地方創生に6年間携わっているうち、時代全体がDXとなってまいりました。個人的にも内閣官房・内閣府から経済産業省に戻ってきましたし、投稿を再開させていただこうかと思います。
東洋経済に掲載された、台湾政府で「デジタル大臣」を務める唐鳳氏の取材記事。素直に良いなと思いました。中身の紹介は省きますが、どうして日本では、こういうフラットな批評が広がらないんでしょう。そうFacebookの方で問いかけてみたら、村上さんはどう思います??という発注を頂戴してしまったので、それに対する自分のコメントを、Cnetブログ投稿、復活第一号のエントリにしてみようかと思います。
これは同時に、佐藤優さんの「人類の選択」という本のあるセクションに出てくる話のご紹介にもなります。
感染拡大対策について、今、政府は厳しいご意見を頂いています。ただ、こうした「(適切な)ゴール」への待望論は、いつのまにか、自分の方から積極的に、全体のあるべきゴールに合わせようとする機運を生み出す恐れも孕みます。これを、ドイツの社会学者、ハーバーマスは「順応の気構え」と呼び、警鐘を鳴らしました。佐藤さんのコメントも、そこからスタートします。
今、一人一人にとって大事なのは、社会全体としての「適切なゴール」ではない。自分自身で、判断の基軸になるような「薄い人間関係」のネットワークを持つことだ。そういう問いかけが、コロナ対応の一つのヒントになるのではないか。佐藤さんは、そうお題を設定します。
その上で、「薄い人間関係」の興味深い例として、『チョンキンマンションのボスは知っている』という本を紹介します。香港の雑居ビル、重慶大厦(=チョンキンマンション)に住むタンザニア人達のボスのエピソードをまとめた本なのですが、タンザニア人達は、「ついでに親切にする」という、薄い人間関係を好むんだそうです。
どういうことか。
タンザニア人達は、歴史的に、裏切られつづけた、厳しい歴史を背負っています。だから、基本は、「誰も信用しない」「誰も頼りにしない」という姿勢を貫きます。
そんな彼らは、意外とすぐ、「俺は〇〇に愛されている」「俺は〇〇に好かれている」と言うんだそうです。その代わり、「俺が〇〇を愛している」とか「俺は○○を好きだ」とかは絶対に言わない。
それは何故かというと、全てが「ダメ元」だからです。自分から誰かに期待して何かを求めると言うことは絶対にしない。裏切られるだけだから。その代わり、「ダメ元」で投げたIdeaや要求に偶然に応じてくれた他人がいたら、その人のリアクションは、とても大切にする。根っこの部分では、お互い信頼していないので、全ては、「ダメ元」で頼む。頼まれた方も決して無理はしない。ついでに出来ることなら手を貸す。これを、「ついでに親切にする」と、このチョンキンマンションの本の著者は要約しています。
この場合、ちょっと注意が必要なのは、投げやりな、「ただのダメ元」とは少し違うところです。ダメ元で頼んでも、結果的に親切にされたら、そのこと自体は、とても大切にする。それがタンザニア人達の生きてきた知恵なのかもしれません。
「会社はこうあるべき」、「国家はこうあるべき」といった目的論を共有できる完璧な人間関係ではない。ただ、「ついでに親切にする」ということを積み重ねられるような、緩いけど大切な人間関係を、みんなが個人レベルで大切にする。会社の論理、資本の論理、国家の論理に惑わされない、直接的な人間関係の輪を、それぞれが作り込む。
今の時代、なまじ情報が多いので、「あるべき目的」を探して待っていると、どうしても多すぎる情報量に惑わされて、何が正しいんだか分からなくなってしまう。そんなときに、逆に身の回りに頼れる人間関係が乏しく、いきなり全体の判断を待つしか無い立場に追い込まれてしまうと、立ち止まって考えることが出来なくなり、結局全体に流されるしかなくなる。だからこそ、大切なのは、このタンザニア人達が大切にする、「薄い人間関係」なのではないか。
佐藤さんが仰りたいことはとてもよくわかる気がします。確かに、「薄い人間関係」というと、表現がちょっと極端かもしれません。でも、価値観の全てを縛られ、お互いに期待し、期待され、みたいな距離感では無いところで、一人一人が、自分の人間関係のネットワークを広げておく。そうした一人一人の自立した振る舞いこそが、社会全体がレジリエントになるためにも、とても大切である。僕も、そこは基本形かなと思います。
このご意見自体には、個人の立場と、行政官の立場と、区別しないととても整合的なコメントは述べられそうもありません。また、どちらの立場だけで答えても無責任な気もします。
ただし、先程紹介した台湾の唐凰氏のような論調が何故出てこないかというお題について言えば、今の国内の批評は、「全てにおいて正しい」議論であろうとする。なんとか、他の人の議論にマウンティングして、「自分の議論こそが、この適切なゴールの頂点にいる議論だ」。そういう空気感が蔓延しているからじゃ無いかなと思いました。
やや「順応の気構え」に振り回されはじめている日本が、ここにある。今必要なのは、タンザニア人的のりのまま、お互いが、もっと正直になったコメントを、互いにぶつけ合う、そういう社会的コミュニケーションの復活なのでは無いだろうか。といったあたりでしょうか。
簡単に言え変えれば、意見の多様性を、若しくは、常に、自分の意見は多様な意見の一つである、という言論人としての生き様が求められている。そういう単純なことのような気もしますが、ブログの投稿を再開するに当たり、ちょうど良い立ち位置の確認と思い、最初のテーマに選んでみました。
また、宜しくお願いいたします。