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企業のPRアカウントはちっぽけなアナタを承認してくれない

粉川一郎(武蔵大学 社会学部メディア社会学科 教授)2012年06月25日 12時46分
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「パブリック」をもっと狭義に、茶飲み話の場として捉える

 オンライン・コミュニケーションが始まりかけていたパソコン通信の時代、参加する我々の中には、そこでもリアルな会議と同じように議論が成り立ち、意見を集約していくことができるのではないかという思いがあった。

 当時はメッセージの長さが600文字位で、参加者は実名もしくはハンドルネームに実名が結びつく形。そんな、追跡すれば誰の発言かが分かる状況の中で議論を戦わせていけば合意形成も行えるだろうと。実際、パソコン通信的なコミュニケーションでは、論理性を持ったメッセージを提示し、コメントツリーのような形でコメント間の関係性を明確にして、議論の環境が整えられていた。でも、ネット上での議論は発散はすれど意見集約はできない…そういう状況が徐々に見えてくる中、ネット上での合意形成という幻想は語られることはなくなってしまった。

 実際にリアルな場での対面での議論ならば、その場の力関係や空気で意見が集約されていくけれど、ネットではそうはいかない。よほど優れた論理性で他者を納得させるような状況であればともかく、立場をある程度隠して、一般的な人が文脈だけで議論を戦わせていっても合意形成はできないというのはある時期から明白になってきた。

 私は公共セクターのフィールドで色々と試みることが多かったが、「行政」がネット上に場を提供し、「多数の人々」が参画する中で何かを生み出していくという試みは、難しい点が多かった。政策形成のために意見集約の場を設けても、そこから代表性のある意見が抽出してくることはなく、恣意的に行政に都合のいい発言だけが取り上げられたり、あるいは多様な意見を単純なパブリックコメント的に利用するだけに留まってしまったり、課題は山積みであったといえる。

 ネット上に何らかの場があって、そこに生じたコミュニティが集団で何かを構築していくという視点から、参加する個々人が主体となって組織や社会とどうかかわっていくか、個人のパブリックとの関係性という点に視点をシフトさせる方がより成果をあげやすい状況に変わってきたように思える。

では、パブリックとは何か?

 ネットワークや、ネットサービスの中にはパブリックな空間が広がっていると言われることもある。しかし、現代のネットワークの中にどのようなパブリックコミュニケーションが存在するだろうか。そもそもネット上のパブリックとは何なのか。

 ある先生がパブリックについてこんな話をされていた。最近「公共」の意味がややズレて認識されていると。本当の公共とは、昔あったような町中でちょっと人が座れて、おじちゃんとおばちゃんが茶飲み話をしてきて、そしたらいつのまにか人が寄ってきて、知らない子が歩いていたら「どこの子?」と声をかけて人のつながりが広がっていくような所ではないかと。そうした出会いを促進するような場が本来のパブリックの意味合いだと。

 そう捉えるならば、2ちゃんねるくらいしかネットコミュニケーションサービスがなかった2000年代初頭に比べて、今はmixiやFacebook、Twitterのように小さい寄り合いの場が様々にできている。まさに本来の意味でのパブリックがネットワークの中に復活しているともいえる。だから企業や行政がパブリックリレーションやパブリックコミュニケーションを考えるときには、従来のような大衆としての人々の位置づけではなく、個人との関係性ということを考えていく必要があるのではないか。

 行政セクターでいえば、自治体の広報車が何かをアナウンスしていたとしても、誰も「自分に対して語りかけているとは感じないし、だからこそ理解しようと努めることもなく聞き流してしまう。しかし自治体職員一人ひとりが地域のコミュニティに入って行って語りかけていけば、それはまさに自分へのメッセージであり、耳を傾ける意識が生まれる。そして信頼関係が構築されれば、理解は促進するだろう。そうした形態が、今のネット上に必要なのではないか。

帰属意識の要件は個人アカウントからの承認

 こうした考え方はいわゆるプロモーション活動にも応用できるのではないか。そこで大事になるのは「個人」が本物であること。単に企業がプロモーションのために個人のふりをして情報発信してもそれはステマ。そうではなく、本当の意味で組織の中の「個人」がパブリックな空間に入っていけるか。

 パソコン通信の時代から「ソニーの社員です」と書き込みをしている人はいて、そういう人が少なからずネットコミュニティの中で信頼を勝ち取っていた時代があった。今再び、もうちょっとそういうところをオープンにしていく戦略が必要かもしれない。企業に所属している方にとっては大変だと思うけれど、黒船(グローバルなSNS)襲来以降、インターネットが個人の属性と切り離されたユートピアでなくなってしまった以上、「○○○の人間です」というものを背負う人々が積極的にその価値を見直していく必要があるのではないか。

 企業アカウントはもう要らないし、重要じゃない。企業の看板を背負った個人のアカウントのほうが大事になるだろう。企業アカウントが面白いことをつぶやいてウケていたのを今からやってもそれはただの2番煎じ、3番煎じ。そこからもっと先に進まなきゃという話になると、過激さを増すしかない。

 しかしそこで何かひとつでも不祥事が生じてしまえば、企業イメージ全体の失墜に繋がる。右に振れたと思えば一気に左に触れるインターネットの世界ではリスクが大きい。そうした企業アカウントの魅力をアップさせるという努力よりも、むしろ、仲のいいフォロワーさんの1人がナントカ社の人だよね、の構造が作れるかどうか。そしてその人がナントカ社という看板を抜きにしても仲良くなれるかまで持っていけるかどうか

 企業はもっと自信をもって個人のところまで降りてきてほしいと思う。私たちは「何かを愛する/何かが大好きな私」という拠り所でアイデンティティを構築する部分がある。アップル製品を使っている私が好き、みたいな。でも、○○社に愛着のある人が「○○社PR」という企業アカウントにフォォローされていても特に何にも感じない。だけど、○○社の何とか事業部に属する個人アカウントにフォローされていて、その人と共通の趣味などもも交えてコミュニケーションしているのであれば、その人は○○社に愛着を持っている自分と○○社を繋いでくれる接点になる。まさに「○○社が好き」というアイデンティティ確立を「承認」してくれる存在になれる可能性がある。

 アイデンティティは承認してくれる他者がいなければ成立しない。でも、ちっぽけな自分をいちいち承認してくれる企業なんてありえない。誰か個人でなければ承認されている実感も安心感もない。

 プロモーションであろうと、パブリックリレーションであろうと、大切なのは信頼関係の構築。しかし、それを実現するためには、個対個のコミュニケーションによって、ユーザー側から関係性を意識できるかどうかだと思う。行政であれ、企業であれ、そこからユーザーは情報発信の対象と見なされる。でもそれは向こうが見なしているだけであって、ユーザーからそこに関係性を見出すことはできない。前述した先生のお話に沿えば、それは「パブリック」ではない。

 今のユーザーは醒めているから、自分が企業からプロモーションのターゲットにされていても、それが必要かどうかだけを判断して、価格コムで値段の一番安いものを買うという行動しかできない。かつてあったようなブランドに対する忠誠心は希薄になっている。それはユーザー側が関係性を意識していないから。そういう状況に際して、ソーシャルメディアは組織に属する個と普通の個人の関係性を構築する場として非常に有効だと思う。

 ある程度の属性をバックグラウンドとして背負わなければならないアーキテクチャーが逆に武器になる。そして関係性が生まれるための要件は、個人からの「承認」。ラーメン屋のオヤジさんから卵を一個オマケしてもらう関係性が得られることで常連客が生まれてくるように、ユーザーは常に承認を受けたいと思っているのだから。

◇ライタープロフィール
粉川 一郎
現在:武蔵大学 社会学部メディア社会学科 教授
専門:ソーシャルメディア論、NPO、行政と市民のパートナーシップ
著書:『パブリックコミュニケーションの世界』北樹出版 2011年(編著)
『社会心理とアイデンティティ』北樹出版 2011年(共著)
『社会を変えるNPO評価』北樹出版 2011年(単著)
『現代地域メディア論』日本評論社 2007年(共著)

この記事はキャビネッツドゥロワーズ「The Social Insight Updater」からの転載です。

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