生前退位後のお住まいは?~明治天皇も昭和天皇も京都を目指した~

地域政党京都党 2017年02月23日 14時17分
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今上天皇の退位が現実味を帯びてくる中、退位後の諸整備がこれからはじまり、お住まいについても検討が始まろうとしている。
現在、報道が先行して、赤坂御用地や吹上御所などの名前が挙がっているが、一方で、陛下のお住まいになる場所である御所を抱える京都も妥当な候補地だと言える。
 歴史的背景を見てみると、天皇家は、明治二年、京都から行幸啓(ぎょうこうけい・外出の意)に出られて以来、京都御所の紫宸殿に天皇の玉座である高御座(たかみくら)を残したまま、東京の皇居にお住まいになられている。
その為、未だに京都では「天皇さんはいつかえってきゃはるん(来られる)やろ」という人間は多い。ちなみに、京都人は長く親しみを込めて天皇さんと呼んできた。
第2次大戦の戦火を市中の大部分では免れた京都にとって、戦後といえば戊辰戦争後からはじまる。明治天皇が東京にお移りになったことに併せて、公家、御用商人などは続々と京都を去り、当時人口が激減し、その数は文献によってまちまちだが、三分の一になったとも五分の一になったとも言われている。宮家屋敷、公家屋敷が取り潰され、町はかつての活気を失っていった。そんな折、明治10年に京都に行幸された明治天皇は、京都の寂れた姿を大層お嘆きになり、京都に対して多くのご配慮をなされた。世界中から多くの方々が訪れる即位礼・大嘗祭(だいじょうさい)は引き続き京都で開催され、取り壊す予定だった御所は保存が決定し、11年の歳月をかけて今の京都御所の姿になった。また、明治天皇のお墓である御陵は東京に置くことが決まっていたにもかかわらず、陛下は最後まで京都に戻りたいという思いをずっと抱かれ、京都の伏見桃山に置くことをお決めになったのは明治天皇ご自身だったと歴史学者のドナルド・キーンは語っている。これらのご配慮によって弾みがつき、没落しつつあった京都は見事に復活をとげていく。当時、第1回から第3回まで東京で実施されていた万国博覧会(内国勧業博覧会)を京都に誘致し、日本初の市電が走り、日本初の大型トンネル型疎水「琵琶湖疏水」が開設され、日本初の水力発電所が設置されていった。実質、政治的な働きかけを行い、采配を振るったのは岩倉具視だが、明治天皇のご配慮あってのことであることは言うまでもない。
昭和に入っても再び、京都が舞台に急浮上した。第二世界大戦は日本の降伏で終わりを告げ、日本はGHQの占領下に置かれた。GHQの要求は強く、敗戦処理内閣である東久邇宮内閣では昭和天皇のご退位は避けられないとの判断の中、近衛文麿副総理によって、譲位やむなし、しかるべきのちは京都御室の仁和寺にお住い頂いてはどうかと具体的に検討されたという経緯がある。結局、譲位は免れ、天皇は象徴として維持されることになるのだが、このように、譲位が検討されるたびに、京都はご譲位後のお住まいの候補地になってきた。

さて、陛下が執務、お住まいになる御所は全国で6箇所だが、その内訳は3箇所が東京で(吹上御所、大宮御所、東宮御所)、残りの3箇所は京都(京都御所、京都大宮御所、仙洞御所)に存在している。また御用邸と呼ばれる別荘は葉山・須崎・那須にあるが、陛下の正式な別荘(宮殿)である離宮は2箇所で、修学院離宮、桂離宮と、共に京都にある(これら以外、例えば浜離宮などは全て元離宮扱いで、史跡になっている。)高御座と呼ばれる玉座も、一度は即位礼で東京へ運び込まれたものの、再び京都へ戻されている。
また、通常、上皇のお住いを「仙洞御所」と呼びますが、既に仙洞御所は京都御苑にあります。これらは、京都が譲位後のお住まいとして極めて正統性をもった場所だともいえる。
そんな京都で今、じわじわと皇室の歓迎ムードが広がっている。京都府、京都市では双京構想で「皇室を京都へ」と唱え、地元の地域政党を中心に署名活動が展開している。いずれにせよ、結論の日は近い。
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