クラウドサービスの普及により、医療機関でもITシステムの利用が近年急速に拡大してきた。しかし、いまだに多くの医療現場では電子カルテの導入はされてもデジタル化による業務効率化は不十分と言われている。その理由の一つは、現場ごとに全く異なるニーズが存在し、現場のニーズを満たすシステム開発とその継続的な改善に多大なコストがかかってしまうことだという。
システムの普及と医療現場の業務効率化には、あらゆる医療ニーズに応えられるような開発の柔軟性を備えていなくてはならない。そうした課題を乗り越え、全国の大病院に次々と採用されているのが、TXP Medicalが提供する「NEXT Stage ER」という救急外来向けのシステムだ。
開発したのは、救急・集中治療の専門医であり、同社の代表取締役でもある園生智弘氏。開発に用いているのはClarisのローコード開発プラットフォーム「Claris FileMaker」で、同氏は「他に代わるものがない」と言い切る。なぜ大病院向けシステムの開発にFileMakerを選んだのか、その背景を伺った。
園生先生ご自身は、もともとプログラミングやシステム開発の経験はありましたか。
開発経験はなかったですね。学生時代を含めてエンジニア的なバックグラウンドは全くなく、大学卒業後に救急部の後期研修医として東京大学医学部附属病院(東大病院)に入職後しばらくするまで、開発とは無縁でした。ただ、目上の先生方がFileMakerで何らかのデータベースを作られていることは1、2年目の初期研修医の頃から知っていました。ドクターはFileMakerを利用する方が多いんですよね。
FileMakerを自ら使い始めたきっかけと、創業の経緯を教えてください。
自分がデータベースの必要性を強く意識することになったのは、3年目に東大病院の救急部に入局したときです。当時は救急外来に来る多くの患者さんを診ていたのですが、その情報が何も残っていませんでした。当時、Excelの入院患者台帳はあって、入院することになった方については名前、生年月日、病名などを入力していたのですが、それ以外の方の情報はなく、Excelで管理するやり方もすごく非効率だなと思っていました。
4年目に入って、あまりにも非効率なので、救急外来の患者さん情報は全部データベース化しようと提案して、同僚が活用していたFileMakerを学習しました。その時にFileMakerだとこんなに簡単にシステム開発できるんだ、と知って、自分でもICUの診療データベースや救急外来用のシステムを作りました。
7年目、東大病院を離れて北関東有数の症例数を誇る日立総合病院に勤務することになったのですが、そこで改めて自分でゼロから作ることにしました。そこで救急外来で使えるシステムとして設計、構築したのが、今のNEXT Stage ERです。その後、急性期医療の分野で同じ課題を抱える全国の病院で使えるようにしたいと考え、データに基づく質の高い急性期医療が提供される世界を実現することを目的として、2017年8月にTXP Medicalを設立しました。
病院の先生方はFileMakerを利用する方が多い、というお話がありました。他にもNEXT Stage ERのような医療システムを開発しているドクターは多いのでしょうか。
似たようなシステムを作れるお医者さんは日本中にいると思っています。私が知るだけでもFileMakerエンジニアを兼ねている医師の方は何人かいらっしゃいますし、自分たちの使いやすさにこだわったアプリを作られているようです。
ただ、私はNEXT Stage ERを作るとき「全国の病院で使えるものにしたい」という思いがありました。そのためには自分のいる病院で100点満点のものを作るのではなく、他の病院でも使えるような汎用性あるシステムにしなければいけない。いくつかの医療機関ではFileMakerエンジニアでもある医師が、その病院に最高にフィットする形で作っていますが、その医師が異動したときにメンテナンスされなくなってしまうシステムでは受け入れられません。
当社では最初からNEXT Stage ERを全国の病院に展開するためにはどうすればよいかを考えながらシステム設計、開発してきたからこそ、現在、全国の病院に展開できていると思っています。
開発にFileMakerを選んだことによるメリットはどんなところにありましたか。
アイデアを形にするまでの時間が短い。つまりは、要件定義と実開発が1人でできることですね。医師として現場に関わる医療従事者がFileMakerを利用することで、ローコストかつ短期間でニーズに沿ったシステムが生まれます。もし、NEXT Stage ERと同等のものを外部委託で開発していたら、完成まで5年、費用も1億円は下らなかったんじゃないかと思います。
なぜなら、救急外来など複雑かつ多様性の高い現場の業務をシステム化するときの要件定義が難しいからです。業務を言語化して、それをベンダーに伝えていいものを作り上げる、という一般的なプロセスを踏むと、現実的にかなりの開発費用が必要になります。医療の現場を理解している医療従事者であれば、他病院へのシステム展開も容易にできてしまうのはFileMakerの強みですよね。当社の従業員には、常勤医師のほか、看護師、薬剤師なども在籍しています。医師でありながらエンジニアとしての業務もこなすスタッフが5人いるので、多様性の高い医療機関に細かいレベルでカスタム対応ができることが当社の特長になっています。
ビジネスとしてサービス展開していくというところで、FileMakerならではのアドバンテージはあるでしょうか。
とにかく開発工数が少なく済む点です。例えば大病院の救急救命センターにおける業務オペレーションは大筋では共通していますが、細々としたところではたくさんの違いがあります。NEXT Stage ERでは、最大公約数的にコア機能は標準化し、病院単位のカスタム対応は可能な限り契約した固定費用のなかで対応しています。これができるのは、ローコード開発プラットフォーム Claris FileMaker だからこそだと思います。
現在60の急性期病院に対してNEXT Stage ERを提供し、運用・管理を行っていますが、個別のカスタム要望に対応する専属エンジニアはわずか4人です。1つの病院から多いときには一度に100を超えるカスタム要望をいただきますが、そのほとんど全てに2~3週間で対応できています。60病院のシステムを並行運用しつつ、4人のエンジニアでカスタム対応し、顧客の高い満足度を実現するツールがFileMakerの他にあるかというと、ない。もしあるなら教えてほしいくらいです(笑)。
FileMakerの機能面で利点と感じているところはありますか。
まずAPI連携ができることですね。私たちはOCRや音声入力のようなAI関連の技術も内製しています。例えば、救急車で搬送される前に、救急隊がiPad ( Claris FileMaker Go )で、保険証、運転免許証、お薬手帳を撮影して搬送患者の情報をアプリにOCRで自動入力したり、救急車の中で取得するバイタル情報(心拍数・呼吸数・血圧・SpO2)の画面を撮影してAI解析したものをAPI経由で FileMaker Goアプリに自動入力したりもしています。 他にも、フロントのインターフェースだけWebシステムとして実装しておき、データのやり取りはFileMaker Serverと直接行う、といったシステム構成をとることも容易です。
また、FileMaker 19以降ではJavaScriptでモダンな画面設計も可能になっています。わかりやすい、今どきの見た目のインターフェースで入力できるようになっていますし、当社の社内ツールでも病院のシステム導入数の推移グラフをFileMaker 上に組み込んだJavaScriptできれいに描画していたりします。かつてのFileMaker旧バージョンで課題だったインターフェース上の制限も最近はなくなりつつありますので、できることの幅が広がりました。
もともと私は、あるべき理想の形は必ずしも現在の延長線上にあるわけではない、紙よりもITで形にして見せられないと変われない、といった考え方で事業を展開してきました。その意味では、FileMakerはモックアップの形で画面を見せるのにも、ものすごく都合がいいですよね。2パターンの画面を簡単に作成して、現場ではどちらが使いやすいですか、とすぐに確認したりできる。そうやって素早く現場と擦り合わせをしていけるのもFileMakerの大きなメリットだと思います。
病院で稼働するシステムということでセキュリティにも気を使うと思いますが、その点でFileMakerはいかがですか。
病院で運用するプロダクトは、通常は既存の電子カルテのネットワークの範囲内に置くことになるので、セキュリティ上懸念することはありませんが、それでもFileMakerは通信、データベースを含めて様々な暗号化技術により高いセキュリティを保っています。また、クラウド型のシステムにする場合はしっかりとしたセキュリティレベルで運用しないといけないですから、運用ベンダーである我々が責任を持たないといけません。
その点、FileMaker Cloud自体が医療情報の安全管理ガイドラインの規定を満たしているうえ、バックエンドのAWSとともに高いセキュリティレベルを実現していますから、非常にポジティブに捉えています。私たちがクラウド型のシステムを提供する相手は、医療機関だけでなく自治体や消防機関もあり、セキュリティ関連の決めごとはかなりシビアです。が、FileMaker CloudやFileMaker Serverの高いセキュリティ基準を説明すればご納得いただけます。
参照:https://support.apple.com/ja-jp/guide/certifications/apc34d2c0468b/1/web/1.0
NEXT Stage ERは大病院向けとして作られたシステムですが、小さなクリニックなどが業務を効率化するためにデジタル化していきたいとき、FileMakerは役に立ってくれそうでしょうか。
もちろん役立つと思います。ITリテラシー次第ではありますが、比較的簡単にツールを作れてしまうのがFileMakerの良さですよね。当社では、FileMakerでの開発経験がない新入社員を社内のエンジニアが教育することもあるのですが、半年もあれば業務レベルで開発に携われるレベルになります。FileMakerの学習コストはとにかく低くて、すぐに実開発に移れるように感じています。
市販の電子カルテのシステムだとカバーできない、自分たちの業務のかゆいところに手が届くようなツールを作るのは大いにありだと思います。
今後FileMakerをどのように活用していきたいとお考えですか。
FileMakerを使用するのに最適なところと、そうでないところがあると思っています。FileMakerが適しているのは、先ほどのようなカスタマイズが頻繁に発生するところですね。
一方で、toC(一般ユーザ)向けのサービスや、広く無償で提供していくような医療サービスに関しては、FileMakerだとコストが見合わないケースもあります。何がFileMakerに適しているのかをしっかり見極めつつ、私たちの製品を救急病院・大病院向けのシステムとして日本で当たり前の存在にしたいですし、海外でも広く使われるものにしていきたいです。
医療分野においてはIT化が進みにくいなどの課題があるとは思いますが、今後、医療分野の課題をどう解決していきたいとお考えですか。
最終的に目指していきたいのは、医療の質の可視化です。現在は記録システムとしての電子カルテがあり、患者さんの医療情報を言語化していますが、その患者さんが重症なのかそうでないのかは文章を読んで人が判断する必要があります。本来ならそうではなく、より良い医療提供体制を作るためにも、患者さんの最新の状態をリアルタイムにデータとして構造化しておくべきだと思うんです。ただ、そのようなデータの構造化は入力する側に大きな負担がかかるんですね。
少子高齢化が進む現在、医療従事者の負担を楽にしながらも、そういった患者さんのデータを手間なく構造化して蓄積できる世界をITシステムで当たり前にし、データを解析・統合することで可視化していきたい。その先にさらなる医療の質の向上と、患者さんに寄り添う医療サービスが提供できるのではないかと思っています。