--メディアには以前よりも中立性が求められるようになっているのでしょうか。
米国のメディア、特に先の大統領選挙の報道を思い出してください。私は誤解しているのかもしれませんし、昔は良かったと思いこんでいるのかもしれません。でも前回の選挙では、過去のどの選挙と比べても、メディアは報道の客観性を--そのポーズすら--かなぐり捨てていたように思います。Fox Newsのことだけをいっているのではありません。Foxは明らかに含みのある報道をしていますし、それを隠そうともしない。Foxのスローガンは「公平でバランスの取れた報道(Fair and Balanced)」ですが、それが建て前であることは誰もが知っています。
CBSの大統領軍歴誤報問題もあります。この件では、CBSの看板キャスターDan Ratherに最低限の期待もできないことが分かりました。
うまくいけば、Wikinewsはこうした異なる観点を統合する場となるでしょう。The New York TimesはAを伝え、Fox NewsはBを伝える--そしてわれわれはAとBを合わせたものをユーザーに提供する。これは主流のメディアにはできないことです。主流のメディアが健全で偏りのないジャーナリズムを実現できないなら、われわれが彼らに代わって、それをやらなければなりません。
--編集は金のかかるビジネスです--製作班の派遣にも、記者や編集者の雇用にも金がかかる。Wikinewsは独自の報道を行うのですか。それとも論評(commentary)に力を入れるのですか。
論評報道を行うつもりはありません。論説の類はできるかぎり避けたいと思います。これはwikiプロセスが得意とするものではありませんし、このコミュニティで実現するのは難しい。なぜなら、われわれはあらゆる人々に門戸を開いているからです。新参者を歓迎し、かつ自由に意見を述べることを許せば、Wikinewsは人々が好き勝手にわめくことのできる無法地帯になるでしょう。現在の仕組みでは、この事態を完全に避けることはできません。
独自の報道については、私はどちらかといえば懐疑的ですが、可能だという人々もいます。しかし、問題はある。あまり知られていませんが、 Wikipediaには200〜300人の熱心なボランティアからなる緊密なコミュニティが存在します。メンバーはお互いを知っており、コミュニティのなかで誰が尊敬され、誰が権威を持っているかも分かっています。ですから、記者を認定する仕組みを設け、各自の地元で自分やコミュニティにとって重要な問題を伝えてもらうという方法は考えられます。しかし、このやり方にはおのずと限界がある。
たとえば、私はフロリダ州のセントピーターズバーグに住んでいます。この地域で何か重大な事件が発生すれば、私は現場に急行し、それに関する記事を書いたり、地域住民に取材をしたりすることができるでしょう。その内容はニュース報道に負けないくらい信用できるものであるはずです。なぜなら、私はコミュニティやその周辺の人々と面識があり、敬意を払われている隣人だからです。しかし、ここはあくまでもセントピーターズバーグです。この町では事件というほどの事件は起こらない。私がワシントンDCの住民なら取材にかり出されることもあるでしょうが、それとは事情が違うのです。
--しかし、あなたがたとえばSt. Petersburg Timesの記者よりも信用できるとどうしていえるのですか。wikiの参加者はどうすれば信頼を得られるのでしょうか。
それはプロセスです。wikiのプロセスが信頼を生み出すのです。しかし、何よりも重要なのは結果でしょう。今の時点では、これがうまくいくかどうかも分かりません。半年たっても、われわれがまだ偏見に満ちた歪んだ記事しか書けず、目も当てられない状態であるなら、Wikinewsは閉鎖します。われわれは何よりも中立性を重んじているからです。
Wikipediaがはじまった頃は、これに気づく人も、気に留める人もいませんでした。われわれは取るに足らない存在でした。しばらくの間は誤解をしようが、間違いをしようが、トップページをぶざまな状態にしておこうが構わなかった。でも今回は違います。コミュニティでWikinewsの話をしはじめたとたん、ジャーナリストから電話がかかってくるようになりました。世界中が注目しているのです。
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