5年ぶりとなるMicrosoftのクライアントOS「Vista」のリリースが近づいている。年末商戦には間に合わず、年明けの発売になるという。Microsoftいわく、「これまでにない新たなPC体験の提供」を実現するのがVistaの使命だという。しかし、新たなPC体験とはいったいどんなものなのだろうか?
最近、1960年に科学技術庁が行った21世紀初頭という未来=ちょうど今頃の予想を検証してみたという報道があった。135項目の予想のうち、約4割にあたる54項目が現実のものになっていたという。
ネットで同様の記事がないか調べてみると、1959年に当時のソビエトの科学者らによって書かれた「二十一世紀からの報告」やら、梅棹忠夫先生の「情報産業論(1963)」、そしてもうちょっと時代は後になるものの大きな話題となったローマクラブの「成長の限界(1972)」などがヒットしてくる。
40年前ということにこだわれば、「ウルトラマン・シリーズ」「ムーアの法則」や「IBMのメインフレーム」などが、それぞれの歴史を1965年前後に始めたことになるのだそうだ。ちょっとだけ遡れば、日本のアニメ番組の原型となった「鉄腕アトム」が1963年に始まった(原作やアニメでは、アトムは2003年4月7日に誕生したことになっているので、残念ながら現実にはならなかったことになる)。
いずれにしても、これらの当時として未来を見つめた作品や発想が現代にもたらしている影響は極めて大きく、知らず知らずのうちにそれらは僕らの思考すら規定してしまうことがある。以前もこのコラムで紹介したことがあるが、僕はそれらを「未来の記憶」と呼んでいる。それは、過去の空想科学小説や未来予測で記述されたアイデアに、「あるべき未来像」が影響され、あたかも過去の記述に従って未来が訪れてくるような状況を形容している。
たとえば、鉄腕アトム以来、日本のロボットや人工知能研究はアトムを目標になされ、機動戦士ガンダムのような搭乗型の人型ロボットのようなバリエーションも加わり、未来=夢の実現に多くの人が人生を賭けるほどになっている。
冒頭にあった40年前の未来予想のうち、4割が現実のものになっていたわけだが、はたしてそのうちどのくらいが未来の記憶--一種の「自己達成予言」として達成へのプロセスを経たのだろうか。
未来の記憶の対象は、具体的な目標が設定されていることになり、その実現は比較的確実になっていくものが多い。もちろん、未来の記憶の対象物が非常にあいまいだったりすると、目標設定にもならない場合も多い(例えば、人工知能の実現を目指した「第五世代コンピュータ」計画のように・・・)。
逆に、未来の記憶の対象が具体的なモノであると比較的実現が容易になってくる。筋道があると、具体的な努力目標があることになるからだ。特に、単体で機能するものであれば、なおさらである。しかし、携帯電話のように、携帯電話端末そのものを作るのはそれほど難しくはなかったものの、実は端末そのものより基地局の設置のように、どこでも利用できるようにするための「システム」を作ろうとなると、それはそれで大変なことになる場合も多い。
さて、Windows Vista、である。別にMicrosoftにこだわるわけではなく、AppleのLeopard(Macintosh OS X Version 10.5)であっても同じだ。
ちょっと前までコンピュータというと、PCや電脳ではなく、巨大な中央集権的な構造を持つ人工知能というイメージが強かった。SF映画やアニメの中で、PCのようなツールが出てくるのはつい最近だ。それまでは、「コンピュータ」と呼びかけると、「はい」と答える姿のない存在として描かれることが多かった。そのため、個人で保有するコンピュータという発想自体がパラダイムシフトであり、それまであったコンピュータの定義とイメージをまったく塗り替えたといってもよく、とても未来の記憶の対象にはなりえなかった。
ましてや、OSはモノではなく、そして、インターネットとの連携を前提とした大きな「システム」としての存在感が期待されるのであれば、なおさら難しい。せいぜい直近の技術動向を見越した展開(64ビット化、マルチコア化、不揮発性メモリ対応など)をカバーするので手一杯だろうが、それが提供するであろう「これまでにはない経験」は、未来の記憶がないこともあり、まったくの手探り状態にあるといっていい。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」
ZDNET×マイクロソフトが贈る特別企画
今、必要な戦略的セキュリティとガバナンス