ENIAC誕生60周年--2人の科学者が作った怪物コンピュータ - (page 3)

文:Michael Kanellos(CNET News.com)
編集校正:坂和敏(編集部)
2006年02月17日 16時15分

アイディアの具体化

 Mauchlyは自分たちの構想を、「真空管装置の計算への応用」と題された5ページの企画書にまとめた。この企画書が提示したアイディアは、大学と政府の関係者を次々と説得していった。1943年6月5日、ついに開発契約(契約番号W-670-ORD-4926)が結ばれ、ペンシルバニア大学は米国陸軍兵器局のために、電子式微分解析機の実現可能性を研究することになった。

 当初の計画では、プロジェクトの期間は6カ月、予算は6万1700ドルとなっていた。しかし、実際の開発期間と開発費は、これをはるかに上回った。最初の非公開実験が行われたのは、2年半後の1945年11月である。開発費の総額は48万7000ドルに達した。見積もりは大幅に狂ったが、2人はENIACという工学技術の結晶を生み出した。

 演算とプログラミングの大部分は、6人の技師の手を介して行われた。この仕事は事務作業の延長と考えられていたので、当時の慣行にならい、女性が担当した。

 「彼女たちは最初のプログラマーだった。しかし、その功績は十分には認められていない」とMcLeod, Watkinson & Miller法律事務所の弁護士Kathryn Kleimanはいう。ネットプライバシーを専門とするKleimanは、ACM(米計算機学会)の「コンピューティングにおける女性」委員会の委員も務めている。

 最大の課題のひとつは、真空管の故障を防ぐことだった。ENIACでは、真空管を毎秒10万パルスで動作させる必要があった。真空管の数も膨大だったため、故障の危険は常にあった。Eckertは真空管を定格よりも低い電圧で動かし、システムが「変えうる限り最悪の条件」下で稼働するように設計することで、この問題を解決したとWilliamはいう。

 これとは別に、きわめてローテクだが、深刻さではひけをとらない問題もあった。それはネズミの害である。「ネズミが絶縁体をかじり、配線が切断される可能性があった。そこで、入手可能なすべてのワイヤのサンプルを檻に入れ、そこにたくさんのネズミを放して、ネズミが好まない絶縁体を見つけ、それを利用した」とEckertは1989年、バージン諸島大学の電子工学教授で、一家の友人でもあったAlex Randalのインタビューに答えている。

 1945年11月、ついにENIACを利用した初の本格的な実験が始まった。ENIACに課せられたのは、水素爆弾の研究のための計算だった。1946年2月14日には、軍関係者、ペンシルバニア大学の教授陣、さらに全国の名だたる科学者を招いて、公開実験が行われた。俗説と異なり、ENIACを稼働させたために、フィラデルフィア市が電圧低下に陥ることはなかった。また、兵士がENIACに敬礼することもなかった。

 市民がENIACに熱狂した、という俗説も事実とは違ったようだ。公開実験の直後から、ムーア校には他大学や研究者からの問い合わせが殺到したが、新聞の一面を飾ったにもかかわらず、ほとんどの市民はENIACに無関心だった。その後、市民の関心は徐々に高まるが、それはもっと後の話である。

 「公開実験の直後に、センセーションが巻き起ったということはない」と当時のエンジニアのひとり、Arthur Burksは書いている。「もちろん、専門家はENIACに大きな期待を寄せていた。しかし、その後のコンピュータの発展は、彼らの期待さえはるかに上回るものだった」

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