森祐治・情報経済への視点--僕らの「知識」を護るのは誰か

 ソーシャルメディアの勃興は、デジタルネットワークの普及に伴うマスメディアの威力の低下に拍車をかけた。ジャーナリズムが提供する知識の社会への貢献は大きいが、今後は誰がその役割を担うのか不透明になりつつある。

知識は判断を左右する

 最近、ふと思うことがある。僕らの知識とは、どのように構成されているのだろうかと。構成主義だのなんだのといった認知科学的な、あるいは哲学的な視点といった高尚なものでもなんでもなく、素朴に思うことがある。

 例えば、歴史という知識。過去という考えようによっては、たったひとつの真実しかないものであってさえ、多種多様な「解釈」、ときとして複数の「事実」が並存することがある。中国、あるいは韓国と日本にとっては太平洋戦争に至るまでの歴史について、専門家からなる研究会ですら統一見解を出すことは困難だった。

 もちろん、歴史という過去の真実はひとつであっても、それを理解する視点という主体のあり方はさまざまであり、解釈としての「歴史」=知識はざまざまで、妥当な表現かどうかわからないものの「動的」になることがある。そして、それらの解釈の過程をすっ飛ばして、僕らは教育あるいは生活を通じて、歴史とは斯くあるものであるという極めて「静的」な知識として、僕らの頭の中に納まっていく。

 さらにそんな歴史という知識をベースに、それをデータとしてだけではなく、ときとして判断のフレームワーク(枠組み)として、さまざまな事象に対して僕らは更なる解釈を行っていく。ゆえに、知っている・知らないといった単純なものでは済まないことが多々ある。だからこそ、歴史あるいは教育に携わる人々は、慎重を期さねばならない、という至極当然な結論になろう。一種それは常識であり、逸脱した人々には厳しい処遇が待っているといっていい。

報道は正しい知識を与えてくれているのか

 昨今、政治と報道に携わる人々との関係について、極めて奇々怪々な話題が溢れている。一部の権力を有した人物らが報道機関を巻き込み、特定の「像」を僕ら国民の頭の中に作り上げてしまおうという動きが少なからずあるという指摘だ。

 恐ろしい話ではないか。確かに、政治の世界ではおどろおどろしい話題には事欠かないという。しかし、社会的装置であるメディアを用いた社会の操作となれば、それは一種洗脳にも等しい。

 もちろん政治だけではなく、民間の商業的なプロモーションも、その類の行為といわれてしまえばそのとおりかもしれない。また、政治であっても、かつての小泉政権のようにメディアとのうまい関係性を作ることで政権運営を行うのも一種の方法論としては正しいかもしれない。

 だが、歴史と同様、メディアの人々には極めて高い倫理観が求められ、それをクリアしたプロフェッショナルが扱った情報であるがゆえに信頼を置いているのではないか。そのメカニズムが、何らかの意図の下歪められているとしたら、それは民主主義という極めて高いレベルでの問題となりうる。

 果たしてそれをチェックする機構は機能しているのだろうか。そもそも、チェックする機構とはどのようなものなのか…。現状ですら、日本の場合、問題含みであることは間違えなさそうだ。とはいえ、問題は送り手側だけにあるのではないのも事実だろう。

 僕ら受け手も、メタな消費の対象としてニュースをすら見るようになってきている。エンターテインメントとして、社会認知を行っているのだ。政治のドタバタを深刻に捉えるのではなく、一種ステージの上で繰り広げられるコメディのように安全なところから観賞し、「他人事」として面白おかしく語る。それを世論だ、フィードバックだ、として捉える。実は同じ船に乗っていることを忘れた、恐ろしく歪みの効いた社会装置ではないか。そこを、敢えて手玉にとって、一種の洗脳をしてしまおうとしているとすると、それは民主主義にとっての反逆ともいえよう。

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