先日、IPAの未踏ソフトのOB会のESPer 2007で「私的所有の生物学的起源-presentationとrepresentationの融合-」というタイトルで講演をしてきました。
あまりちゃんと伝わらなかったかなという気もするので、少し書いてみようと思います。
このムービーにあるとおり、私的所有というのは生物学的起源をもっています。そしてはからずも近代というシステムは私的所有の問題を本質的にはらんでいるのです。自他の区別可能であることによって、近代国家、近代個人、近代法人などを作り出されてきました。
情報の所有権の問題も、その生物学的起源から考えると決してアプリオリなものではありません。情報の所有権が発明されたものである以上、環境と身体のインタラクションの設計の仕方によっては、また違う身体性を獲得することも可能なはずです。
ストレージのチープ革命は、あらゆる人間の行動を情報として保存可能にしていくでしょう。これがライフログの進展です。われわれはライフログをソーシャルウェアの観点から利用可能なことをtwitterから学びました。ライフログ化されたデータを他人が利用可能になることによって、爆発的に新しい利便性と感覚が生まれてくることでしょう。
存在と表現の2分類というのはISEDで東さんがしていたものですが、私はこの2つが融合していくものだと考えています。
存在(presentation)とは、人間がそこにいるだけで発している情報だとしましょう。
表現/表象(representation)は、なんらかの認知的対象に対して、(結果として)意図的に発信する情報です。
representationは、自分の脳の中のホムンクルスに発信される場合は表象と訳され、別の個体の脳の中のホムンクルスに発信される場合は表現と訳されます。
ブログに書くのは表現で、twitterに書くのも表現、Justin.tvのようなlifestreamは存在の情報だというのが、古典的な解釈でしょうか。しかし、twitterとJustin.tvの違いはこれから限りなく小さくなっていくことでしょう。
このことは、法的に大きな問題をはらんでいます。存在に関する情報はプライバシーで、表現については著作権で管理しているからです。著作権の問題は、中期的にはライフログ化の進展の中で議論しなくてはいけません。
ヘッドの著作権者の利益を、著作権を登録制にすることによって守るようにしなくては、ライフログ化の進展しても、テールにある存在の情報が利用できなくなるからです。
しかし、法学者にご登場ねがうのは、少し後にしましょう。問題は、リアルタイムコライティングというかネットにおける砂場的インターフェイスが、人間の身体感覚や情報の所有感覚にどのような変容をせまるのかという点にあります。
ここは未踏の地であり、そしてまさに、みなさんのような未踏開発者が開拓すべき土地なのです。
いうまでもなく、あらゆるrepresentationはpresentationにすぎません。「遠藤拓己+松山真也+ドミニク・チェン」の《TypeTrace》はそのことを如実にあらわしていますし、このような試みから新たな文学が生まれてくるでしょう。
ライフログの編集プロセス自身がライフログとして蓄積されていくことを想像してみてください。これは無限後退するようにみえますが、現実の時間は進行していきます。presentationとrepresentationの融合はこの無限の織り込みのような形で実現されることでしょう。