ソニー元社長出井氏--「きれいな富士山型」を描いた経営者の光と影 - (page 2)

技術開発つまずきの原因はビジョナリーでありすぎたこと

 その1つが「ビジョン優先主義」。出井氏はビジョナリストです。扇動家として有能だが、あまりに観念的でした。ビジョンを打ち出すことは、デジタルの行方がまだ定まらない1990年代後半においては有効でした。それがVAIOなどの成功にも結びつきました。ITという黒船が襲ってきた混乱期には、デジタルへのスローガンを打ち出し、巨艦をデジタルに向かわせたという点では、評価されるべきです。

 デジタル・ドリーム・キッズというスローガンは、アナログに浸っていたあの時期のソニーだから、効きました。しかし、次元が変わり、本格的な「デジタル製品の開発」に全力を投入すべきであった2000年以降になってもビジョナリーでありすぎたことが、悪い結果を招いたのです。

 それまで成功例だったVAIOを中心としたPC事業も、マイクロソフトのOSとインテルのCPUという構成から、デザインでは差別化できても、本質的に「自分の庭で勝手にやる」ことができず、ソニー的ではないことを強いられて魅力を失いました。出井氏は、絶頂だった2000年に次期のマネジメントに完全にバトンを渡していれば、このようなことにはならなかったでしょう。

 もう1つは、ライバルメーカーとの技術的な力関係が変わりました。私は当時、1995年を境に、ソニーの技術力が「相対的に」低下し始めたと判断しました。PSまで、独自技術により強力なフォーマットを作り、市場の支配に成功してきましたが、1995年、DVDフォーマット戦争で、初めて東芝、松下勢に負けました。ビデオではVHSに負けていましたが、ディスクでは圧倒的な王者でした。ところがDVD戦争で敗北。それまでの常勝が断ち切られただけでなく、この敗北は、ライバルメーカーを勇気づけたのでした。

 その後、ソニーの技術開発はつまずきの連続です。次世代ディスプレイのプラズマアドレス液晶(PALC)の開発中止、プラズマ、液晶、DVDレコーダーへの乗り遅れに加え、期待の有機ELも姿を現さない。私が今でも残念に思っているのが、HDDレコーダーの「コクーン」です。なぜ、あれにDVDレコーダー機能を付けなかったのか。あの時点で、「おまかせまる録」のコクーンにDVDレコーダー機能があれば、鬼に金棒だったのにと、今でも残念に思います。技術開発を大胆に舵取りしなければならない時代に、先が読めなかったのでしょうか。

 当時、ソニーのていたらくをみていた私は、ここから、ソニーがやらなければならないのは「ソニーらしい、ソニーならではの画期的な製品」を作ることだと強く思いました。デジタルは「諸刃の刃」です。扱う人の考えひとつで面白くも、つまらなくもなります。デジタルがもたらす普遍性、均一性、低コストの面ばかりに着目すると、平凡なものになってしまいます。しかし、切り口がとびきりユニークで個性的なら「ワン・アンド・オンリー」の他の追随を許さない展開も可能なのです。

 では、それをどう開発するか。私は、自分が面白いと思うことをする井深型の開発リーダーシップこそが、当時のソニーに求められていたことだと思っています。ソニーの魅力は、設立当初に井深氏が設立趣意書で掲げた「自由闊達」の精神に尽きます。この考えでソニーは、ワン・アンド・オンリーの商品を数多く生み出してきました。それが「井深型の開発」です。

 井深型の開発を継承し、推進してきた人物がソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の元代表取締役社長の久夛良木健氏です。彼はソニーの次期社長とも目されていた1人。しかし、当時のソニーの執行部を占めていたのは文系出身の取締役が主流だったため、独自開発していた半導体「Cell」は、久夛良木氏が陣頭指揮を執っていたにもかかわらず、「プレステにしか使わないCellにいくらつぎ込んでいるのか」という批判が相次ぎました。これは折しもソニーが業績悪化に最も喘いでいた時代の出来事でした。

 2000年に出井氏は、社長職を安藤国威氏に引き継ぎ、自身が会長兼CEOに退き、2005年に社長を中鉢良治氏にしました。中鉢氏の社長就任会見で、出井氏は中鉢氏の社長就任理由を問われると「グッドリスナーだから」と答えたのです。グッドリスナーとは"良き聞き手"です。つまり自分のことをよく聞いてくれる、尊重してくれるという意味なのでしょう。

 ではバッドリスナーなのは誰だったのか。とある評論家は当時、「退任する社長は、自分の影響力を残しておきたいもの。出井さんは、久夛良木さんを後任に指名したら、自分を全否定しかねないという防衛本能も働いたのでは?」と分析していました。

 出井氏が会長兼CEOを務めた2000年から2005年、ソニーの苦境は続きます。売上高の6割を占めるエレクトロニクスの不振が表面化し、2003年4月、業績の大幅な下方修正を発表。ソニー株は暴落し「ソニーショック」と呼ばれました。

 出井氏が導いたハードとコンテンツの融合戦略は、実際のビジネスでは思ったほど相乗効果が出ませんでした。実のところ、ネットを通じた音楽配信とデジタルオーディオプレーヤーを組み合わせた事業を始めたのは、米アップルよりもソニーのほうが先。しかし「コンテンツの著作権をきちんと守ろうとする余り、ハード側の制約が大きくなり、使い勝手の悪いものになってしまった」(ソニー幹部)。当時のインタビューで出井氏は「今は融合段階。2006年からは統合。ここがパナソニック(当時の松下電器産業)や韓国のサムスン電子と違うところ」とコメントしていました。

 会長職となった当時の出井氏を評論家でジャーナリストの立石泰則氏(『さよなら!僕らのソニー』著者)は、「会長になった出井氏は、現場に関心がなくなり、世界を飛び回った。他方、コスト意識をもたせるためにとEVA(経済的付加価値)という業績評価指標を導入した。EVAは研究開発など先行投資が必要となる事業にはあまりなじまないもの。この導入をきっかけにソニーは長期投資をしなくなり、その結果、リスクを避けて各事業部がみんな二番手商法になってしまった。その結果、ソニーらしさがますます失われていった」と評しています。

ソニー最高級ブランド「クオリア」戦略は正しく、戦術が間違い

 その頃、出井氏が手掛けた商品で思い出深いものがあります。それが「QUALIA(クオリア)」です。クオリアはソニーの最高級ブランドを謳い、プロジェクターやデジタルカメラ、ヘッドホンといった製品群で構成されました。結論から言えば「クオリアには大変良いものもあったし、その一方でよくないものもあった」というのが私の感想です。当時、私とのインタビューの中で出井氏は「1990年代以降、ベクトルをAVからITへとシフトしてIT化を進めてきたのだが、そのIT指向が効きすぎた。そのアンチテーゼとして作ったのがクオリア」と答えています。

 また、「飛行機の中で週刊誌に掲載された私と小沢征爾さんの対談記事を見ていたら、同じ号に『クオリア』のことを、ソニーコンピュータサイエンス研究所の茂木健一郎さんが話していた。早速読んでみたところ、中味は難しくで、よく分からないところもあったけれど『数字に表せない質感』というものを人間は感じる、とあり、これだと膝を打った」コメントしており、その瞬間、出井氏はクオリアをソニーの新しいものづくりのキーワードにしようと決めたのですね。

 「人はなぜ夕日を見て感動するか」「音楽を聴いて涙を流すのか」という「感覚に伴う独特の質感」がクオリアです。ユーザーが、その製品を持った瞬間にクオリアを感じるような製品づくりに、ソニーは立ち返らなければならない、と出井氏は思ったのでしょう。

 インタビューの中で、出井氏は「CD以降、量産化が趣味の産業を大衆のものにはしたけれど、昔のオーディオには、ムービングコイルのカートリッジがどうとか、トゥイーターを替えたらどうとか、そういう楽しみがあった。ソニーだけではないのだけれど、日本のメーカーは一流品にチャレンジすることに、今まで目をつぶってきた感じがある。それでは困る」と話していました。

 なかでも特筆すべきは、AVとITの関係について触れた部分。「1980年代に、私がオーディオ事業部長をやった時は、アースの取り方ひとつで議論する人がたくさんいた。ところがデジタル時代になって、私はAVのAとVの間にIとTを入れていたのだけれど、いつの間にか、それがITの中にAVがある逆の形になってしまった。そんな思いを抱いていた時、クオリアという言葉に巡り会って『コレだ』と思った」と話していました。

 私は当時、クオリアであれば、通常の商品ラインで出せないようなハイエンド製品が作れることに大いに期待し、これがソニー社内の活性化につながるだろうと考えていました。

 この時、出井氏はクオリアに関するこんな秘密も教えてくれた。「クオリアには『Q004』『Q015』といった型番がついているが、これ実は出来上がった順番。ない型番があるのは、商品化にまで至らなかったから。クオリアが目指すのは長く、満足していただける製品。それには2つの方向性があり、その1つはグレードアップ、もう一つはディフュージョン。ファッション業界で言えば特注品のオートクチュールがあって、そこから既製服のプレタポルテが出てきて、量に結びつくというビジネスの流れがある。だから、クオリアのディフュージョン版というのは当然ある」

 クオリアについてはさまざまな評価ができますが、私が思うのは「大戦略は決して間違っていなかったが戦術に問題があった」ということです。クオリアのように究極のモノ作りを追求する思想は絶対に正しいと今でも思っています。その後に社長になった平井一夫氏が、徹底的に「感動」を訴えたのも、その源流はクオリアでした。

出井氏が見せた見事な会見さばきと少し弱気の本音

 社長就任前の記者会見で思い出深いシーンがあります。1995年2月に開かれたDVDに関する緊急記者会見。当時出席すると思われていた副社長ではなく、広報担当常務だった出井氏がたった1人で出席しました。

 この時DVDは、貼り合わせ方式の東芝陣営と単板方式のソニー、フィリップス陣営で規格争いをしていました。出井氏は、東芝からの陣営入りの誘いを蹴って、あくまでも、自社の単板方式DVDで突っ走ることを表明したのです。技術系出身ではない出井氏に対し、記者たちからは技術的な厳しい質問も飛びました。それを鮮やかにさばいた姿は本当に見事でした。

 東芝陣営が他社の支持も集めつつあり、ソニー、フィリップス連合は2社のみ。その状況でも出井氏は「1月にハリウッドで実施したデモでたいへん良い評価を得たことで、独自規格に自信がでてきた。技術の進歩は切磋琢磨の中から生まれるものであり、妥協するのはやめようと判断した」と言い切っていました。出井氏が社長に就任するのは、わずか2カ月後のこと。

 一方で、ホームビデオ事業本部長時代、後発としてS-VHSに参入した時は「各社はもう何世代もS-VHSを作っていて、そういう相手と比べると、ソニーは若葉マークなのだが、市場はそうは見てくれない。もう少し時間をかけて勉強したかった」と、少し弱気の本音も明かしていました。

 S-VHS参入当初、ベータを長く推進してきたソニーはビデオ市場で大きな遅れをとっていました。その時に「意見を聞かせてもらいたい」と声をかけられたことがあります。私がいくつかアドバイスを述べると、それに対し耳を傾け、熱心に聞いてくれました。周りの人の意見も真摯に受け止めてくれる人でした。ただし、言葉はぶっきらぼう。しかしどこかチャーミングな人、というのが私の出井伸之氏の印象です。

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