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政府の審議会を、ニコ動で放映せよ・・・という、東浩紀さんの「一般意志2.0」を読んで(前編)

2011/12/25 22:00
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 東浩紀さんの新著、「一般意志2.0」が出た。環境管理型権力と言っていた頃(ISEDという勉強会の頃)と比べ、随分、議論がブラッシュアップされた印象だ。しかも、平易に書くことにすごく集中している。専門家からの批判を恐れず、キーメッセージを伝えようとする姿勢が潔い。


 「審議会をニコ動に放映するなんて、もうやっとるやん・・・。」そういうシンプルな意見もある。が、ここは多少もっともらしく、所見を述べてみたい。


 


1.若者の不安、若者の不満


 


(1)秋葉原の通り魔殺人事件


 


 本書は、何故、政治や行政が機能不全に陥りかけているのか。その問題意識に、情報技術の活用をもって、応えようとした本である。


 東さんは、日本社会の現状について、こう訴える。我々は、「国民が本当に何を望んでいるのか。わからないという更に深刻な事態」に直面していると。


 


僕は、この問題の背景を理解する上で、世代論が欠かせないような気がする。東さんは、かつて、秋葉原の通り魔殺人という不幸な事件が発生したとき、テレビや新聞の取材に関して、こんなエピソードを披露していた。


 


第二、第三の犯罪候補者はいくらでもいる。今、若者は「不安」なのでない。「不満」なのだ。でも、取材に来るマスコミは、「若者の不満」と喋っているのに、何度言っても「若者の不安」と聞き間違えて帰っていく(例えばこのビデオ1:50あたり)。みんな、今、若者が抱えている事態の深刻さが分かっていない・・・


 


僕には、この話が非常に印象に残っている。従来的な代議士制度にも、従来的なメデイアにも、彼らの声は届かない。30代前半以下の、年収が300万円前後に満たない窮乏化した層(それは、今や同世代の半数に迫らんとする勢い?政府統計ではありませんが、例えばこんなページも・・・)に、今の社会の中で毅然と振る舞う場も、チャンスも与えられていないのが実情だ。


 


「もっと自分達から、世の中の正面に出てきて主張するべきだ。」立派な人ほど、そう言うだろう。確かに、国際的にも活躍し、元気にアピールしている若者だって現実にいる。しかし、僕はそれだけでいいとは思わない。むしろ、「社会」の方が彼らから相手にされていない、そういう視点も必要なのではないだろうか。


 


 


(2)実家とネット


 


窮乏化した若者達はどういった場を通じて、社会とのつながりを持っているのだろうか。どこに潜んでいるのだろうか。


とても乱暴な観察だが、僕は、彼らの実家とネットに、その接点があるのではないだろうかと思う。実家に帰れば、普通においしいご飯がある。自分がかつて育ってきた部屋がある。自分に収入がなくても、何も惨めな思いをする必要が無い(厚労省の雇用実態調査は要チェックか。自分の収入で暮らしている若者は、同世代の44%・・・)。


帰る場所がある。最後にはその安心感があるから、普段はネットで仲間を探せば、日々の寂しさや不安を紛らわせることができる。そうしてネットに、自分を晒せる場を見つける。


 


しかし、問題はここからだ。というのも、そんな日常も、今後、長くは続かないのかもしれないからだ。NHKニュースが、飯島愛さんのブログを特集しているコーナーを偶然見た(この欄の中断ほどに記録があります)。NHKにしては、珍しい。


 


亡くなられて、もう更新も返事もないはずの飯島愛さんのブログに語りかける若い女性が後を絶たないという。どうしようもなく寂しがり屋の彼女が、芸能界の光の当たる生活の背後にあった辛い日常を綴ったブログ。それが、今、若い女性の間で、広く共感を集めているようだ。


例えば、東京の暮らしに失敗した30前後の女性。結局、祖父のいる田舎に帰り、彼の介護を始めることになった。両親を早くに失った彼女は、高校卒業後逃げるように上京したはずだったのに、結局、人里離れた実家に舞い戻り、祖父と二人で向き合う暮らしに耐えている。日々の不安を飯島愛さんのブログにコメントすることが、彼女の暮らしの唯一の支えなのだという。


 


飯島愛さんの話を取り上げたいわけではない。だけど、両親というファクターを外したら、こうなってしまう。彼女は介護に忙しく職にすら就けないのだという。理由はともあれ、窮乏化した若者層の脆弱な生活基盤の一端が垣間見える、シビアな実例のような気がした。


おそらく、これは氷山の一角。ネットというバーチャルな世界以外に繋がりを失いかけている若者は、きっとたくさんいる。その事態の深刻さを、もっと、日本全体として認識する必要があるのではないだろうか。


 


40前後以上の僕等の世代は、元気の良い若者だけを見がちだ。確かに、僕等以上に国際的に活躍している立派な若い奴もいる(例えば、Restaurant-Iを経営する松島啓介さんなんか、すごいと思います。)。彼らは、知的ノマドとして、自由にボーダーを超え、どこにでも行ける才能を持つ。


しかし、大事なことは、量的に見れば、日本にいるしか生きるすべがない人たちが、日本人の大半を占める、ということである。コスモポリタニズムの逆を見つめなおす必要がある。


あと数年後、彼らの世代を支える団塊の親世代が、本格的に要介護世代になったら、日本はどうなるだろうか。親が自分の子供達を支える時代から、逆に親への支えが必要な時代になったらどうなるだろうか。


 


日本の国としての競争力は、トップ層だけで作れるものではない。そして実際、ネットに眠る彼らには、強力な知的パワーとやる気を宿している。その力をどう活かしていくのかを考えなければ、このままでは、日本社会自体が、ある瞬間、ポキッと折れかねない。


やや唐突だが、何故、「ものづくり」への憧憬が消えないのか。それは、きっと、「ものづくり」自身の大切さもさりながら、必ずしも学歴や偏差値だけでは語れない、多くの優秀な日本人の力を、現場に巻き込み、活かしていくフィールドを、ものづくりが提供してきたからだ。そして、今、「ものづくり」に取って代わる、「みんなのやる気を引き出すフィールド」が、見当たらない。だから、どうしても、「ものづくり」が雇用の象徴として、その雇用数以上に、評価されることになる。 


ものづくりに取って代わる、やる気を引き出すフィールドが、今の日本からは消失しかかっているのではないだろうか。様々な問題の一つの歪みは、ここから発生しているのではないだろうか。秋葉原の通り魔事件が垣間見せる若者の不満は、決して他人事ではない。このパワーをどこに向けていくかは、日本の国力にも深く、とても深く関わっている。


東さんの当時の警鐘に、僕は深く印象づけられた。


 


 


 2.一般意志ということ


 


(1)政治・行政の機能不全


 


東さんは、本書で、こういった世代論を展開しているわけでは全くない。むしろ純粋に、政治・行政の機能不全を憂え、その処方箋を示そうとしているだけである。ここでいったん、話を本に戻そう。


 


確かに、社会全体の舵取りは非常に難しい時代になった。行政の中にいても、国全体としての意志決定が、とてつもなく難しくなっているような気がする。つまり、何かを決める、ということがとても難しい。


 


今、政府はどんな手を打っても、うまくいかない、そういう不安に苛まされている。例えば、経済政策は、世界的なデフレと国際的な過剰信用の奇妙な併存によって出口を失っている。財政政策も、金融政策も効果が乏しく、欧米の市場資本主義における市場の失敗は、なかなか補正できなくなっている。他方で、同時に、中国のような強大な国家資本主義が国際市場になだれ込んでいる。個々の企業は、非常に難しい舵取りを迫られている。


困っているのは、産業だけではない。こうした市場論理の狭間で、その動きについていけない地域経済からは、悲鳴にも似た声が多数上がっている。これらの社会政策へのニーズも、地域、立場によって、多様化・分散化している。介護が大事か。子育てが大事か。農地が大事か。所得補償が大事か。過疎化が進み足下のコミュニテイが壊れつつある結果、様々な矛盾が、一挙に国に押し寄せている。国の政策が、とても全部つきあえるような余力は、もはやない。


今現在、国家財政は経済政策、社会政策の両面から、増え続ける選択肢と難易度の増す要望の内容に、ついて行けなくなっている。そのことが、近年短命化し、運営に苦労されている政権にわかりやすく現れている。


 


しかし、もう少し正確に言うと、たぶん、選択肢が多様化したから選べなくなっているのではない。その中からどれか一つの選択肢を選び抜く、明確に優先順位付けする、そういうことができなくなっている。どれかを選ぶ権限の正統性を、今、誰にとっても、持つことが難しくなっている、ということなのではないだろうか。


複数ある選択肢からどれかを選ぶ、ということと、世の中の意見を代弁すると言うこととは、少し違う。世の中の意見が一つの選択肢に集約されることなど、最初からあるはずがない。それは、今の時代に限ったことではない。では、今、何が大変になっているのか。今の時代に特徴的な事態があるとすれば、選択肢を集約すること自体が極めて難しくなっているということなのかもしれない。僕には、そんな風に感じられる。


 


 


(2) 全国民の意志


 


世の中が複雑になりすぎた。情報量も増えすぎた。東さんも引用する大澤先生の言葉を借りれば、「島宇宙のように相互に孤立した無数の共同体」への分解が進んでいる。確かに、そういう感じはある。ただし、世の中に多様な意見があること自体は、別に今に始まった話ではない。ちょっとそう思う部分がなくもない。


 


こうした時代に合って、辛いのは、むしろ、なまじ情報量が増えたが故に、政党やメデイアなど、媒介する役目のプレーヤーが、意志を持って意見を集約しようとすればするほど、本当の世の中の平均的な意識や意見とは離れていってしまう傾向がある、ということではないだろうか。


 


楽観的かもしれないが、僕には、日本という共同体が、そこまでバラバラになりきってしまったようには、思えない(「家政婦のミタ」が異様なまでの視聴率を稼いだのも、ちょっと驚きだった)。意見自体の多様化ももちろんあるとは思う。しかし、より深刻な課題なのは、結論を共有してしまうより、より理想的な結論に向けて闘い続けている方が得だ、そういうミクロの状況が、多くの代弁者にとって顕在化しつつあるからではないだろうか。


 


例えば、日本には、地球温暖化対応に熱心な人もいれば、コスト負担を極端に嫌う人もいる。誰かに集約を頼めば、その集約に両極端な見解が浮上し、8割方の真ん中にいる人たちの気分は反映されずに終わる。


温暖化効果ガスの25%削減を実現すべきか否か、例が不適切かもしれないが、世間で主張される選択肢は、誰か代弁者を通せば通すほど、どんどん両極に分散化し、果ては、両者の意見が集約できない事態に陥る。むしろ集約されない方が、それぞれの意見を代弁する人にとっては、ありがたかったりもする。悲しいパラドックスだ。


 


高度成長期のような、比較的同じ方向性を向いた社会意識や意見は、もはや存在し得ない。若しくは、単純に、そういう風に見えるような状況は、今後はそう簡単には作れないだろう。そして、媒介者を頼れば頼るほど、特定の意見が強化され、全体の気分や雰囲気が反映されなくなってしまう。温暖化対策を極端に進めることも、温暖化対策を全く止めてしまうことも、どちらも反対という一般の気分を代弁できる人は、どこにもいない。


 


もちろん、煽動すれば、大衆の意志のような形で、国民的な意見を絞り出すこともできるだろう。例えば、25%削減を絶対に国内で実行・達成すべきかどうか、国民投票にかければ、それは、一応、「全国民」の意志ということになるだろう。しかし、それは本当に、国民の意思なのだろうか。国民の冷静な判断の結果が、そこで得られるのだろうか。ここに、今の時代の難しさがある。


 


 


(3) 熟議とデータベース


 


 東さんは、顕示的な国民投票的アプローチの可能性を、おそらく否定する。ルソーが「社会契約論」で書いた「特殊意志」の一類型が、国民投票などの、政治的媒介者や仕組みによって無理矢理明確化された社会意志に相当する。しかし、国民投票が、必ずしも、全体の潜在的な社会判断を正確に反映しているとは限らない。むしろ、往々にして、その見極めを誤らせる元になる。


 


21世紀に至るまで、世の中には、特殊意志を通じてしか、社会の意志を確認する方法がなかった。だから、一生懸命議論を積み重ねて、代弁者を通じた意見集約を試みるより他、仕方が無かった。でも、ITが発達・普及した今、状況は決定的に変わった。僕らは今、誰か特定の代弁者を通じなくても、ITを通じて、広く国民全体の空気感を知ることができる。それが東さんの主張するもう一つの重要な変化だ。


 


徹底して議論することを是とし、代弁者によって意志を媒介・伝達される「熟議」という世界。ITを通じて伝えられる全体の空気感を、「データベース」という形で著すデジタルネイテイブな世界。前者は意識的な所作だが、結果、誤謬を伴う。後者は、無意識に近い所作だが、結果、社会全体の時間断面を反映する。そのように整理した上で、東さんは、次のように言う。


 


無意識の概念を知った後だと、人間の人格はもはや意識だけの制御下にあるとは考えられない。それはむしろ意識と無意識の相克の場として現れる。・・・(中略)・・・ 一般意志は、全体意志(意識)と一般意志(無意識)に分裂している。公共圏は熟議とデータベースに分裂している。だから政府2.0は、・・・(中略)・・・両者の相克の場、衝突のインターフェースとして捉えるべき、とそういう話になるであろう。


 


熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により押さえ込む国家となるべきではないか。


 


無意識をこそ統治に生かす手段を編み出さなければならない。


 


 


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※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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