そのプロセスをコントロール(手際のよさ)するものの意思がまかり通った結果になるのは、火を見るよりも明らかだった。

 そもそも、子ども手当も事業仕分けも、マニフェストという社会的テクノロジを採用した際に記載された政策手法でしかない。民主党を選んだからといっても、そのマニフェストに記載されたことをすべて、評価検討なくして実施してしまうのは馬鹿げていないか。政策ひとつひとつを選択できればいいのだが、そうはいかないのが問題なのだ。

 そこで、理論的には「勝利した陣営を買収する」のが、最も効果的な方策になってしまう。これは、直接的な買収ではないものの、実際に起こっている。すなわち、参院過半数を確保するために連立をした超少数政党の党首を大臣に指名し、結果、マニフェストに一切記載がなく、かつて大議論の末に決められた施策をいとも簡単に反故することを許すというのは、某超少数政党にとっては「勝利した陣営を買収する」というゲーム理論的な勝利の方略以外の何ものでもない。この非対称性はなんとしてくれようか。

大きな物語の喪失の後に「巨大なゴミ箱」が出現

 僕らは前回選挙で民主党を結果的に選んだ。それは消去法だったかもしれない。しかし、民主党政権に「よりよい社会」の実現という、獏とした期待があったことは間違いない。しかし、「よりよい社会」というイメージそのものが十二分に共有されておらず、最大公約数を求めようとすると極めて低いレベルでの実現しか適わない状態には民主党も翻弄される一方だ。

 民主党そのものが、ポピュリズムを標榜する政党ではないだろう。しかし、少なくとも与党になるというプロセスの中では、子ども手当の現金バラ撒きといったキャッチーな政策が必要不可避であったことは、理解に難くない。なぜそんな財政的には極めて困難な挑戦となる政策を掲げなければいけなかったのか。その背景には、競争や自律性の導入、あるいはその前提にある多様性の受容といった民主的・自由主義的な手法よりも、「寄らば大樹の陰」といった「大きな政府」を求める傾向が国民には強い、という冷静な判断があったのだろう。

 いわゆる「大きな物語」といった、わかりやすい、単純な構図を持った社会イメージ=メンタル・モデルが、冷戦終結以降、どんどんと人々の頭の中で崩壊し、再構築が困難になってきた。一方、ブロードバンドやケータイなど高度なネットワークが整備され、情報流通が容易化され、弱い絆や心のうち、あるいは「ここだけの話」といったリアルの世界の「身近なつながりの縛り」に絡めとられ、息苦しい生活をせざるを得なくなった市民は、確かに救いをどこかに求めたくはなる。

 しかし、同時に、国民には政府自体を信頼できないという矛盾も存在している。民主党は、このことも理解していただろうが、選挙で勝ってから考える、と先送りしていたのではないか。その先送りが、大きなツケを生んでいる。

 「国」全体はイメージしにくい反面、小泉元首相の劇場型政治手法のように、身近な人間性や寸劇の筋書きのように単純な勧善懲悪的な役割付けが、政治家や官僚になされてしまう傾向が強まった。結果、救いを求める対象であると同時に、その不完全性を露呈することで矮小なキャラクターに化した「国」あるいは、それに準ずる地方自治体や公共機関に対して、結果的に「面倒なことはすべて国へ」という感情が強まってしまうからだ。

 結果、さまざまな社会的なテクノロジの誤用によって、国が「大きな政府」どころか「巨大なゴミ箱」になってしまうことを懸念するばかりだ。

必要なのはプロデューサー、というつもりだったが……

 おっと、本当は「時代は、構想力と実現力を併せ持った人材=プロデューサーを求めている」というお話をしようと思っていたのだが、どんどん話がそれて床屋談義的なものになってしまった。失礼。

 かっこよく言えば、せいぜい「政策手法や行政手法という社会的なテクノロジという切り口で、国、あるいは民主党の評論をした」わけだが、これと同じ状況はITやネットの業界でも常時起きてはいないか? 間違った製品の選択や、手法の間違った適用については、例を挙げるにも困らないネタだ。そんな状況にも、後半の「なぜそうなってしまったのか」という分析が適用できれば幸いだ。

 次回は、改めてプロデューサーのお話をしよう。

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