先週月曜日の「インターネットの普及がもたらした学習の高速道路と大渋滞」にはたくさんのトラックバックやコメントをいただいた。羽生さんの「高速道路と大渋滞」という比喩が、人に何かを考えさせ、語らせる普遍的な力が持っていたのだろう。興味のある方は是非、トラックバックやコメントを読んでみてください。
意外で面白かった反応は、
「折り紙の世界でも同じようなことがおきているなあ、としみじみ思う。」
という「blog.鶯梭庵」による一行コメント。またそれを読んだ「折り紙の叫ぶ夜」宮島登氏の
「折り紙界にも高速道路が出来たなぁ。前川淳さんをはじめとした先輩方が築いた高速道路を私は快適に進んで来たのだろう。でも最初は道が空いていたんだけど、最近は後続車の勢いがすごい。果たして抜け出すことができるのだろうか。」
というコメントだった。こういう意外な反応があることが、インターネットの面白さの一つである。
さて、さまざまな反応を読んで、「皆どれも、僕の反応とは違うなぁ」と思った。何かを読んでの反応というのは、その人自身を映す鏡のようなものである。だから、なぜ僕の反応は違うのだろう、といろいろと考えさせられた。
高速道路が敷かれている世界といない世界
それでよくわかったのは、「自分が進もうとしている世界に、もう高速道路が敷かれているのかいないのか」ということを僕は常に考えてきた、そして、「高速道路」が敷かれてしまっている世界を避けて、まだ「高速道路」が敷かれていない世界をいつも選んで歩いてきたのだなぁ、ということだった。
過去からの情報の蓄積が重く、それが分厚く体系化されて「大きな世界」が構成されている領域というのは、昔からある。古くからある学問の世界は皆そうだし、エンジニアリングの世界でもビジネスの世界でも、長い歴史がある分野にはそういう傾向が強い。体系化された「大きな世界」を何年も何年もかけてマスターしてはじめて、その先ではじめて某かの創造性が発揮できるというのが、こういう世界での基本ルールだ。それを逸脱してこうした「大きな世界」で成功する人も稀にいるが、そんな人はまた違った尋常でない才能の持ち主である場合が多い。
はっきり言えば、僕自身、こういう世界でやっていける才能や実力が全くなかった。それは20代前半、大学院にいる頃に気づいて愕然とした。自分には、先人たちの成果の最先端までたどりつくべく、わき目もふらずに「高速道路」を疾走するという気質・根性が、決定的に欠けていたのである(インターネットのない頃から、体系的な勉強の仕方という意味での「高速道路」は、いろいろなところに整備されていたのである)。
そのかわり、いつも、何が何だかよくわからない生まれたばかりの世界のルールを見つけようとしたり、異質なものを二つ、三つ組み合わせて誰もやっていない世界を想像したり、そういうところばかりに関心があった。
はじめは数学を志していたのだけれど、数学なんて有史以来の叡知が蓄積されて巨大な体系が作り上げられていた世界で全くダメである。向かない。それで比較的歴史の浅いコンピュータサイエンスに転向して、ソフトウェアを勉強した。1980年代前半といえばまだまだ今と比べてソフトウェアの世界も牧歌的ではあったが、それでもこの世界を垣間見るにつれ、先人たちの叡知の蓄積が分厚くあることがわかり、これもなかなか抜け出すのは大変であると思った。自分が某かの創造性を発揮できる前に挫折してしまいそうな予感があった。それでもっと歴史の浅い、「経営コンサルティング」(当時は、今よりももっと「いかがわしい」と思われていた)という領域に進んだ。
そこに入ってみてわかったのは「経営」の世界でも、若い始まったばかりの分野と成熟した分野があるということだった。それで、成熟したところとそうでないところを腑分けしては、若い領域を選んで歩いてきた。80年代後半に「コンピュータ産業専門の経営の考え方」なんて、本など一冊もなかった。「高速道路」なんてなかったのだ。だからそういう世界を専門に選んだ。90年代前半から自分のテーマは「シリコンバレー」になって、94年から住み着いてしまったわけだが、生まれるのが10年遅かったら「シリコンバレー」を専門には選んでいなかっただろう。
それは、「高速道路」がないあんまり誰も知らない新しい世界が、自分に向いているとわかっているから。「高速道路」が既にある世界に進んで勝てる頭の良さや才能はないけれど、「高速道路」のない世界でゴチャゴチャとやっていくのは得意だ。
巨大な体系を極めた上での学問的創造やエンジニアリング上の大発明などに比べればちんけなものかもしれないが、それなりに新しいことを考えてやってきて楽しかったし、達成感もあった。
高速道路を避けて生きる生き方
羽生さんの「高速道路と大渋滞」の話を聞いての感想は、20年前と今と比べて、「高速道路を避けて生きる生き方」というのは狭まっているのか否か、つまり僕のようなタイプの人間は生き難くなるのか否か、ということであった。インターネットやITが進展しようがしまいが、人間のほうはそうそう変化するものではないから、高速道路を走る競争に向かない人間はたくさんいるものね。
たぶん答えはニュートラルなのだと思う。まぁそう思いたいというのもある。
ITやインターネットというのは、ありとあらゆる可能性を増幅する存在でもある。あんまり誰もやっていない新しい世界の存在を探すことも、インターネットではより容易になった。いくらすべての情報が体系化されつつあると言っても、おそろしく層が薄い分野というのがすぐに発見できるのも事実。異質なものを異質なものと組み合わせていけば、さらに無限の可能性が広がる。インターネットは、古典的な分野での頂点に立つための「高速道路」整備を促進しただけでなく、自分だけの新しい世界を戦略的に探索していく生き方を支援する道具としても進化しているのだと思いたいものである。