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「ことのは」問題を考える

2006/05/22 16:54
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プロフィール

佐々木俊尚

現役ジャーナリストが、長年培ってきた取材経験などを通して、IT業界のビジネス動向から事件まで、その真相をえぐり出します。
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 4月中旬、ブログ「絵文禄ことのは」の松永英明氏にインタビューした。すでに多方面で議論の的になっているが、インタビュアーはGrip Blogの泉あいさんとアルファブロガーのR30さん、それに私である。このエントリーここここなどに詳しい。いったいどのような事件が起き、なぜこのようなインタビューが実現したのかは、これらのエントリーを読んでいただければと思う。

 私がこの企画に参加したのは、認識とコミュニケーションの断絶という問題にここ最近、ひどく囚われていたからだった。「総中流」といったような共通の土俵が日本社会から徐々に失われ、人々の拠って立つ場所は細分化されつつある。余談になってしまうが、たとえば私は先日、産経新聞のコラム『断』に次のような短い原稿を書いた。

 四月十一日の朝日新聞夕刊に、「『若者よ怒れ』 新宿ロフト代表の平野悠さん」という記事が掲載された。名門ライブハウスの六十一歳になる代表が、「もっと怒れ」と若者たちを挑発しているという話だ。最近、若者たちのコミュニケーションが変質していることに対して、記事は「若者の話しぶりにも異変を感じた。いつも『君の気持ちもわかるよ」から始まり、『ま、いいか』で終わる」と批判。さらに平野さんの次のような言葉が紹介されている。「自由を制限され、格差社会の下流にいて何で怒んないの? 社会を斜めに見る反逆精神が若者の特権じゃないの?」

 年配の世代のそうした嘆きはわからないでもないが、しかし彼らは社会が変わったことに気づいていない。何かに対して「怒る」ことができるためには、怒る人間の側とその対象との間に共通の基盤が必要だということだ。同じ土俵の上だからこそ怒り、怒鳴り、そして酒を飲んで肩を叩き合いて理解を深めあうことができるのだ。だがいまや、そうした共通基盤は社会から失われつつある。人々の生きる圏域(スフィア)は細分化され、別の価値観に生きる者たちがスフィアをまたいでコミュニケーションを行うのは、きわめて難しくなっている。それでも無理にコミュニケーションを取ろうとすれば、それは距離を置いた繊細な言葉のやりとりにならざるをえない。それはネガティブな見方をすれば、コミュニケーションの断絶であり古き良き社会の崩壊であるけれども、ポジティブに言えば、多様性を容認する新たな日本社会の幕開けとなるかもしれない。(産経新聞2006年5月4日朝刊文化面)

 インターネットの登場は、これまで地域や仕事、生活空間などによって分断されていた人々を結びつけ、ネット空間の中に共通の言葉を持つ人たちのスフィアを生み出した。こうした動きは、今後どこに向かうのか。スフィアがそれぞれ孤立化の方向へと進むのか、それともスフィアとスフィアを結びつけるような「インタースフィア」とでも呼べるような空間が、ネット上に出現してくるのかどうか。いまやスフィアが異なれば、世界に対する認識そのものさえも異なり、相互のコミュニケーションを取ることはきわめて困難になってきている。そうした解決不可能に見える問題を、ネットは果たして乗り越えることができるのかどうかを知りたいと切実に願っている。

 オウム真理教と松永氏をめぐる一連のできごとは、その問題を考えるうえでのひとつのケーススタディになるのではないかと思った――それが私が、彼にインタビューしたいと考えた理由である。面識のない松永氏にどうアプローチしようかと考えているうちに、旧知の泉さんから「一緒にインタビューしませんか」とメールで連絡があった。その話に私は喜んで乗り、私の方で場所を用意し、4時間という長時間取材に臨んだ。

オウム真理教事件をめぐる昔話

 オウム真理教をめぐるコミュニケーションの断絶とは何だろうか。

 少し時計を巻き戻そう。私は1995年から97年まで、毎日新聞社会部で警視庁捜査一課を担当していた。捜査一課というのは殺人や誘拐、強盗などを担当する部署であり、オウム事件に関しては地下鉄サリン事件、仮谷さん誘拐殺人事件の捜査本部を指揮したのは刑事部に属する捜査一課であり、警察庁長官狙撃事件を担当したのが公安部だった。だが全体としてみれば、地下鉄サリン事件の直後に開始された上九一色村での大規模な一斉強制捜索は、完全に捜査一課の仕切りによって行われた。オウム事件における本丸の部署だったと言っていいだろう。

 そんな中で私は捜査一課という当局に寄りかかるかたちで、取材活動を続けていた。いわば警察側の目で、オウム事件を見ていたのである。実のところ私の仕事はひたすら刑事の自宅に夜回りをかけてネタを取るというものであって、オウム信者と接触した経験はわずかしかなかった。そうやって警察の目からオウムを見ていた私にとって、オウム真理教という存在は不気味で恐ろしく、底知れない根源的な恐怖を与える「何か」だったのである。

 個人的な思い出話で恐縮だが、地下鉄サリン事件の前夜、私は東京・南青山にあった教団東京総本部そばにいた。翌日にも教団への強制捜査が行われるのではないかという情報が密かに流れ、オウム側がそうした動きを何らかの形で察知している可能性もあるのではないかと、会社の車で様子をこっそり見に行ったのである。

 ハイヤーはやけに陰鬱に静まりかえった高樹町の信号を抜け、常陸宮邸のすぐ目の前にある東京総本部へと差しかかった。ところが真っ暗な総本部のビルの周辺に、ただならぬ騒ぎが起きている。一階の玄関から白煙が上がり、サマナ服を着た信者たちが数人、何ごとかを叫んでいるのだ。私は取材のために車を降り、信者たちに話を聞こうとした。「何があったんですか?」。ひとりが呆然と答えた。「火炎瓶が……」

 当時のオウム教団は、まだその実態がほとんど明らかになっていなかった。一般社会にも実態はほとんど知られておらず、われわれマスコミの側も良く分かっていなかった。ただ「なんだか良くわからないが、不気味な存在」としてしか映っていなかったのである。坂本弁護士事件や松本サリン事件、仮谷さん誘拐事件などはすでに発生し、オウムの仕業ではないかと噂されていたが、しかしどのような人物がどのような意図でそうした犯行に及んだのかは、まだ完全な闇の中だった。

 だから夜の東京総本部でオウム真理教信者たちに接触した私は、ひどく緊張し、手に汗をかいた。周囲は静かな住宅街で、夜八時を過ぎると人影もほとんどない。火炎瓶、と聞いてさらに詳しく話を聞こうとした私は、気がつけば白い服の信者たちに取り囲まれていた。写真を撮られたり、詰問されただけだったのだが、この時感じた恐怖はいまも忘れられない。「自分とは異質なもの」「人間のルールが及ばないもの」に相対したことに対する、大げさに言えば根源的な恐怖だったのである。

 ちなみにこの火炎瓶事件は、後に教団側の自作自演であったことが明るみに出ている。

「ピンと来ないってところはあるんですよね」

 こうした根源的な恐怖は、事件が発覚してからも、さらに増幅した。たとえば地下鉄サリン事件直後の3月24日、教団がNHKに送りつけてきた麻原彰晃被告のビデオ。「いよいよ君たちが目覚め、そしてわたしの手伝いをするときがきた。さあ、一緒に救済計画を行おう。そして悔いのない死を迎えようではないか」と語るその言葉に、背筋の冷たさを感じた人は当時、少なくなかったはずだ。

 だがその一方で、教団の内部では事件に関与せず、何も知らされていなかった信者たちの間には、たいへんな混乱と困惑が支配していたとされる。それは後に森達也監督が撮った日本の映画「A」「A2」を見ても明らかだし、今回のインタビューでの松永氏の発言からも読み取れる。

佐々木 :個人として贖罪意識っていうのはありますか。

松永 :ピンと来ないってところはあるんですよね。あそこのサイトにも書いたサリン事件の日の話もアレですけど、まるっきり別のところで起こっているというか、例えば日本の中で誰かが犯罪を犯しましたと言ってもピンと来ないっていう。たまたまそれが知ってる人でした。或いは同じ教団の内部で、或いはある程度の人数が固まってそういう動きをしてましたっていうと「ええ、そんなことしてたの?」みたいなところはやっぱりありますよね。

 この発言に対して、絶対的な社会正義を盾にとって「誠意がない」「嘘をついているのだろう」と批判するのはたやすい。しかしそうした議論は結局のところは水掛け論の域を出ることはできず、生産的なことはなにひとつもたらさないように、私には思えてならない。私が彼の発言から考えたかったのは、そうではない。そうした批判の刃を盾の内側から投げることではなく、そのような発言がなぜ今も松永氏から発せられているのか――それを知りたいということだった。

 オウム真理教事件が起きてから、すでに10年が経っている。外の世界では、オウム事件をめぐって膨大な数の本が書かれ、さまざまな人たちがさまざまな言説を世に出した。宮台真司氏はコギャルのコミュニケーション過多とオウム真理教信者のハルマゲドン幻想を対比させ、物語が消滅した終わりなき社会での生き延び方のひとつとして、オウムがあったことを説いた。また大澤真幸氏は、彼が「第三者の審級」と呼ぶ絶対的かつ抽象的な他者が、オウム真理教信者にとっては麻原彰晃被告という具体的な形を取ってしまったことによって、虚構が現実から引きはがされていったその様相を克明に描いた。そして前掲の森達也氏は、オウム真理教の内部と外部との間の世界認識の断絶を「A」によって描いた。さまざまな分析、さまざまな論評が行われたのである。そして結局のところ、オウム真理教というのは、どこかでわれわれの社会の「写し絵」となっていることが、さまざまな論説によって検証されていったのだった。

 しかしながらその一方で、オウム真理教の教団内部では、そうした検証作業はほとんど行われてこなかったように思われる。再び、松永氏のインタビュー。

佐々木 :今おっしゃる話はすごく理にかなっているというか、すごくよくわかるんですけど、外部から見ると、95年の事件の罪を負っていかなきゃいけない団体っていう風に見られているわけで、そうするとそこで内部に於いて一つの統一された教義を持っている我々っていうのと、外から見られているオウムっていうのにものすごいギャップがあるわけじゃないですか。

松永 :そうですね。

佐々木 :そうすると、そのギャップってどうやって解消・・・解消できないのかもしれないけど、どうやってバランスを取るんですか。

松永 :もうね、何ていうのかな。

R30 :こっちが聞きたいですよね。

松永 :ギャップあり過ぎみたいな。もう諦めるしかないっていうのかな。外から見りゃ殺人集団で、今でも何か企んでるみたいに「きっこの日記」でも書いてましたけど、今でも人殺そうと思ってるみたいな。でも、教団内にはそんなヤツ誰もおらんっていうね。「もう警察なんか厄介になりたかなんかねーよ」と。「もうおとなしくしてるから勘弁してください」というか、そういう無頼で、だからみんな理解されてないっていう意識はありますよ。

佐々木 :それはもちろん今現在はそういう事件を起こさないだろう。それはわかるんですけど、過去にそういう事件を起こして、それはもちろん一部の信者がやったこととは言え、尊師が関与していたっていうのは間違いないわけだし、そうなると教団のコミュニティとしての責任なり罪っていうのはやっぱりあるわけで、それについてどう自分たちで咀嚼しているのかっていうところをお聞きしたいんですよ。

松永 :だからその辺が1999年までは全く認めないっていう方向で行ってたわけですよね。その前後に内部にもいろいろ議論があって、少なくとも団体の中の構成員が事件に関与したことは認めないといけないだろうし、そこで賠償を支払っていくということも決まったわけですよね、2000年にアレフになった段階で。

 それで私は、このやりとりに続いて「松永さん個人としてはどうなんですか」と聞いた。それに対して松永氏は、少し前に紹介したように「ピンと来ないってところはあるんですよね」と答えたのである。

 松永氏は1995年の事件当時、教団内部にいて広報誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」の編集執筆などを行っていた。強制捜査の前後には、上九一色村のサティアンにいたという。事件後も教団に長く留まり、さらに90年代後半には河上イチローとして、非常に切れ味の鋭い言論活動をインターネット上で展開していた。彼の著述家としての能力は一般社会の中で見ても傑出しており、みずからの内部に抱えている抽象的なものを、言葉として具現化する能力はおそらく教団屈指だったのではないかと思う。しかしその彼にして、事件から10年経ったいまも「ピンと来ない」という言葉しか語るものを持たず、いまも事件に対して呆然としているように思える。彼のような優秀な人物でさえも、事件をみずからの内に消化できていないのだ。

一般社会も同じではないのか?

 しかし実のところ、その認識の乏しさは、教団の外側にいるわれわれも同じようなものではないかと思う。

 オウムについてのさまざまな分析が行われ、そしてまた絶対的正義を盾にして彼らを批判することの危険が「A」などの映画によって指摘されているのにもかかわらず、やはりわれわれは1995年に感じた圧倒的な根源的恐怖から逃れることが、今も可能になっていない。言葉でわかっていても、実際にオウムを目の前にすると「この場所から出て行け!」とシュプレッヒコールを上げるしか言葉を持ち得ないのである。悲しいながら、それが現状なのだ。私にしても、1995年3月19日の夜に感じた根拠のない恐怖を、情けなくもいまだに忘れることができない。

 教団内部の人間は十年一律のように呆然とし、一方で外の人間はバッシングして「オウムは出て行け」と繰り返すしか言葉を知らない。この十年、その状況はひとつも進歩していない。結局のところ呆然としているのは松永氏や信徒たちだけでなく、外側にいるわれわれも同じなのではないか。

 もちろん、オウム真理教の信者たちはみずからの教団の幹部たちが五十人近い無辜の人間を死に至らしめたことに対して、一生涯の重荷は背負わなければならない。しかしながら、その重荷がなぜ彼らみずからの重荷となり得ていないのかについては、われわれ外の人間も同時代に生きる者として受け止めなければいけない性質のものなのだ。

 それはR30さんがブログで以下のように発言していることと呼応する。

この問題に簡単に結論を付けることなどできない。なぜならそれは、松永氏だけの問題でも、アーレフ信者と被害者との問題でもなく、おそらく日本人全員の問題だからだ。自分自身の過去の反省をうやむやにしてきた我々日本人自身が背負っている十字架を見ずにオウムを罵倒する人は、まさに自分を嘲っているのと同じである。

 私がR30さんのこの発言を読んだときに感じたのは、多くの批判者が書いている「オウムと日本国民を一緒にするな」という身も蓋もない批判、反感ではなかった。実のところ、R30さんの言説は、単なる脊髄反射的な感想にとどまらず、非常に重要な意味を含んでいるように思えた。彼の意見から私が受け止めたのは、「オウム」や「大日本帝国」という被害を与えた側の認識のあり方の問題ではない。そうではなく、オウムや大日本帝国から被害を受けた側――つまり大日本帝国に侵略された中国や韓国と、オウムによって生命の危険を感じた日本国民の側の認識のありかたの問題だった。その「被害を受けた側」の認識としては、「歴史認識が問題だ」と言い続けている中韓の人々と、オウムの危険性をいまも声高に指摘し続けている日本社会は特定の場所においてオーバーラップするし、そのアナロジーには何らかの意味が存在すると思える。

 日本と中韓、オウムと日本社会の間に横たわっているのは、決定的な認識のずれと、絶望的なまでのコミュニケーションの断絶だ。それは実のところ、日中韓やオウム−日本社会だけでなく、先に挙げた『断』のコラムで書いたように、いまや社会の至るところに偏在しているように思える。

インターネットに期待していたこと

 正直に打ち明ければ、そうした断絶や認識のズレを埋めていくためのツールとして、インターネットは有効に作用するのではないかとここ数年、私はずっと牧歌的に考えていた。Web2.0に象徴されるような新しいインターネットの世界では、マスメディアが発信した情報も個人が発信した情報も、すべては相対的にネット上に表れ、それらを人々が取捨選択してみずからの内へと咀嚼する。それによってリアルな世界では解消されなかった「権威」が解体され、すべての言説は同じ土俵の上に表出する。われわれはその相対化をきちんと受け止めなければならない時期に来ている。それは一種のディスコミュニケーションであるけれども、ディスコミュニケーションもひとつのコミュニケーションのあり方であって、だからこそ私は「多様性を容認する新たな日本社会の幕開けとなるかもしれない」と『断』で書いたのだった。

 だが今のところ、そのディスコミュニケーションの行く先に、新たな地平線はまだ見えてきていない。私は「取材過程も含めて、インタビュー内容をすべて公開する」という泉あいさんのオープンジャーナリズム的手法は、そうした新たなメディアコミュニケーションのひとつの試みになるのではないかと思い、だからこそ泉さんが「一問一答をすべてウェブで公開したい」と伝えてきたときにも、反論しなかった。いまや取材する側とされる側は完全に相対化されている時代であり、「ネタをとる」という目的で取材手法が浄化される時代ではなくなったのだ。このあたりの話は以前、HotWiredの「インターネットが取材を変える日」というエントリーで書いた。

 だが蓋を開けてみれば、そうしたオープンジャーナリズム的行為に対するインターネットの世論は、GripBlogの炎上に象徴されるように、絶対的批判に終始した。

 その批判にはかなりの部分、的を射ている部分があるのは否めないし、私は反論する材料は持っていない。結局のところ、絶対的な社会正義に抗するというのはとても難しい作業なのだ。

 とはいえ、私にはそうした「絶対的正義を声高に主張すること」への拭いがたい不信感があるし、そうした声が大きくなることへの危機感もある。

ネットが求めてきたのは「絶対的正義」ではない

 考えてみてほしい。

 ブログの登場によってマスメディアは相対化され、多くのブロガーたちがマスメディアの言論を批判した。新聞やテレビが独自の情報網によって取材してくる、一次情報や特ダネを批判したのではない。マスメディアがその絶対的権威を背景に、一方的な社会的正義を押しつけてくることへの批判だったのだ。社会正義とマスメディアが考えている言論は、本当に正しいのか? おまえらの主張してることは本当は根拠が曖昧なんじゃないのか?という批判である。

 だからこそ、初期のジャーナリストブロガーはあちこちで炎上した。「南京大虐殺が無いと言ってる連中は退化した猿だ」といった意味のエントリーを書いた新聞記者のブログや「コメントを大量に書く連中はネット右翼だ」みたいなことを書いた専門家ブログが炎上したのは、彼らが何かの権威によりかかって「おまえら下々の言っていることは間違いだ」という絶対正義みたいなものに対する嫌悪感だったのではないかと思うのである。多くのブロガーは「あんたらの言ってる絶対正義って、本当は根拠はないじゃないの?」と彼らの言説を相対化しようと、対抗論陣を張ったのだ。マスメディアのポストモダン化を図ったのである。

 そうやってインターネットとマスメディア、素人と権威者の関係はフラットになっていき、権威や組織に寄りかかるのではなく、自分の信じる論理のみに頼って自由に言論を戦える場所がブロゴスフィアにできあがってきた――と何となく思われていたのである。

 だが先に起きた経済産業省の現役部長ブログ炎上事件や、泉あいさんのGripBlog炎上事件は、位相がかなり異なっている。確かに経産省の部長は脇がとても甘いし、泉さんはジャーナリストとしてはまだまだ半人前で(と偉そうに私がいうのはおこがましく、許してほしいが)、突っ込みどころは満載だろう。

 とはいえ彼らは、絶対的正義を振りかざす人たちではない。実のところ絶対的正義を振りかざしているのは、彼らを指弾しているネットの側なのである。

 「業務時間中にブログを書いて、国家公務員法違反じゃないか、詫びろ」「オウム真理教のような殺人集団の片棒を担いだのはどういうつもりだ」という批判は、まったく持って正義に満ちあふれているし、誰にも大声で反論できない。私は、フラット化の果てにネットの空間がこんな風に傾斜していくとはまったく想像もしていなかった。まったく情けないことに、ネットを取材していてそういう可能性に頭が行かなかったのである。

ネットの正義は社会の写し絵か

 ネットの中に絶対的正義が醸成されてきてしまった背景は、どこにあるのだろうか。

 オウムに対して日本社会の中には、呆然と恐怖心だけが残り、それが漠然とした社会正義へとつながっている。その社会正義はひどく漠然としているけれども、言論としてネット上に出現したとたんに、絶対的な正義として表出される。漠然から絶対正義へと至る変容がなぜ生まれるのかは私にはまだよくわかっていないのだけれども、90年代以降の社会が生み出した宙に浮いたような抽象的なオウムへの恐怖心が、ネット空間にも流れ込み、ある種の空気として漂っているということなのかもしれない。その暗い空気を言論化すると、それは絶対的な正義へと転換してしまうということなのかもしれない。そうであれば、オウム真理教と同種の恐怖が今後もさまざまに社会の中に生じていけば、同じことは次々と起きる。

 フラットになるということは、こうした絶対的正義をも許容しなければならないということなのである。これはなかなかたいへんなことだし、抱えていくのは非常につらい。フラットの呪縛と言うべきだろうか。

 しかし私は今でも、マスメディアが声高に書いてきた絶対的正義の向こう側に、フラットになった言論の世界が誕生し、そこにインターネットのジャーナリズムの可能性があると信じている。なにがしかのその可能性が、単なる楽観主義でないことを、私は今ただひたすら祈っている。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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