3Dツールを活用した新事業の企画などを手掛けるケイズデザインラボ 代表取締役社長の原雄司氏が、DMM.comとアドビ システムズの提携発表の場で、3Dプリンタに関するビジネスの歴史と現状を語った。
ケイズデザインラボは“ものづくり企業”として2006年にスタートした。“アナログとデジタルの融合で世界を変える”をコンセプトとし、「実物をデジタル化してデジタル化したものを実物に戻すというプロセス」(原氏)を研究している。
現在、医療からエンターテインメントまでの幅広い分野で注目されている3Dプリンタ。原氏によれば、この盛り上がりは歴史的に見ると3度目のブームに当たるという。
3Dプリンタの元となる発明は、実は日本人によるものだった。1980年、名古屋市工業研究所に在籍していた児玉秀男氏が、光を当てると固まる液体樹脂を積み重ねて立体にする「立体図形作成装置」(光造形法)を発明。翌1981年に出願公開されたが、特許の審査請求をしなかったため一般公開技術となった。
3Dプリンタを最初に製品化したのは、1984年、現在の2大3Dプリンタメーカーの一つである3Dシステムだと言われている。なお、2012年の調査では米国製品がシェアの約75%をとっていたが、「現在では83%近くまでが米国製品になっている」(原氏)。
日本でも2000年頃には3Dプリンタが300万円以下で販売されていたが、あまり普及しなかった。その理由として原氏は「私の主観」と前置きした上で「日本の製造業界で二次元図面文化が浸透しているのが要因の一つ。図面を使えば必要な情報が通じてしまったため、当時は3D化がなかなか進まなかった。つまり製造業が優秀すぎた」と説明する。
一方、米国などは多言語文化であり3Dデータをしっかりと作っていたため、徐々に3Dプリンタの利用が定着していった。日本では結果的にあまり盛り上がらなかったようだが、本稿ではこの時代を最初の3Dプリンタブームと位置づけたい。
第二次ブームはいつか。原氏は「2007年くらいにあったと思っている」と話す。この時期、日本中にあるメロンやパイナップルの模型のほとんどをケイズデザインラボで作っていたという。
「この時期にテレビ番組などで、3Dプリンタが『3Dの印刷機、コピー機』と説明された。そのため、印刷業界の会社が相次いで3Dプリンタを導入し、失敗している。その理由は簡単で、二次元のデータしかハンドリングできない方々が3次元のデータをハンドリングできるわけがない。単純に出力サービスをやろうと3Dプリンタを導入した会社が相次いで失敗してしまった」(原氏)。
このような第二次ブームを経て、2012年頃から第3次ブームが起こっている。ヤマダ電機を筆頭に3Dプリンタの販売が始まったが、これはケイズデザインラボが支援していたそうだ。
「3度目のブームのきっかけは、オバマ大統領が一般教書演説(米国大統領が年に1度、今後1年間で重点的に取り組む政策課題を議会で説明する演説)で3Dプリンタという言葉を使ったからだと思っている」(原氏)。
過去のブームと現在のブームとの違いはなにか。原氏は(1)3Dプリンタに安いものが出てきたこと、(2)ネットにつながったこと、(3)3Dデータの流通する環境があることを挙げる。これまで3Dプリンタは物作りのプロ達の道具だったが、個人向けのものが出てきて、そしてネットにつながり、DMM.makeのような3Dデータのコミュニティサイトも現れた。これにより、3Dプリンタは人々にとってより身近なものになる。
原氏によると、今後は小ロット生産の敷居が下がり、ものづくりの民主化が進んで、多様化・多角化するという。原氏は3Dプリンタの特徴を(1)1個からでも作れる、(2)複雑なものも出力するだけ、(3)データは距離を超えるの3つのキーワードで説明する。なお3つ目は“3D版FAX”のようなイメージで、データを飛ばし、相手側に3Dプリンタがあれば出力できるということだ。
「この3つのキーワードを考えていくと、今後その3Dのサービスは広がっていくのではないか。またDMM.makeもそうだが、異業種が参入することは面白い。製造業界は『(異業種の参入)危機だ』と言っているが、DMMの参入は私としては非常に嬉しかった。製造業以外の企業が高品質なサービスを付加し、3Dプリンタ関連事業をする、あるいはそのデータのコミュニティサイトを作るというのは非常に重要だと思っている。そうやって交わることは保守的になってしまっている市場を動かすことにつながる。ここは異業種が参入するチャンスととらえればいい」(原氏)。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」
ZDNET×マイクロソフトが贈る特別企画
今、必要な戦略的セキュリティとガバナンス