ENIAC誕生60周年--2人の科学者が作った怪物コンピュータ - (page 2)

文:Michael Kanellos(CNET News.com)
編集校正:坂和敏(編集部)
2006年02月17日 16時15分

 初期のENIACのエンジニアで、今は90歳になるHarry Huskeyは、サウスカロライナの自宅から電子メールによる取材に答えて、次のように述べている。「家庭用ラジオの真空管を交換するペースをもとに、ENIACの連続稼働時間は5分にも満たないと主張する人々もいた。しかし、すべての真空管は100時間にわたる性能試験をクリアしており、そのような問題はなかった」

 ENIACのライバルたち--たとえばABCやZ3は、ENIACよりもはるかに遅く、小規模な計算しか処理できなかった。ABCはデモ用の計算しかしておらず、試作機の域を出なかったと主張する人々もいる。こうした論争は後に「世界初のコンピュータ」の称号をめぐる科学者たちの争いに発展していった。

第2次世界大戦--開発のきっかけ

 ENIACと同時代のコンピュータのルーツは、第2次世界大戦まで遡ることができる。当時、米国の砲兵隊は弾道表を使って、砲弾の弾道を予測していた。しかし、大砲の角度、地勢といった変数を計算するのは、気が遠くなるほど単調で時間のかかる作業だった。

 ひとつの弾道を手計算で分析するには約40時間を要した(しかも弾道は数百種類ある)。Vannevar Bush が設計した微分解析機「Differential Analyzer」などの電気機械を使っても、30分はかかっただろう。ペンシルバニア大学のコンピュータサイエンス教授Mitchell Marcusは、弾道表の戦術的価値は限られたものだったと指摘している。

ENIACの基本構造
ENIACの心臓部には、10本の真空管が円を描くように並んだ「リングカウンタ(環状計数器)」と呼ばれる装置が設置されていた。「5」は5番目の真空管のパルスで表現され、ここに9が加算されると、パルスは4本目の真空管に移動し、さらに2つ目のリングカウンタの1本目の真空管(10を意味する)がパルスを受け取る仕組みになっていた。

各アキュムレータ(累算器)には10個のリングカウンタが設置された。アキュムレータは、上は100億ー1(9,999,999,999)、下はマイナス100億+1までの数値を記憶することができた。ひとつのアキュムレータが上限に達すると、ワイヤを通して2つ目のアキュムレータにパルスが送られ、処理が継続されるようになっていた。ENIACには合計20個のアキュムレータが搭載されていた。これらのアキュムレータは40を超えるラックに格納され、プラグ盤を使って、相互につながれていた。データは長さ1.5メートルの水銀管を利用して、パルスの形で記憶された。

 当時の研究者たちは、電気機械を高速化する方法や、ピンやギア操作に起因するエラーを排除する方法を見つけようと努力していた。1937年、アイオワ州立大学教授のJohn Atanasoffは、酒場であるアイディアを思いつき、それをナプキンに書き留めた。それは2進演算が可能な電子計算機のアイディアだった。

 Atanasoffは大学院生のClifford Berryと、その他数人の院生の手を借りて、ABCコンピュータの試作機を製作し、1939年10月にデモを行った。1941年には300本の真空管を搭載し、数秒で演算を行うことのできる改良版も開発された。このプロジェクトはうまくいっていたが、戦争が勃発したため、AtanasoffもBerryもABCに関する研究を中断し、より緊急性の高い国防プロジェクトに取り組むようになった。

 当時、Ursinius Collegeの物理教授だったMauchlyは、まったく別の分野の科学に取り組んでいた。彼は「Harmonic Analyzer(調和解析機)」と呼ばれるアナログ装置を使って、気象を正確に予測する方法を研究していた。1940年12月、Mauchlyの講義にAtanasoffが出席したことがきっかけで、2人は電子計算機の構想を話し合うようになった。

 その後すぐに、Mauchlyは人生を変えるもうひとつの出会いを経験した。電子工学に強い関心を抱いていたMauchlyは、ペンシルバニア大学ムーア校の講座に参加し、教壇に立っていたEckertと知り合った。1941年末にはMauchlyもペンシルバニア大学で教鞭を執るようになり、2人は計算処理に関するアイディアを交換するようになった。

 MauchlyとEckertは、それぞれ相手にはないスキルを持っていた。Mauchlyは物理学と数学の専門家で、若い頃は工学を見下していた。一方、フィラデルフィアの富裕な家庭の一人息子として生まれ、家族と共に世界中を旅したEckertは、幼い頃から機械いじりが大好きで、14歳のときには父親が所有するビルのインターホンシステムを構築している。このシステムは後に、Connecticut Telephone and Telegraph社に売却された。

 「Eckertは間違いなく、天才的な電気技術者だった。彼は20世紀最高のアーキテクトのひとりだ」というのは、カルガリー大学の名誉歴史学教授で、IEEE(電気電子学会)コンピュータソサエティの次期会長Michael Williamsだ。そしてMauchlyには、こうしたマシンを具体的に構想する力があったとWilliamsは指摘する。

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