年頭ラスベガスで開催されたCES(Consumer Electronics Show)の雰囲気は、PCがリビングルームにまで拡張されるというビジョンが誰にも当然のこととして受け止められつつあることを示していた。しかし、それは家電産業が実質存在しない米国ならではのこと。家電王国日本では状況が異なる。それでも、米国を震源地としたPCの新たな展開に対抗できるだけのビジョンとプランが用意されているかというと、残念ながら怪しい状態にある。
ようやく始まった国家戦略としての「融合」議論
米国PC陣営はWintel連合のツートップであるMicrosoftとIntelの戦略に習う。そのため、基本的なビジョンの共有は簡単だ。自由の国で淘汰のプロセスを経たこの単純な構造の結果、いったん動き出すと業界の動きが早いのが特徴だ。一方、日本では、官民のさまざまなプレイヤーがお互いに牽制し合っているため簡単には話は進まない。相互に過去の慣性に引きずられ、思うようには動けないのだ。
とはいえ、ようやく一部の良識ある人々の間で今後の展開はどうあるべきかという議論が始まりつつある。自然淘汰を経た米国の百戦錬磨の戦術家との対抗戦は、生半可な自由競争を生き抜いたプレイヤーには荷が重過ぎる。そこで、官民学のさまざまな知を持ち寄り、国家戦略という高い視点でそれらを統合する必要があるのだ。
そんな会議のいくつかに参加する機会を得た。が、いずれもいかんせん初回では参加者の背景的あるいは価値観的な差異を調整するのに時間を費やさざるを得ない。そのことに、少なからずまどろっこしさを覚える。そんなときには、皮肉のひとつでも言いたくなる。それもビアスの「悪魔の辞典」の一節のように、ちょっとした含蓄をもったものを。
「悪魔の辞典」は希望の書
米国の週刊新聞記者であり小説家でもあったアンブローズ・ビアス(1842年生まれ、1913年に消息不明)がコラムとして1881年から25年間にわたって連載した社会風刺コラム「悪魔の辞典」。元々はブラックジョークとして読者には親しまれたとされるが、「皮肉」という裏側にある魅力のひとつとして、ビアスの社会に対する失望よりも期待が読者の共感を誘ったからではないかと思う。本当に社会に失望し、諦観に達したのであれば、いかに自嘲的であってもビアスはコラムを書き続けてはいなかったのではないか(コラムを終えてからの数年で本当の絶望を体験したのかもしれないのだが・・・)。
あらがうことのできない変化の渦中にあっても依然として既存の構造を維持しつづけなければならないという危機的な社会状況のなか、その将来が希望的なものであってほしいという裏側の願望なくして現実を笑い飛ばすことはできまい。
さて、今回からビアスの「悪魔の事典」に習って、後世には「いつの間にか融合が始まった」と記録されるであろう2005年に関連したトピックを随時取り上げていこうと思う。その第1回目は、やはりAからはじめるべきだろう。
供給者(≒メディアを含めた製品の提供者)は需要者(≒視聴者・ユーザー)のことをいかんせん無意識のうちに自身よりも「低く」とらえがちになる。その態度や行動を消極的だの受動的だのと揶揄し、議題を設定したり、話題を提供するのは自らの特権だと思ったりする傾向が生まれるのだ。
もちろん、目前の顧客には頭をたれる輩のほうが多い。しかし、そういう類の人間に限って裏では「お客は何もわかっていない」ということを言い放つものだ。
実際のところ、「顧客=無垢な羊」なんてことはない。馬鹿な思い込みでしかない。むしろ、そう思うことで自身のプライドを維持する効果のほうが強いのではないか。これは一種、予測できないものや理解できないものを目の前にしたときに発効する防衛機制という心理的なメカニズムなのかもしれない。しかし、それはある意味での現実回避であり、議論を複雑にする原因ともなる。
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