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CNET Japan ブログ

Blogに見る言論の新しいスタイル

2004/02/27 09:43
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umeda

シリコンバレーで経営コンサルティングを行なう傍ら、ベンチャーキャピタリストとしても活躍する梅田望夫さんが、IT業界の先を読むのに役立つ英文コンテンツを毎日紹介していきます。これを読めば、英語と業界動向を読む力が同時に身に付くはず(このブログの更新は2004年12月30日で終了しました)。
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一昨日の「Blogでバーンアウトする人と、しない人の違い」には、あっという間に思いがけずたくさんのトラックバックやコメントをいただいた。ブルース・シュナイアー氏に会った勢いで書いたものだったので、言葉足らずの部分もあったし、いつもながらいただいたご意見を読んで考えたこともあるので、今日はそれに少し補足したいと思う。

分類的思考のメリット・デメリット

まずはエディテックからのご指摘。梅田には「分類癖」がある。だが、そのような分類的思考が強く出すぎると本質を見誤る可能性がある。「信念・意見表明系」の反意語が「観察・啓蒙系」となるわけではない。Bloggerをこの二つに分ける考え方が全くわからない。というもの。

まず、「分類癖」と呼ぶのがいいかどうかわからないが、僕に強い分類指向があるという指摘は100%正しい。自分を取り巻く環境をできるだけ「分類」して見通しのよいものにしたいといつも考えているし、戦略コンサルティングという自分の仕事においても、僕が出す価値の特徴は「分類」に源を発しているケースが多い。

これまでも何かといつも分類をし続けているので、エディテック氏からのご指摘に類する批判は、特に僕の仕事の現場で(書いたものに対してというよりも)、過去に無数に受け取った。僕の場合、ある事象を、あーでもない、こうでもない、といつも分類の切り口を探しながら見つめていて、自分にとってしっくり来る切り口が見つかったとき、その切り口を軸に物事を分類して、そこから論理を組み立てていく。よって、その僕にとって「しっくり来る切り口」というものに全くぴんと来ないと感じる人からは、ちょっと待ってくれよ、最初の分類から同意できないのに、その上に論理を組み立てられても困るよ、という話になる。当該事象について、自分の頭でよく考えている方からの批判である場合が多い。

分類的思考が強くなりすぎると本質を見誤るリスクは、確かにある。たとえば、今回の「信念・意見表明系」と「観察・啓蒙系」。こういう分類ではこぼれてしまう視点が出てくる。そもそも分類などをした瞬間に大切なものがなくなっていく、と考える人もいるのはよく知っている。ただ、半分くらいの人が「なるほど、そういう分類の仕方があるんだなぁ」と思ってもらえるような切り口を提示できたときは、建設的な議論の中で、こぼれ落ちた切り口が新たに提示されることが多く、それがたとえばもう一つ垂直の切り口を提示し、全体をマトリックスで分類できるようになったりして、議論が発展していくケースをずいぶんたくさん経験してきた。また、たとえば、今回の「信念・意見表明系」と「観察・啓蒙系」に限らず、分類にはグレーゾーンが存在するから、厳密で学問的な議論が好きな人からは、分類の定義が曖昧だという指摘もいつも受けている。まぁそれでも、現実世界ではこういうアプローチもときに有効だと、我田引水かもしれぬが、そう考えている。以上がイントロ。ここからが本題。

「観察・啓蒙」型の「信念・意思表明」

さて、いろいろいただいたコメントから整理できたのは、「観察・啓蒙系」というのは、「観察・啓蒙する対象を選び、そのことを書く、という行為によって、信念・意見表明をしている」、という考え方である。

たとえば、fantasticmetaphorsからの

「「信念・意見表明系」と「観察・啓蒙系」という分類があるのかぁ、とも思いますが、どの分野を観察しているかというところで自分の信念を表明しているようにも思います。たぶん、メイドについての信念を語っている人も世の中にはいるでしょうけど、それを観察するblogを書くっていうのは「メイド好き」って信念をある意味で提示していると思います。完全な観察・啓蒙系はNHKニュースになってしまうと思いますし、その完全な観察・啓蒙系と信念・意見表明系の間に連続した空間があるのではないかなぁ、という気もします。」

そう確かに僕は、NHKニュースや一般の新聞記事のようなものをイメージして、「観察・啓蒙系」と書いたのではなかった。

それから、結城浩さんのwww.textfile.orgからの

「結城の場合には「観察・啓蒙」を通して「信念・意見表明」していることになるのだろうか、どうだろう。」

というのは、短い自問コメントだが、本質的だと思った。

また、cartapacioからの

「ここで仮に全く反応がなくてもBlogを続けていける人というのは、その内容が「共感・啓蒙系」のように一見思えても、実は作者自身が「信念・意見表明系」な何かを本当は持っているんじゃないかなと、ふと考えてしまった。」

は、「信念・意見表明系」の何かが秘められているからこそ「観察・啓蒙系」のBlogが継続できるのだ、という指摘である。

SW's memoからの

「この文脈での語りたい何か、宗教経典のようなメッセージは確かに持っていない。あるべき理想の状態、信念体系があり、手を変え品を変え表現していくことで、世の中にいくばくかのインパクトを与えることを意図して書き続けているのではない。むしろ、長い時間をかけて解答を探し求めるプロセス、自分が日常的に行っている活動の一部をオープン化している(ただし、テーマ性を持たせて多少は読みやすく)という方が現実の動きと感覚に近い。

では、何も目的が無いかと問われると、それもまた微妙に異なっている。FPNほど明確なサイトテーマは打ち出していないものの、「(情報)技術の進化はビジネスや世の中に根本的なインパクトを与えるはず、その動きを的確に捉えて本質を炙り出したい」という意識している方向性はあるにはある。」

そして、FPN・杉本氏からの

「自分自身は、好奇心の対象が頻繁に変わる浮気性という性分なもので、しかも、「あっ これ面白そう」と思い立ったら、すぐにそれをまず調べ上げたくなる。自分なりに理解して、そこから具体的に人に会うとか、自分でやってみるという行動に移していく。そうすると、「やっぱりこれは自分のやりたいのとは違うかなあ」なんてことで、また別の対象へと好奇心が移っていく、というサイクルがあるんですね。基本的には、このサイクルをそのまんま、露出している場の1つが、ここのFPNサイトです。

ただ、こういうサイクルをまわっていると、繰り返し立ち戻ってくる対象というのがあるわけですね。しかも、次回そこへ戻ってきたときには、さらに好奇心の深みが備わってきているのです。そうやって螺旋状のサイクルのなかで、自分が本当に興味をもってエネルギーを投入したい分野が何なのか、それがなんとなく見えつつある最近です。

そのときに、blogのかたちは「信念・意見表明系」になっていくのか、ちょっと分からないところでもあります。

もともと別に議論が好きじゃないですし、よっぽど自分の進む道に立ちはだかる障壁でない限り衝突する必要もないと思う質なものですから。

ただ、なんといっても、自分がちょっと思いついたり面白いと思ったことを放り投げておくと、しばらく経ってから、誰かがそれを掘り返してくれたりフィードバックをいただけるというこのblogという試みは、実に面白いものだと、常々実感しているところです。」

も含め、これら5つのコメントが指し示すポイントが、僕が、もやもやとしながらも言いたかったことにいちばん近い。

言論といえば少し大げさかもしれないが、言論の新しいスタイルがここにあるのではないかという予感もある。

言論の新しいスタイルとしての可能性

奇しくも、一昨日、僕が「観察・啓蒙系」としてご紹介したSW's memoとFPNのお2人(全く面識はない)は、「あるべき理想の状態、信念体系があり、手を変え品を変え表現していくことで、世の中にいくばくかのインパクトを与えることを意図して書き続けているのではない」(SW)、「もともと別に議論が好きじゃないですし、よっぽど自分の進む道に立ちはだかる障壁でない限り衝突する必要もないと思う質」(FPN)と、自分の特徴について書かれているが、僕も性格的にはこの2人に近い。

こういうタイプの人が、観察・啓蒙する対象を選んで書く(他者の言説などへのリンクをつけて)ことで、自分や自分の考えが成長していくプロセスを公開する。そしてそれが、やや控えめではあるが持続的な「信念・意見表明」になる。こういうスタイルに、Blogという新しいメディアの可能性を感じるのである。一方、もともと「信念・意見表明系」の人の場合、本当は、あまりメディアを選ぶ必要がない。Blogだっていいし、eメール・ニュースレターであってもいいし、雑誌に何か書いてもいいし、本を書いてもいいし、テレビに出たっていい。たとえば、僕が一昨日例に出したシュナイアーは、Blogを書くのではなく、ニュースレター、新聞・雑誌のコラム、本を、論争の主戦場にしている。「観察・啓蒙系」の人にこそ、Blogというスタイルが一対一でしっくりと対応するのではないかと思うのだ。

その意味では、ppBlogからの

「この中で「観察・啓蒙系」というのがちょっとひっかかった。”啓蒙 enlightment”ってどちらかというと前者のグループ「信念・意見表明系」に属する言葉だと思うからである。前に"Missionary"という言葉が出てくるがこの辺りとマージする概念じゃないかなぁ,と思うわけで。個人的には「観察・啓蒙系」ではなく「観察・開示系」の方がしっくりくる。それとも梅田氏は,確信犯でこの辺りのタームを選んだんだろうか?」

というコメントに対しては、確信犯として、僕が「啓蒙」という言葉を、「観察系」のほうにつけたのだ、と答えておきたい。大上段に振りかぶって「信念・意見表明」するだけが「啓蒙」ではなく、控えめだがピアー・トゥ・ピアーで知を共有していく行為に対して、「啓蒙」と呼びたかったのである。

「観察・啓蒙系」がバーンアウトしてはもったいない

また、25日の「Blogでバーンアウトする人と、しない人の違い」における僕の問題意識を、きれいに要約してくださったのが、ネタフルであった。そして、

「ネタフルは後者の「観察・啓蒙系」ですし、かれこれネットで文章を書くと言う作業を何年も続けていますので、あえて誤解やすれ違いを生まないように気をつけて書くようにしています。経験で身につけた読者との微妙な距離感とでもいいましょうか。ただし、bloggerだけでなくネタフルを見ている人はたくさんいる訳で、コメントやメールなどで「disparate audiences」(共通点のない本当に色々な人達)に囲まれてしまうと疲労して心が折れてしまうかもしれません。そういう事態を想定していない訳ではないですが、実際にその時どのような行動が取れるかどうかは想像がつきませんね。

書き手が上記したような自分のスタンスを意識して書いていれば良いですが、「観察・啓蒙系」がさりげなく意見表明することで無意識の中で議論にさらされてしまう可能性は十二分にある訳で・・・」

と書かれているが完全に同意。僕がこのことを書こうと思ったきっかけが、Robert Scobleのバーンアウトだっただけに、ネタフル氏の危惧と全く同じ危惧を、僕も抱いたのである。こんなことで、せっかく育ちつつある「観察・啓蒙系」がバーンアウトしていたらもったいないからだ。

皇帝の新しい服」は、独特の語り口で、僕が言いたかったことを補強してくださっている。

「まあ それはあるかもしれない つまり ゲームのルールが違う場所にむりやり引き出されても困るという感じだと思う」

「例えば 絶対数が この程度であれば ありえないのだけれど絶対数がある一定数を超えてしまうと 全く異なる 信念を持つ「信念・意見表明系」の人が見てしまって「信念・意見表明系」と勘違いして挑んでくるという状況が 一定の割合で起きてしまう...

それは やっぱり「観察・啓蒙系」にとっては かなりの重荷だということはあると思う...

んーとすると「信念・意見表明系」か「観察・啓蒙系」かというのをバナーか何かで表明すべきじゃないだろうかというか あれか

戦闘的な「信念・意見表明系」は PvP 上等 とでも表明するか...」

「あ... そんなことでバーンアウトしていって欲しくないということね...」

「そういう意味では ある程度 暗黙のゲームのルールみたいなものを考えてみるのも良いかもしれない...

あくまでも PvP を許すか許さないか とか そういう視点で...」

「でもそれは その人側が 誰かが相手をしてきても それに対応はしないよという表明であって良いと思う...

本来 それに相手をする義務はないし そもそも それが存在しているということを認識する必要すらないわけだし...

PvP したい人は PvP 上等 な人同士でやればよい...」

ここでは、特に、オーディエンスの絶対数が増えた場合に、問題がより顕在化するだろう、という視点も付加されている。

いろいろなコメント(すべて元の文章がアップされてから36時間以内に発せられたもの)、たいへんありがとうございました。それらを受けて、こういう文章が書けることも、Blogの面白いところだと改めて思いました。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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