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大橋禅太郎氏に見るIPOしない起業家の生き方--1

構成:西田隆一(編集部)
写真:梅野隆児(ルーピクスデザイン)
2006年03月27日 16時10分
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 日本のビットバレーブームの仕掛け人でもあるネットエイジキャピタルパートナーズの小池聡氏が、自らの米国、日本での起業家・投資家としての経験を踏まえて、失敗を恐れずチャレンジする起業家という生き方を選んだアントレプレナー達の軌跡を対談を通じて追います。今回は、インターネットビジネスの草創期にさまざまなビジネスにチャレンジし、後にガズーバという会社を起業して、現在はマネージメントコーチとして活躍する大橋禅太郎氏にご登場いただきました。

学生時代に出会った月80万円のアルバイト

小池 今日のインタビューですが、大学を卒業してからのキャリア、その後のアントレプレナーとなって現在にいたるまで、あるいはこれから先のキャリアプランというのを聞きたいと思ってます。

 日本人は将来の目標をもってそこに到達するにはこういう経験をしたいというキャリアプランがなさ過ぎるけど、禅ちゃんは結構そういうことを考えてきたと思う。そういったキャリアについての考えをお聞きしたい。日本人離れした感覚、行動力を持っている禅ちゃんみたいな人はなかなかいないから、それが引き出せたらと思うのだけれど、まず、禅ちゃんの学生の頃からひもといていきましょう。

大橋 大学に入るときは新聞配達しながら入ったんですよ。

小池 授業料は自分で払っていたということ?

大橋禅太郎
大橋禅太郎(おおはし・ぜんたろう)――石油探査会社のシュルンベルジェを経て、情報コンサルティング会社を開業。その後米国に渡り、シリコンバレーにて起業。総額10億円ほどの出資を得てGAZOOBA(ガズーバ)を起業。2001年に売却し、現在はマネージメントコーチとして活躍。近著に『すごい解決』(阪急コミュニケーションズ刊)がある。

大橋 授業料は両親が出してくれることになって、あと月に2万円を仕送りすると言ってくれた。2万円だと基本的には生活できないですよね。その頃ちょうど国会の予算案がすごく遅く通った年で、奨学金も翌年になるまで出なかったんですよ。そうすると、新聞配達するしかなかった。あと、僕のいたアパートが家賃1万円の貧乏アパートでみんな境遇が似ているので、大学へ行きながらどうやって金を稼ぐかというのが1つのテーマになっていたんですよ。

 面白かったのは、大学3年の夏休みのときにNECがNEAX61というISDNの交換器をアメリカの地方の電話会社に納入し始めたのです。電子交換器でISDNを使い始めた頃だったんですが、それが受け入れ側からするとドキュメントが不良で、マシンは納入したにもかかわらず、6カ月以内にドキュメントを直さないと契約そのものを受け入れ側が拒否できる状態になってしまうという感じでした。

 そうするとNECは面子にかけてドキュメントを作り直さなければならなかったんです。ですがその頃、ISDNがわかって、時間があって、英文もできるやつはほんの数人で、やむにやまれずNECが「ドキュメントを書ける人」という募集を出したんです。その仕事はすごくおいしくて、週5、6時間働くと当時で月に80万円ぐらいもらえたんです。

小池 何年前だろう。禅ちゃんっていくつだっけ?

大橋 僕は1964年生まれで、そのときははっきり覚えているけど1986年です。月80万円ぐらいの下請けをドキュメント会社を通してもらいました。

小池 学生のときのアルバイトでそんなにもらったの?

大橋 そんなにきつくないんですよ。

小池 でも、それってNECでもできる人がいないぐらいだから、普通は学生がアルバイトでできるようなものじゃないでしょう?

大橋 多分、チェックできる人がいなかったんじゃないですか(笑)。

小池 普通だったら「そんなのオレできないや」と言って応募もしないんだろう。普通、日本人だったらそういう心得があっても難しそうだなって応募すらしないと思うんだけど、多分、禅ちゃんはそんなことやったこともなかったんだと思うんだけど、「おいしい仕事だ。やればできるだろう。受かっちゃえばこっちのもんだ」という感じでやったんだろうね。

大橋 その頃ってまだ実力が追い付いていないんで、空約束しないと前に進まないんですよね。

小池 ハッタリも必要だった。

大橋 そうです。「経験はないんですけど、やれる自信はあります。やります」と約束する。

 その夏にシュルンベルジェというフランスの石油探査の会社のサマーインターンに行ったんです。シュルンベルジェは世界百何カ国でオペレートをしていて、インターン生に合格すると、基本的にはインターン生がどこの事業所に行きたいか好きな所を選べるんです。それで、僕はオースチンにある研究所を選んで行ったんです。僕がそこを選んだのはスカイダイビングをしたかっただけで、その研究所がスカイダイビングができる空港に一番近かったからなんです。

 それで行ったら、そこの所長が「ホフマンのコーディングを知っているか」と聞くんです。それは情報科学では一番一般的な圧縮の方法なんですが、僕は知らなくて「知りません」と言ったら「それじゃ本を読んでくれ」と言われました。

 ほかにも「オペレーティングシステムのVAX/VMSを知っているか」「いや、IBM370しか知りません」「じゃあ、このOSマニュアルを読んでくれ」だとか、「Cを知っているか」「いや、FORTRANしか知りません」と言ったらCのマニュアルをくれて、「ここのアルゴリズムを介すと1対6でデータが圧縮できるはずだが、それを証明するのが君のこの夏の仕事だ。やれるか」と言われました。

 そうなったら基本的に「やれる」と言うしかないでしょう。その時点では根拠のない空約束ですよね。確信はある程度ありますが、できなくてもおかしくない。1週間後に頑張ってできて持っていくと全然対応が違うんですよね。それで、僕が1カ月いて最後に帰るときは結構大きなパーティーを開いてくれて、発表会の場も作ってくれた。

 それは小池さんが言われたように、「できる」とみんなが思っているときは、多分その市場はあまりおいしくない。

小池 そうね、多分そこだと思うんだよ。僕も禅ちゃんもアメリカに長かったから、日本人との感覚はだいぶ違っていると思う。アメリカ人っていいかげんもいいところで、何でも「できる。やらせてくれ」って言うわけ。でもやらせてみると全然できないんだよね。だけど、とにかくチャレンジしたがる。で、やっぱりトライして学んでできるようになるというプロセスがあるでしょう。そういうチャンスがあたったら多少無理してでもつかんでいかないと、なかなか自分のやりたいことが先に進まない。日本人ももっと自信を持って、多少できなくてもチャレンジすることはやるべきだと思うんだよね。

 それで、そういうバックグラウンドで、学生のときから起業したいという思いはあったの?

大橋禅太郎氏と小池聡氏

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