徳川家康の駿府城跡に豊臣秀吉の“幻の城”発見

静岡市 2018年10月19日 12時04分
From 共同通信PRワイヤー

徳川家康の駿府城跡に豊臣秀吉の“幻の城”発見!
聚楽第と酷似した金箔瓦約330点と“秀吉の天守台”出土

 静岡市では、このたび徳川家康が築いた駿府城の天守台跡から、聚楽第と酷似した大量の金箔瓦約330枚および天守台が新たに出土し、豊臣秀吉が築かせた跡と確認されました。
 秀吉の命により駿府から江戸に移った家康。その直後に、東西を分ける重要拠点である駿府に秀吉が絢爛豪華な天守を築城したことは、江戸へ追いやった家康を威嚇した可能性も考えられ、戦国時代の秀吉と家康の関係を知る貴重な史料として注目され、日本の歴史上の大きな発見となりました。
専門家のコメントは以下の通りです。

中井 均(なかい ひとし) 滋賀県立大学教授
専門:考古学(中近世城館遺跡)
 今回駿府城の天守台内部から検出されたもうひとつの天守台石垣は自然石を積む野面積みであり、さらに出土した大量の金箔瓦の造瓦技術が豊臣期の特徴を示していることより、天正18年(1590)に豊臣秀吉によって駿府に入れ置かれた中村一氏が秀吉の支援を受けて築いたものであることは間違いない。関東に移された徳川家康に対して金箔瓦に飾られた天守の造営は豊臣政権の威光を示すシンボルであったと考えられる。
 今ひとつ重要なことは徳川家康が駿府城を改修するにあたってこの中村天守を封印して、その上に自らの天守を構えたことも今回の調査で明らかとなった。その天守台が検出されたことは画期的な調査成果である。駿府城は徳川家康の城だけではなく、豊臣政権にとっても重要な城であったことがこの天守台の検出によって明らかとなった。

小和田 哲男(おわだ てつお) 静岡大学名誉教授/公益財団法人日本城郭協会理事長
専門:日本中世史、戦国時代史
 天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家康が駿府城から江戸城に移され、駿府城には秀吉の家臣中村一氏が入ってきた。しかし、これまで中村一氏時代の駿府城については書かれたものもなく、遺構もなく、幻の城とされていた。今回の発掘調査によって天守台が姿をあらわしたことの意義は大きい。駿府城というと、どうしても慶長12年(1607)からの大御所家康の駿府城が地表面に残っているため、それだけに目がいく傾向があるが、その下に豊臣政権下の中村一氏の駿府城があったことがわかったわけで、これは大発見である。さらにその下に天正13年(1585)着工の、家康による5ヵ国時代の駿府城が埋まっている可能性も出てきた。今後に期待したい。

〈東西の重要拠点「駿府城」〉
 駿府城は、東西を分ける重要拠点であることから、秀吉は江戸に移った家康を威嚇するために絢爛豪華な天守を築いた可能性が考えられます。そして、家康も関ヶ原の戦い後、駿府城の大改修を開始し、豊臣の天守台の上に天守台を築城したことが分かりました。大坂冬の陣、大坂夏の陣の前に日本最大の天守台を構えたことから、家康も大阪に向かって威嚇をする意図があったとも考えられます。それぞれが、静岡の地で、当時の最大級、最先端の城を築城した跡がこのたび発見されました。

〈駿府城跡天守台発掘調査概要〉
◆調査期間 2020年2月末まで
◆住  所 静岡市葵区駿府城公園1-1 駿府城公園内 天守台発掘調査現場
◆アクセス JR静岡駅から徒歩約15分、静岡鉄道新静岡駅から徒歩約12分
◆参考URL リンク (発掘調査について)
      リンク (駿府城について)
◆問い合わせ 静岡市歴史文化課 TEL:054-221-1085



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