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映画「レオニー」で考えた非承認時代の生き方

2010/08/12 13:12
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佐々木俊尚

現役ジャーナリストが、長年培ってきた取材経験などを通して、IT業界のビジネス動向から事件まで、その真相をえぐり出します。
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札幌のモエレ沼公園の空は青かった

 

 20世紀の最も偉大な彫刻家のひとりに数えられているイサム・ノグチは当初純粋な彫刻からスタートし、やがて庭園や噴水の設計など、大地をつくり変える方向性へと進んだ。彼は自然と作品を融合させ、人工でも自然でもないマージナル(境界的)な領域に自分の世界をつくりだした。だからアメリカでのイサム・ノグチの評価はいまにいたるまで、彫刻に自然という存在を取り入れたという部分に最も高い。

 

 どっしりと広がる大地と、その上で自由に子供たちが軽やかに楽しく遊ぶ世界。たとえばプレイマウンテン(遊び山)というテーマは、彼の人生の大きな主題のひとつとなった。1935年、ニューヨークの公共施設のために彼が作ったプレイマウンテンの作品案は、ピラミッド型の山の横幅いっぱいに階段を頂上までつみかさね、夏にはそこに水を流してウォータースライダーとして遊び、冬にはそれが橇遊びの場所になるというものだった。

 

 この作品案は市の担当者に一笑に付されて実現しなかったけれども、それから半世紀後に札幌のモエレ沼公園で結実する。ゴミ処理施設跡の公園設計を任された彼は、広大な土地に緑の山をつくり、それらの間に幾何学的にオブジェを配置し、公園全体をひとつの彫刻作品と見立てた。

 

 私は今年6月、札幌で開かれたベンチャー企業の大規模イベント「IVS Spring 2010」に出席した帰途、レンタカーを借りてこの公園に行ってみた。

 

 梅雨のない北海道の6月はたとえようもないほどに気持ち良く、その日もきらめくような青空が頭上に広がっていた。高さ30メートルのプレイマウンテンは片側がピラミッドのように花崗岩の階段がつみかさなり、反対側にはなだらかな斜面に1本の道が頂上まで続いている。フォルムがすごく美しい。

 

 そしてテトラマウンド。芝生の丘のうえに、太いステンレスの三角錐が立ち上がる。北海道の広々とした土地のうえに、クローム色の動線が流れているように見える。プレイマウンテンにしろテトラマウンドにしろ、大地の上をダイナミックに動くものとして、彼の表現はあるように見えた。

 

 動かない大地と、動くクロームの輝き。固定される軸と、その上を動くもの。その二つの対比は、イサム・ノグチの人生を追ってみれば実に象徴的だ。

 

 

イサム・ノグチの母の数奇な人生

 

 モエレ沼公園を訪れてから2ヶ月後、私は映画会社の知人に誘われて「レオニー」という映画の試写を見た。レオニーは、イサム・ノグチの母親の名前。彼女は慶應大学教授で詩人でもあった野口米次郎がアメリカで文学活動をしていた時に、編集協力者を務めたことから関係を持ち、イサム・ノグチを生んだ。

 

 この非常に丁寧に撮られた良質な作品を見て以来、私はイサム・ノグチの「軸」ということを何度も考えている。イサム・ノグチは「真の国際人」「国境を越えることを運命づけられた人」「民族の間で引き裂かれた」とか言われているけれど、本当にそんなステレオタイプな人生だったんだろうか?

 

 イサム・ノグチは日露戦争から第一次世界大戦を経て、太平洋戦争を迎える激動期にアメリカと日本で暮らし、つねにさまざまな場所で排斥され続けた。日本では「外人」と呼ばれ、アメリカでは折りからの「黄禍」論の中で排斥され続けた。太平洋戦争のときにはみずから志願して日系人の強制収容所に入っている。

 

 そういう人生を経験した人に対して、人はステレオタイプにさっきのような「真の国際人」といった表現でレッテルを貼ってしまう。もちろん本人も、その「引き裂かれている」状況に怒りを持ち続けている。彼は84歳で死ぬ数か月前のインタビューで、「あなたの創造の源となってきた力はなにか」と問われて、「絶望と闘争ともいえる怒りだ。闘争こそ創造を刺激する源だ」と答えている。彼はつねに帰属への願望があり、そしてその願望をパワーとして作品に昇華してきたと言われている。

 

 

 

 帰属の場を一生かかって探し求めた、と彼は言う。だがイサムは、自分のもっとも強力な武器が、帰属そのものではなく、「帰属への願望」であることに気づいていた。

 アメリカ人にも日本人にも心からなりえないことを予感しつつ、見た目は「ノマド(遊牧民)」のような開放性で、イサムは、「彫刻とは何か」をテーマに、自分自身への旅をつづけた。その生き方の避けがたい結果として、イサムはつねに極度に孤独であった。(「イサム・ノグチ 宿命の越境者」ドウス昌代、講談社文庫)

 

 

 

 でも「レオニー」から見えてきたのは、彼はそこでただ引き裂かれ、その引き裂かれたことに怒り、エネルギーを生み出したということだけではなく、イサム・ノグチはつねに自分を世界に帰属させるための「軸」をみずからつくりあげていたのではないかということだ。宿命的な放浪者は、どこにも帰属できない。だったら自分自身で、帰属する場所をつくってしまえばいいのだ。

 

 イサム・ノグチはこう言っている。

 

 

 

 ぼくの物語を書くとしたら、すべては父と母の生き方から始めなければならない。今世紀初頭の、明治のあの時期に、母がなぜ日本に渡ったのかというところからだ。いわば、ぼくという落とし子は、母がそのときにとった人生の選択の結果なのだ。また、母の苦労と、母の期待が、ぼくがいかにしてアーチストになったかと深く結びついているはずだ。母が心に描いたもの、つまり母の<日本>とね。しかし、父は、母が描いたもののなかに納まるような存在ではなかった。不幸にして、父には別の、つまり父自身が描いた絵があった。二人の出会いのその不幸な部分が、ぼくの育ちそのものなのだ。

 

 

 

 

ひたすら動き続け、流れ続けるレオニーの人生

 

 レオニーで描かれるイサム・ノグチの母親は、実に行き当たりばったりで、そして結果として社会に翻弄され続けている。そもそも野口米次郎との結婚からしてひどいトライアルだった。アメリカに渡って文学活動をしていた米次郎は新聞広告で編集協力者を公募し、教師をしていたレオニーがそれに応じたのがなれそめだ。すぐに関係を持つようになる。映画「レオニー」はあまり酷くは描かれていないけれども、原作にあたる「イサム・ノグチ 宿命の越境者」にはこんなふうに書かれている。

 

 

 

 近い将来に結婚すると信じて、レオニーは米次郎に身をまかせた。その後、生計をすこしでも楽にするため、二人は米次郎のアパートでともに暮らしはじめる。レオニーはそれを、結婚までの仮の夫婦生活と受けとめた。だが、米次郎にとっては肉欲の捌け口の延長であり、仕事上の便宜にすぎなかった。

 

 

 

 米次郎は身ごもったレオニーを放置して、日本へ帰ってしまう。彼女は実家に戻ってひとりで出産する。だがアメリカで排日感情が高まっていく中で、2歳のイサムを連れて日本にわたる決心をする。

 

 ところが米次郎はひどい男だ。住む場所は用意されていたものの、彼にはすでに妻があり、レオニーは単なる囲われた愛人にすぎない。そのような状態から脱出するため米次郎の用意した家を出て自立した生活をはじめる。そこまでは良いのだが、気がつけば彼女は再び妊娠している。この二番目の子供の父親がいったい誰だったのかは、いまにいたるまで明らかにされていない。英語を習いに来ていた東大生だったんじゃないかという話もあるようだ。

 

 米次郎に「ふしだらな女」と罵られ、しかし彼女はめげずにみずから家を建て、田舎の好奇の目にさらされながらも二人の子供を育てる。

 

 やがて第一世界大戦がやってくる。「このまま放置しておくと日本国籍を持った息子はいずれ徴兵される」と考えた彼女は、息子をひとり船へと乗せてアメリカに送り出す。全寮制の学校に入学させたのだ。しかし戦時下になって郵便事情が悪化すると、息子からの手紙は届かなくなる。やきもきするが、彼女には何もできない。そしてある日、息子からの手紙が数か月遅れで届き、全寮制の学校がとうに閉鎖されて息子が行く場所もなく途方に暮れていたことを知る。彼女は米次郎に援助をすがるが、彼は何もしてくれない・・。

 

 

ノマドであるということ

 

 レオニーをめぐる物語はゆれ動き続け、彼女は居場所を固定せず、つねに動き続ける。ノマドだ。

 

 その姿は、良くあるようなステレオタイプな「母」とはまったく違う。よくある「母性」とは違う。つねに動かず揺れず、どっしりと地に足ついた生活をしている「母」なるイメージがあるとすれば、レオニーは決してそのような母性には固定されていない。固定されていないどころか、延々と漂流し続けている。

 

 しかしかといって、彼女はただ流されているわけでもない。「流れ流れて」というようなイメージで描かれるような漂泊者ではない。

 

 どういうことなのかといえば、彼女は自ら選んで、流れているのだ。失敗を恐れず、とりあえずはやってみようという精神で、積極的にリスクテイクし続けていくのである。もちろん実際は失敗ばかりだし、その失敗の連続が映画では延々と描かれ続ける。しかし主演女優エミリー・モーティマーの演技は、漂泊者の敗残はみじんも感じさせず、常にリスクテイクと失敗とときどきの成功と、そこにある「自分で選んだ人生は自分で背負う」という誇りをにじみ出させている。

 

 ノマドは決して、ただ流れるだけの流浪の民ではない。自分の中に「軸」を作り、その軸を背景にして誇り高く生きるのだ。レオニーもそのように自分の中になにかの「軸」を作り、その軸を基底として、つねに動き続けている。どう軸を作り、そしてどう動いていくのか。この映画は、そういうテーマだ。

 

 そしてレオニーのそういうDNAは、イサム・ノグチにも受け継がれたように私には思える。

 

 彼にとっての軸は日本でもなければアメリカでもなく、ましてや抽象的な「世界市民」といった幻想でもなかった。ただ「排斥された者」として怒りを持ち続けただけではなく、実は彼はその軸に母親の精神を重ね合わせていた。だから彼は自分の作品表現の根底にあるものとして、「母が心に描いたもの、つまり母の<日本>」という言葉を選んだのだった。

 

 イサム・ノグチは帰属しない人生を選んだ。しかし彼は民族や国家に帰属しないかわりに、自分の社会的生活の中でどこにも求められなかった自分の原風景を、母レオニーに固定させたのだ。そうして動き続ける人生、動き続ける表現の中で、自分の「軸」を得たのである。

 

 動かない「軸」としての大地と、その上を輝くように流れるクローム色のテトラマインドは、そういう彼の心象風景を実に象徴しているように思える。

 

 

浮遊する日本社会に届けられたメッセージ

 

 21世紀に入ってグローバリゼーションが進んでいく中で、国民国家の存在意義が徐々に消滅へと向かっているように最近感じる。すべての産業がプラットフォームに呑み込まれ、国内だけの垂直統合が意味をなさなくなり、そういう時代状況の中では「日本という先進国に住んでいる」というメリットは限りなく小さくなっていく。日本の貧困層の増加とインドや中国の富裕層の増加を見れば、国ごとの格差よりも、社会階層ごとの違いの方が大きいグローバル社会の到来は約束された未来にも思えてくる。

 

 そうした流れにどこまで抗しきれるのか。しかし日本においても、かつて無理矢理にも帰属させられていたムラ社会のようなものはいまやほとんど消滅し、多くの人は多面体的な人間関係の中でみずからの意志で他者と相互接続を選ばなければならなくなった。帰属意識、という言葉は昔とはまったく違う意味をいまや持ち始めている。

 

 そういう社会においては、自分自身で「軸」を選び取り、その上でどう動くのかを考えていかないといけない。それは過酷な世界でもある。

 

 映画は終盤、札幌のモエレ沼公園の風景が描かれる。クロームに輝き流れるテトラマウンドの下、芝生の丘の立って遠くを望むレオニー。それは、80代でモエレ沼公園を設計したイサム・ノグチの心象風景だったようにも思える。彼は公園を設計した後、完成を待たずに亡くなった。

 

 

松井久子監督は「負の体験も反転させて」と言った

 

 「レオニー」を監督した松井久子さんに、試写後に少し話をうかがう機会があった。松井さんは前作の「折り梅」を完成させた後の2003年、四国のイサム・ノグチ庭園美術館を訪れ、そこで「イサム・ノグチ 宿命の越境者」を購入した。一読して感銘を受け、「このレオニーという女性を映画にしたい」と確信的に思いたったという。

 

 本作で描かれたレオニーの造形に、動かない「軸」と流れ続ける「動き」が同居している不思議を感じる、と私が言うと、松井さんはこう話した。「私はどちらかといえば地に足のついた人間。でもレオニーはもともと母親がアメリカ先住民族で父がアイルランド系という血に生まれ、宿命的なさすらいびとでした。映画のレオニーにそういう軸のようなものが現れたとしたら、私の性格が映しだされたのかもしれません」

 

 そして松井さんはこう話した。「レオニーは、プリミティブ(原初的)な女性の強さを持っている。正の体験だけでなく、負の体験も自分の中で力強く反転させていった。そういう姿を見てほしい」

 

 イサム・ノグチは昔こんなことを言っている。

 

 

 

日本人でもアメリカ人でもないという問題に、ぼくは早くから悩まされつづけた。いろいろな意味で、ぼくは砂漠に出征した兵士に似ている。地平線だけが見渡すかぎり広がる荒涼とした砂漠の前線で戦いながら、自分にははたして帰るべきばしょがあるのか、ラクダに乗った敵に追われなくてすむ国があるのか。そこにはひとりでも誰か自分を待っていてくれる人がいるのか、という思いにとらわれている兵士みたいなものだ。

 

 

 

 彼のこの言葉は、2010年という現在に生きる私たちに重なってくるように思える。帰属感覚が消滅していく中で「いったいどうやって私たちは他者に承認されるの? どうやって社会に接続できるの?」と悩みを深くしている21世紀の日本人に。自分の「軸」は自分で生み出し、そして自分自身をそこに帰属させるのだ。そうして生まれた「軸」のまわりをぐるぐると回転しながら、遠心力を強めて外に向かって走っていけばいいのである。

 

 

『レオニー』は11月20日(土)角川シネマ新宿他 全国ロードショー。

配給:角川映画 写真は©レオニーパートナーズ合同会社

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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