ネットという変容した世界に生きるということ

 2001年9月11日。アメリカ同時多発テロ事件。この悲惨な事件には犯人は存在しなかった、といえば厳密には間違いになるだろう。もちろん実行犯はいた。しかし、そこには、広範囲な地域で、同時に大規模なテロを実行するためは必要不可欠なはずな「組織」がなかった。

 代わりに、「サウジアラビア出身のアラブ人、ウサーマ・ビン=ラーディンを指導者とするスンニ派ムスリム(イスラム教徒)による国際武装テロリストのネットワーク」(Wikipediaより)であるアル・カイダが企てた、といわれているものの、どこまで一貫した計画があったのかは、依然として明らかになっていないという。

 それまで、僕らは国家や企業、あるいはそれらに準じた「組織化」された集団であれば、何らかの意図をもった活動がなされるのではないか、という認識を持っていた。故に、同時多発テロもあたかもウサーマ・ビン=ラーディンという人格が組織全体を体現しているかごとき報道になりがちだった。しかし、アル・カイダは「テロネットワーク」という自律的な個人の集合的な振る舞いであり、それがゆえに、組織だった軍による局所的な空爆では完全な壊滅は不可能だ。

 別にテロのノンフィクションを書き出そうというわけではない。ネットワークの性格を述べたかっただけだ。ただし、ネットワークといっても、IPとか、Ethernetとかではなく、人と人をつなぐコミュニケーションのネットワークのことだ。厄介なのは、物理的な法則に支配された世界であれば減衰し、発せられることはあっても他者にまで到達するがなかったコミュニケーションそれ自体とそのプロセスが、人と人をつなぐネットワークが、テクノロジーが実現するネットワーク(IPネットワークなど)と出会った時にそのまま目に見える形になるという、これまでに人類が経験したことのないリアリティが存在するようになったことだ。結果、物理的な世界、特にテクノロジーによるネットワークでつながっていないコミュニケーションで構成される組織のレスポンスが、とてつもなくトロく感じられ、面倒なものにしか考えられなくなってきた。

 もうひとつ厄介なのは、アル・カイダのような宗教という共有された価値観に裏打ちされたネットワークであればともかく、テクノロジーのネットワークに自由に接続した個人による集合的な振る舞いは予測できない。さらにこれをよりややこしくしているのが、ネットワークの事象を一旦垣間見て知るところとなると、その意図には関わらずGoogleなどのプラットフォーム上でその事象に巻き込まれ、発言など積極的な振る舞いをしようとしまいと、その行動そのものが事象に組み込まれていくというシステムになっているということだ。

 結果、個別行動そのものは理解可能であっても、その集合的な姿は構成する個別の行動主体が意図したものとは異なってくるという矛盾をはらみ、しかもそんな事象の比率は急速に高まりつつあるのだ。

 ネットの民間開放から数えても14年。ブロードバンドの普及から辿れば、たった数年の間に、それまでとは一変した環境になった。そして、それは一つの時間軸の延長上にあるとは思えないくらい変容した価値観と現実感に埋め尽くされている。2011年の地上波デジタル放送への完全置換(できるかどうかは、わからないが)によって完成される日本という国家の情報インフラ整備はあくまで幹線部分だけだ。

 より複雑で不可知性の高いネットワークの揺らぎを内包したケータイやWi-Fi、WiMAXなどのワイヤレスによるラスト・ワン・マイル・アクセスや、非接触通信のような1フィートのアクセス網は、今後も誰も整理できない形で成長していくのだろう。加えて、さまざまなアプライアンスのインテリジェント化も起こり、それらが織りなす複雑な構造は瞬時にイメージがつかないほどのものになっていく。

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