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インフォコモンズは社会とネットを最終接続する

2008/07/27 21:04
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佐々木俊尚

現役ジャーナリストが、長年培ってきた取材経験などを通して、IT業界のビジネス動向から事件まで、その真相をえぐり出します。
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『明日、君がいない』の他者性

 『明日、君がいない』という映画がある。2006年のオーストラリア映画だ。撮影当時19歳だった監督は、自分の親友の女性が自殺するという衝撃的な体験を乗り越えて、その体験を何とかして昇華させてしまおうと、この映画を作った。

 原題は『2:37』。冒頭で描き出される事件ーー学校のトイレで白昼、誰かが自殺を図った時間のことだ。しかし冒頭の映像では、自殺したのが誰で、何の動機だったのかかということは、なにひとつ明らかにされない。

 登場人物は、6人の高校生たちだ。この6人が、誰かが自殺したその日をどう生きていたのかを、午前から午後へと時間を追って描かれていく。自殺したのはこの中のいったい誰なのか?ーーというミステリー的な展開が、この映画の中心的なストーリーとなっている。

 6人は次のような若者たちだ。
 弁護士の父を持つ成績優秀なエリート志向のマーカス。
 その妹で何かに悩み続けているメロディ。
 マッチョなアスリートで女子生徒からは熱い視線を浴びているが、弱いクラスメートを見つけてはいじめる加虐的なルーク。
 その恋人で、自分のカレシが学校中の注目の的になっていることが誇らしくてしかたない平凡な女の子、サラ。
 ゲイであることをカミングアウトし、そのために何度となくルークや他の同級生からイジメを受けるショーン。
 そして足に障害を持ち、病気のために排尿機能に問題があって日に何度となくお漏らしをしてしまうため、教師からも嫌われる孤独なスティーブ。

 彼らが小さな学校の建物の中を移動し、誰かと会話を交わし、トイレにこもって悩み、誰かを恋し、誰かを憎み……というように話は展開していく。どのシーンにも、圧倒的なリアリティがある。自殺者が手首から血を流し、痙攣しながら息がだんだんと詰まっていく切迫感。お漏らしして濡れてしまったズボンを、トイレのエアータオルで何とかして乾かそうとしているやりきれない感じ。教室の席に座ったまま、まるでコップから水がこぼれ落ちるように、涙を静かに流す彼女の表情。ときに画面はモノクロームになり、ひとりひとりの独白シーンに変わる。彼らがこの特別な一日を思いだし、失われたものを愛惜するかのようにして、この過去の一日を振り返るのだ。

 そこから先は、この衝撃的な映画のネタバレになってしまうので控えたい。彼らはそれぞれが深くてつらい悩みを抱えているけれども、でも大半の彼らに対しては、他者である誰かがときに心配し、ときに声をかけ、ときに気持ちを寄せてくれている。そうやって他者とかろうじて導線を確保している者たちは、生きながらえる。自ら死を選ぶのは、どこにもつながりを持ち得ないでいる者だ。人間としてのやさしさや強さ、才能、成績、見た目の美しさは何の関係もない。ただ他者との導線の有無だけが、人生の岐路を分けている。

ひきこもりはネットにつながらない

 『現代のエスプリ』誌2008年7月号が、『ネットジェネレーション バーチャル空間で起こるリアルな問題』という特集を組んでいる。この中で精神科医の斎藤環氏が『ひきこもり青年たちはなぜ、仮想現実に逃げ込まないのか?』という文章を寄稿している。

 「ひきこもりの若者たちはリアルの世界から逃避して、ゲームや2ちゃんねるに没頭している」というのが、世間に蔓延している見方だ。テレビのニュースを見れば、キャスターやコメンテーターがこういう台詞を一日に一度は口にしている。だが多くの臨床例を見てきた斎藤氏は、ひきこもり事例で日常的にインターネットを利用しているケースは圧倒的に少数派だと指摘している。

これは、まとまった数のひきこもり事例に長く関わってきた臨床家ならば、ほぼ一致して同意が得られるであろう。ついでに言えば、不登校はまだしも、ネットやゲームへの依存が原因でひきこもってしまったという事例は、筆者はほとんど経験がない。(中略)ひきこもり=ネット漬けというイメージは、素朴な印象論でしかない。これはネットさえあれば日常生活のほとんどはカバーできるのだから、ひきこもりはいっそう助長されるに違いないという誤解に基づいた「連想ゲーム」なのである。

 ではひきこもりの人たちが、ネットもゲームもしないで何をしているのかと言えば、ほとんどは自室で、無為のまま過ごしているのだという。終日ベッドに座って、テレビさえ見ないで暮らしているのだ。しかし退屈ではない。なぜなら彼らはそうやって無為のまま過ごしながらも、抑鬱や不安、焦燥などにさいなまれていて、常に追い込まれた精神状態にいるからだ。

 斎藤氏はそのような彼らに、「そんなに苦しければ逃げればいいのに」とアドバイスし、インターネットに逃避するように勧めるのだという。現実へへと逃避できないのなら、せめて仮想空間に逃避してもらい、自らを責めさいなむことなく、ほっとひといきつける空間を見つけてほしいと思うからだ。しかし斎藤氏のそうした願いは、たいていは叶えられない。なぜか。

 ひとつには、彼ら自身が誰よりも「仮想性」や「虚構性」を軽蔑しているためである。たとえば、あるひきこもり青年は、ネットやメールを勧める筆者に、いみじくもこう言い放った。「そんなバーチャルなコミュニケーションに意味があるんですか?」と。そう、彼らはしばしば、誰よりも仮想空間の仮想性を疑い、強く警戒している。

リアルであるかどうかは現実/仮想とは無縁だ

 斎藤氏は、「ある空間がリアルであるということは、そこに一種の『他者性』が存在することを意味している。空間においては空間の広がりが、時間においては時間の経過が、コミュニケーションにあっては関係性の契機が、この種の他者性を担保するだろう」と書く。

 この斎藤氏の論考を踏まえれば、その空間に何らかの他者性が存在し、他者の存在を認知することができるのであれば、それはリアルの物理空間であるのか、バーチャルのネット空間であるのかは、実のところ最重要の問題ではないということになる。逆に言えば、他者の存在しないリアル物理空間と、他者の存在するネット空間を比べれば、後者の方がずっとリアルで住み心地の良い世界なのではないだろうか。

 でもひきこもり青年たちは、そうした他者性のある本当の「リアル」を経験したことがないから、リアルとバーチャルのその同一性が理解できない。斎藤氏はこう書いている。

 ひきこもり青年たちも、もちろん現実を生きている。しかし、彼らはむしろ、現実でなければ意味がない、現実のみを生きなければならない、と自分を駆り立てているようにすら思われる。言い換えるなら、彼らこそが「現実」を特権化しすぎているようにもみえることがあるのだ。

アメリカを孤独に守る叔父の戦い

 私たちが社会と向き合うというのは、苛酷で厳しい営みである。だからそこに、何らかのクッションを置きたくなる。それは日本ではムラ社会や企業社会という中間共同体だったし、アメリカでは愛国精神のような共同幻想だ。

 セプテンバーイレブン以降のアメリカの精神風景を描いたヴィム・ベンダース監督の『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)という映画がある。異国で育った少女が、亡母の手紙を長年会っていない叔父に送り届けるために10年ぶりにアメリカに帰ってくるというシーンから、この映画はスタートする。しかし久しぶりに会った叔父ポールは、ロサンゼルス郊外のトレーラーハウスで家族も友人もなく、おまけにベトナム戦争のトラウマに悩まされている。そのトラウマを自分なりに克服しようと、自家用車のミニバンを改造し、車体にカメラを搭載して町並みを監視する。車内には監視用の機材がぎっしりと積まれ、ポールは車で一日中ロサンゼルスの街を流しながら、ひとりでテロの監視を続けている。白髪頭でたばこを吹かすポールの、こんな独白が混じる。「あの攻撃からまだ2年しか経っていない。警戒はまだ高いレベルにあるが、人々の危機意識は後退してしまっている」

 もちろんポールの行動は妄想でしかないのだが、しかし家族や友人と切り離され、おそらくはインターネットのコミュニティにもつながっていないであろう彼にとっては、そのような妄想によってアメリカという国とつながっていることだけが、生きていくよりどころとなっている。愛国精神という幻想がまだ力を持っているこの国では、このような妄想も社会とつながるひとつの導線となり得るのだ。

 しかし日本のような国家に対する共同幻想がもともと存在していない社会では、国家に向き合うワンクッションとしての中間共同体の存在が必要となる。これはつまり斎藤環氏のいう「他者性」であり、自分が社会をどう実感として認識できるのか、どのようにして社会とつながれるのかという「装置」でもある。

他者と接続するテクノロジー

 そしてこの「装置」がインターネットという新しいメディアの中で、どのように進化し、それは今後、私たちが社会と向き合うワンクッションとして成立しうるのかどうかということを、私は考えてみたいと思った。インターネットの他者性メディアは要するにソーシャルメディアであり、SNSやソーシャルブックマーク、ブログなどがそういう分類になる。しかし現在のミクシィやはてなブックマーク、ブログの世界はあまりにもまだ原始的で、それらがどう社会につながっていけるのかという可能性さえよく見えていない。

 しかしこのミクシィやはてブやアメブロのようなサービス群が進化していけば、その先には私たちと社会との新たな「接続のしかた」「承認のされかた」みたいなものが生まれてくるのではないだろうか?

 その可能性を、現実に存在するSNSやソーシャルブックマークのようなサービスの進化の延長線上において、できるかぎり背伸びをして地平線まで見渡してみようーーそう考えて論考を私なりに限界にまで推し進めてみて、やっとの思いで書き上げたのが『インフォコモンズ』というこの本である。

インフォコモンズ (講談社BIZ)

インフォコモンズとは

 インターネットの世界にWeb2.0という進化が始まってそろそろ5年が経過し、フェーズはWeb3.0と呼ばれる方向へと少しずつ動き出している。3.0の世界は個人の持っているパーソナルな領域と、知やつながりというパブリックな領域をできる限り近づけ、融合させ、補完させていこうという方向性に他ならない。そしてこの方向性を少しずつ進んでいけば、いずれはウェブのテクノロジーは社会と接続され、社会の基盤となっていく可能性がある。『インフォコモンズ』を書き上げてみて、私が感じているのは、そんなようなことだ。

 その来るべき新しい世界においては、現実世界とバーチャル空間の関係性は、決定的に変容するだろう。「リアルっぽく感じる」リアリティという観点から言えば、現実世界よりもバーチャル空間の方がリアリティが高くなる可能性がある。なぜなら現実世界よりも、バーチャル空間の方が、他者との関係性をわかりやすく可視化することができるようになるからだ。

 その一方で、「他者からの承認」の問題がある。ネットの空間での他者との関係は、自分という多面体のひとつの面でしか行われないから、自分という全体の中の一部という意味では、限定的になる。他者からの承認が、条件つきになってしまうわけだ。しかし一方でバーチャル空間では、他者と自分がなぜつながっているのかという相関関係は強くなる。つまりこういう図式だ。

バーチャル空間での関係性=関係の相関関係は強いが、つながりは限定的
現実世界での関係性=関係の相関関係は弱いが、つながりは全人格的

 こういバーチャルの特性があると、ネットの空間の中では人は他者とどんどんつながっていけるけれども、でも「常に自分は全人格的には承認されていない」という欠落感が生まれて、その欠落が「自分を全人格的、かつ無条件に認めてほしい」という願いにつながってくるように思える。「非モテ」問題が語られる背景には、そうしたバーチャル空間の特性があるようにも感じている。

 いずれにせよ、いまやバーチャルの世界の中でどのようにして自分というアイデンティティを作り上げ、そのアイデンティティをどう社会と向き合わせるのかというのは、私たちにとってはきわめて重要なテーマになり始めている。そのテーマは社会の課題でもあり、テクノロジーの課題でもある。歴史上なかったほどに、テクノロジーと社会は決定的な接近をスタートさせ始めているのだ。

個人的なご報告

 なおこのエントリーの本題とは関係ありませんが、私の個人サイトである「佐々木俊尚公式サイト」を友人夫婦が経営するウェブ制作会社のフラクタルにお願いして、全面的にリニューアルしてもらいました。雑誌やテレビなどのインタビュー、寄稿などの情報についてはここでこまめにアップしていく予定ですので、読んでいただければと幸いです。

 またこのリニューアルに合わせて、8月から有料メールマガジン「佐々木俊尚のネット未来地図レポート」をスタートさせる予定です(毎週月曜日配信、月額1000円)。数日内に告知を始めますのでご期待ください。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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