ネットネイティブを中心に、ネットがリアルを大きく包み込んでいる社会となったいま、人と人との「つながり方」はどうなっていくのだろうか。前回に続きネット利用が変えたリアル世界の変化について小川克彦先生に伺った。
「つながり方」といった場合には、“疎遠になる”と“やりとりが頻繁になる”の両方のバランスを考えないといけない。ネットではみんなその距離感を上手く使っているのでコントロールがしやすい。会いたいなら会えるし、会いたくないなら会わなくていい。自分でつながり方をコントロールできるという意識を持つようになったことはひとつの大きな変化だろう。
そしてそれは、リアルな場でのふるまいにも大きく影響を与えつつあるようにも見える。「コントロールできないものは嫌い」という感覚。例えば、おしゃべりするには個室のある飲み屋に行きたい、周りがうるさいのは嫌だという人は多くなっていると思う。このような趣向は、リアルな関係も自身でコントロールしたくなっていることの現れ、あるいはコントロールできるという誤解なのかもしれない。
これは日本特有の現象なのだろうか?もともと欧米には、個人主義をベースにお互い認め合う暗黙のルールがあり、そのうえでネットが誕生している。例えばアメリカには以前からディスカッション文化があり、パーティ文化がある。年中パーティ、そしてバザー。つまり自己主張する文化がある中で、みんなが集まり、つながる仕組みができてきた。そしてそれに応じた「建前ルール」が練られてきた。
それに対し日本はつながり方のルールが曖昧で、いわば適当にやってきた。それでも上手くコミュニケーションが取れていたのは、リアルな生活上の必要があったから。例えばそれぞれの農家の田んぼに、水路からの水をどう分け合うかといった相談。昔は「今日はAさん、明日はBさんのとこ」って毎日話し合っていた。「我田引水」というのは、そうやって本来は話し合って分けるはずの水を自分のところにばかり引いてきたことに由来する言葉。しかしそういう場がだんだん減ってくると、日本にはリアルなコミュニケーションの環境が残らなくなった。
ネットがリアルを包括するいまの社会の中では、都合のいい友達、都合のいい彼氏彼女、都合のいい場所が求められるようになる。「付き合う人は褒めてくれる人がいい」とか「飲みに行くなら個室」とか。その意味で鉄道とかバスが嫌いという気持ちはよく分かる。つまり自己主張文化がなく、かつコミュニケーンの環境が少なくなった日本では、「コントローラブルなリアル」だけが求められるようになってきた。
このような文化の差は、後から来たネット上のコミュニケーションにも現れている。例えばFacebookの「いいね」ボタンはとりあえず無条件に押すという建前文化/プレゼント文化。これは建前が生活に染みついているアメリカそのものだろう。それが日本ではそう単純ではなく、mixiなどでは微妙に建前と本音を使い分けている。
「その服いいね」と自然に言えるアメリカ人に対して、日本人は恥じらいを感じることもあるだろう。だから人のいいところを褒めたり、「愛してる」を言葉にすることが日常的なアメリカ人にとっては、建前がボタン一つで済む「いいね」ボタンはハードルが下がるツール。しかし逆に、「いいね」を言語として捉え、それを押すために注意深く考えてしまうような日本人にとっては、むしろハードルを上げることになっているとも言える。もちろん、日本でもネットネイティブはそんなこと気にしないと思うけど・・・。
どんな形にしろ、もともと欧米諸国に見られた「コントローラブルなリアル」は日本でもより広がっていくと思う。自分でコントロールできない鉄道やバスが嫌だとなれば、ヨーロッパの高速鉄道のように、一等車、二等車、喫煙、禁煙、携帯使う、使わない・・・といった細分化が進んでくるかもしれない。
いまのネットネイティブの感覚は「つながりたいけどひとりでいたい」。一見、矛盾しそうな個人主義とつながりたい欲求だが、実は矛盾しない。基本的には個人が自立していなければ他人と付き合えないからだ。個人が自立していないつながりは隷属になってしまうが、自立した状態で臨めばそれは対等な付き合いになる。そう考えると、「コントローラブルなリアル」に重要なのは自立かもしれない。個人がしっかり自分を持っていなければ、そのつながりはきっと意味が無い。
◇前回のコラム
「つながり方」を変えるネットネイティブの現在進行形
*この記事はキャビネッツドゥロワーズ「The Social Insight Updater」からの転載です。
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