お使いのブラウザは最新版ではありません。最新のブラウザでご覧ください。

CNET Japan ブログ

今こそ、全体感が必要 (後編)

2011/03/28 03:30
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
ブログ管理

最近のエントリー

続きを。 


 


2.将来の日本に向けて考える


 


  では、これまでの風景感ではなく、将来に向けた議論は、一体どうなっているのか。


 


(1) 救済のフェーズと、作り込みのフェーズ


 


今の日本には、「全てを救済しようという気持ち」と、「未来に向けて新しく作り直そうという気概」の両方が求められている。前者の気持ち。これは、今、ご紹介してきたとおり、現実世界の中にも、ネットの中にも、十分に溢れている。実際の資金が追いつくかどうかという問題は予断を許さないが、しかし、意欲は十分、満ちている。


他方、後者に向けた流れ、こちらは、これから始まる性格のものである。今は、まだまだ、被害救済、被害の最小限化が最大の課題である。


それは良い、それは良いのだが、心配は、それらが、中途半端に、「未来に向けて新しく作り直す」議論とまざってしまうと、ごちゃごちゃな日本になってしまうということ。両者は、切り離してメリハリをつけて議論していく必要があるのではないかと言うことである。 


 


僕の大切な友人から、こんな言葉をもらった。



 「いま日本人には、不必要に過剰な部分をそぎ落とし、シンプルで美しくカッコ良くという日本がDNAとして持っている感覚を取り戻す事ができるのかが、問われるように思います。」


20世紀後半の高度成長を精算しなければならない。そんなときに、遭遇した今回の震災。事態は、戦後と比較できるほど不連続な変化を求めるものではないかもしれない。そうかもしれないけど、でも、これからの日本を作る作業には、それくらいの気概がいる。救済と同情だけに覆われることなく、一歩でも二歩でも、前に進むための取組がいる。


 


(2)  「人間には往きと還りがある」 


 


先週の日曜日の朝日新聞に掲載された、吉本隆明さんのコラムが目にとまった。


 



「人生には、往きと還りがある」。「往き」は、道端に病気や貧乏で困っている人がいても、自分のなすべきことをするために歩みを進めればいい。しかしそれを終えて帰ってくる「還り」には、どんな種類の問題でも全てを包括して処理して生きるべき。悪でも何でも、全部含めて救済するために頑張るんだと。


もともとは、親鸞の「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。」(教行信証)から来ているもの。その吉本流解釈ということだと思うが、親鸞のそれは、こんな風にも理解できる。



『往相のときに飢えた人がいるとか、困ったおじいさんやおばあさんがいるから手助けしてやるっていうのは、行きがけの駄賃でやってるだけでこんなのは人を助けることじゃないっていうのが彼の考えで・・』『仮の死から転換して、そこから帰ってきてこそ、人を普遍的に助けることができるんだっていうのが彼(親鸞)の思想だと思いますね。そういう還相が上手く完成できたら、俺もちょっと納得するっていう感じがあります』 


これは、吉本隆明さんが、日本のロック業界の底を支えている(と僕が思っている)渋谷陽一さんとの対談本(「吉本隆明自著を語る」)での語り。吉本さん自身が書かれた「最後の親鸞」ではなく、渋谷陽一さんとの対談の本の中に出てきている表現だったことに、新鮮な驚きを覚え、実は、親鸞はロックだったんだ(激しくぶつかって、大きなlove&pcaceに包む?)とびっくりもしたものだが、・・・


 


閑話休題。


 


今の日本には、往相も還相も両方必要な気がする。次の日本づくりを目指して、必死に前を目指す相。これまでの日本として、全てを振り返り、何もかも引き受けようとする相。


吉本さんの指摘は、どちらかというと、この還相のあり方にあるのだと思うが、しかし、僕の中でひっかかったのは、むしろ、往相の方であった。


今、この瞬間、日本の重点は、どちらかといえば還相にあるし、その責を負うべき20世紀後半以来成功された方々には、そこをフルに頑張ってもらいたいと思う。しかし、僕はむしろ、往相の方が気になる。


信長的・破茶滅茶さと家康的・慎重さ、その両方が動き出すと、新しい日本ということになりそうだが、いかんせん、まだ、既存の仕組みが重すぎる。だいたい、ろくに成功もしてない奴が、救済を語るのも滑稽だ。今こそ、重い仕組みのふたを押し開け、若者が喜々として、国作りに飛び出すときかもしれない。


 


(3) いくつかの視点


 


 自分はすでに、往相ではなく還相の人たるべき年代かもしれない。が、たいして成し遂げたという実感もないので、まだ往相にいるようにも思う。もし、多くの人を救済できるような立派な資格などないとすれば、 将来に向けて、気になっているいくつかの視点について、放言してみたい。


 


① 自然への畏れ


 


例えば、今、自分は地球温暖化問題を担当している。しかし、今回のような事態を目の当たりにすると、今の気候変動問題への対応策論議は、人為的な命題に振り回されすぎていると感じざるを得ない。


排出権取引、環境税、その他炭素価格を基本とした各種ポリシーは、ややもすれば人類自身が、地球に持続可能な形で生き残れるよう、自らの力で環境を管理できる、そういう傲慢さが宿っているようにも思える。僕らは、今回示された自然の力の大きさと人の無力さの前に、考えるべき地球環境問題の課題設定を、よくよく見つめ直す必要がある。


持続可能な発展を目指すなら、経済原理で問題が解決するというビジョンこそ、見直されるべきかもしれない。資本主義の加熱と、暮らしの調和。仕組み化するたびに犠牲になる、人の気持ちや感性。大きな力を持つマクロの仕組みと、個々のミクロなモチベーション。


今大切なことは、同情を煽ることでも、反政府・反メデイアを煽ることでもない。暮らすということの原点に立ち返り、環境作りを積み上げることであるはずだ。


 


 


本来、暮らしの中には、自然への畏れも、持続可能な取組への配慮も、自ずと含まれてくるはずのもの。暮らしが都市の中に融解し、共同体的生活が解体されてしまったからこそ、個人が、環境に対して無責任になっているともいえる。


実際、温暖化問題の多くは、都市問題だ。一見、問題の元凶にみえる産業分野のエネルギー消費は、実は90年代以来一貫して下がり続けている。今なお、増え続けているのは、交通、ビル、家庭などの都市の民生・業務分野だ。地域と密着した暮らしの中に宿っていた生活の知恵は、都市生活の中で融解し、見えない外縁の中で、自分だけは良いだろうという緩みが生まれている。ただし、それが新たな市場ニーズを生む側面もあることから、市場は積極的に、それを許容する。


いわば、こうした都市生活の中での「野放図」な実態を、経済原理で再規整しようというのが、炭素価格の発想かもしれない。しかし、これまで、現実を見る限り、人々の暮らしや企業の投資判断は、排出するCO2の多寡では決められておらず、その力は微力にとどまっている。一言で言えば、人々の投資行動や消費行動を変えるには、価格弾力性が低すぎる。


都市には集積するからこその魅力もある。これだけ経済的に東京にアジア拠点を置く意味が薄れてもなお、少なからぬ多国籍企業が東京に拠点を残しているのは、東京が暮らしやすく、また、面白い街であるからに相違ない。都市間の国際競争という観点からだけ見れば、東京を解体すれば良いというほど、事態は単純でもない。


 


 


資本蓄積の可能な資本主義的な都市の暮らしと社会、地域に根付く共同体的暮らしや協同組合的世界。資本投下できる世界へと組み替えるのか。公的資金で組合的世界を支え続けるか。また、それぞれの内部で、その世代間格差をどう乗り超えていくのか。その境界をどうデザインするのか。もう一度、日本のあり方が大きく問われている。それは、ちょうど、戦後の日本で、自民党政権が、20世紀後半の所得の再分配構造を大きく方向付けていったのと同じように。


一般に、グローバル化した資本主義市場は、冗長性を持たせつつ、開放性を重視し、かつ、市場動向は超短期の一瞬の合理性にも過敏に反応するという意味で、同時性を厳しく要求する。


他方で、共同体的な暮らしの側面では、冗長性よりも自分の身の丈に合った効率性を求められる。過剰な開放性よりは、むしろ閉鎖的な安定性が大切にされる。そして、短期的な動向よりは、長期的な見通しや安定性を求める傾向がある。


両者は、得てして対立する。共同体的な暮らしが無理して、ありのまま、資本主義市場に入り込もうとしても、大概の場合、過小資本から被・搾取への立場へと迷い込み、持続可能性を失う。逆に、資本主義市場がありのまま、共同体的暮らしに潜り込もうとしても、単に共同体を破壊して終わる。両者は実に微妙な関係にある。冗長性と効率性。開放性と閉鎖性。同時性と長期性。なかなか、どれをとっても、簡単には融和しない。


 


例えば、今後の生活インフラを考えてみる。自然に近い地域の暮らしは、一層、自然に逆らわない暮らし方を。逆に、自然に逆らう都会的な暮らしは、徹底してバッファーを。それぞれ両方の視点から追求していくことが必要になるだろう。


情報通信基盤一つをとっても、地域では、一人一人の暮らしの中に、どこまで自然なツールとして溶け込ませられるのか。他方、都市では、その冗長性をどう徹底して確保していけるのか。両者それぞれについて、資本効率性との関係を測りながら、両方同時に実現するような社会的コンセンサスづくりが、問われていくことになるに違いない。


 


日本は、世界とすでにつながっている。今更、時代にただ後ろを向いて共同体的アプローチに帰るだけのような選択肢は、おそらく、残されていない。都市も、単に解体すればすむという単純な話ではない。


自然への畏れを思い出しながら、冗長性と効率性、開放性と閉鎖性、同時性と長期性を、たゆまずぶつけ合う社会力。ここに、日本的シンプルさがどう結合していくのか。今後の、日本による、日本に対するデザイン力が問われているように思う。


 


    技術を使う文化の力


 


 もう一つの切り口が、文化である。技術には、作る力と使う力の両方が必要である。前者は、経済が支えるが、後者は暮らしの知恵や文化が支える、それが自分の個人的な考え方である。


今の日本は、技術を作る力に秀でたものの、それを使う力の涵養に失敗をし、自分たちがしてきたことを評価できなくなっているのかもしれない。間違った引用かもしれないが、思想地図βを紹介する自分のTwitterの中で、東浩紀はこう語っている。



いま日本で一番足りないのは、自分たちの社会が『やってしまっていること』を捉え返す言葉です。現実はどんどん先に行っているのに、意識が追いつかず、あちこちで衝突が起きている。」


例えば、原子力一つをとっても、今後、賛成・反対といった極端な形からスタートして、様々な議論が起こると思う。また、原子力だけでなく、港湾等埋め立て造成、上下水道インフラ、電力グリッド全般、交通インフラ、輸送サービス、情報通信インフラ、本当にいろいろな技術が議論の対象になっていく。


そのときに大切なことは、今の技術が良いか、悪いか。その技術自体の善悪だけでなく、技術を使う側の問題である。「経済は文化のしもべである。」 かつて、ベネッセの福武会長のお言葉である(関連web)。そこまで言うと、極端だと怒られてしまうかもしれないが、技術の最後の出口は、暮らしであり、暮らしのリテラシーの高さが、技術の是非を決める。両者は、鶏と卵ではあっても、どっちがどっちかを一方的に規定するものではない。僕らは、今、自分たちの暮らしの文化力をこそ、正面から、見つめ直すべき時期にいるのではないだろうか。


 


かつてのエントリの後半部分で引用した、原研哉さんのお言葉である。



日本の近代史は文化的に見ると傷だらけである。しかし自国の文化を何度も分裂させるような痛みや葛藤を経た日本だからこそ到達できる認識もある。日本人は常に自身を世界の辺境に置き、永久に洗練されない田舎者としての自己を心のどこかに自覚しているようなところがある。


これだけ読むと、「辺境?」っていうことになるかもしれないが、今、日本は、世界との関係で、日本というものの位置づけをリセットできるチャンスを握っているのかもしれない。そう感じている。


安全保障上の甘えた立場に乗じて、ぬくぬくと経済成長した代わりに、資金面で世界経済に貢献し続けた20世紀後半の日本。その日本が、もはやファイナンスの面で世界に貢献できなくなっている今、世界の中での自分の位置づけを、もう一度自己定義しなくてはいけなくない。


 



日本文化のシンプル志向や、空っぽの空間にぽつりとものを配する緊張感はアジアの中でも特殊である。他のアジア地域は装飾一つをとっても高密度で稠密なディテイルを持つ。しかしながら、日本は一転して簡素で空っぽをよしとするような発想がある。「数奇(すき)」とか「寂(さび)」そして「間」などというセンスの土壌は何なのか。


 ・・・(中略)・・・


 別の言い方をすると腑に落ちたとうことか。様々なルートから多様きわまる文化を受け止める日本は相当に煩雑な文化のたまり場だったのだろう。それら全てを受け入れ、混沌を引き受け続けることによって、逆に一気にそれらを融合させる極限のハイブリッドに到達した。・・・(中略)・・・日本の美意識は、辺境から世界を均衡させる叡智として育まれたものである。(原研哉「デザインのデザイン」から)


今まさに、新たな技術の使い方、技術と暮らしの融合のさせ方を見いだすことが必要だ。そこにこそ、新たな日本らしさを築く可能性があるのではないか。ケン・奥山さんが、最新型のE6系新幹線のことを熱く語っておられたことを、ついつい思い出す。


 


 


    意志決定のオープン化


 


 大きく二つの視点に勝手に言及したが、これを実践しながら、今後我々は、エネルギーインフラ、港湾を含む土地造成、上下水道インフラ、電力グリッド全般、交通インフラ、輸送サービス、情報通信インフラ、物資の生産の回復、これらに必要な金融の仕組みなど、実に様々なことを、検討の俎上にあげていかなくてはならない。


 そこで大切なことは、トップダウン型の設計主義思想に拘泥しないことである。今こそ、トップダウン型の意志決定と、ボトムアップ型の活動の両者の適切な融合が求められる。また、それができる技術的環境が整いつつあると思う。僕らは、その環境を最大限に生かしながら、ダイナミックに、資本主義的市場と、共同的暮らしの融和局面を探していかなくてはいけない。その境界面の設計には、デザインはあっても論理はない。機能性は必要でも、一つのオプションにだけに答えが限定されるべき合理性はない。


 


 政治家だけが悪いわけでも、行政だけが無能なわけでもない。そういう批判は、こうした問題に対する回答の提示が、自分の責務だと思っていない人から出るんだと思う。もちろん、自分は行政の一翼を担う人間として、あらゆる批判に全力で応えるべき立場にいる。それを十分に踏まえつつも、なお、みんなで決められる国家に、どうやってなっていくか、そのことが実は、日本という国の新たな形を決めていくのではないかと思っている。


 そのために必要なことは、徹底した意志決定のオープン化である。それは、単に、何でもかんでもリアルタイムに情報公開しろということではない。むろん、何でもかんでも多数決的解決にゆだねてよい、ということでもない。


情報の迅速な共有はその最低限の取組ではあるけれども、それよりむしろ、意見の接合面をどう広く、様々な形で提供できるのか、そのときに、みんなが意見調整の土台として共有の材料とできる事実関係を、どのようなフレームワークの下で、同時性を持って整理していくのか。それに対して、最後、だれがどう、責任を持って判断するのか。これは、世界がかつて経験したことのない、大きなチャレンジなのではないかと思う。また、それだけの技術的基盤が、ITによって、少しづつ見えてきているようにも思う。


 資本の国際移動が完全に自由化し、技術も自由に取引される仕組みが整った中、もし、国家に競争力という概念があり得るとすれば、この意志決定の仕組みの競争力、そここそが、今後、厳しく問われることとなるのではないか。僕は、そう思う。今回の震災復興は、その最大の実験場になるのかもしれない。


 


      *   *


 


 今、起きていることを、一言でまとめるのは難しい。が、ずっと、そう言っているわけにもいかない。


 被災地に飛んでいって何かしたいと思う気持ちを、ただ、振り回していても仕方が無い。しかし、持ち場・持ち場で、できることを目一杯やるしかない、と言っているには、今回の震災の傷はあまりに深すぎる。ぼちぼち、起きていることへの全体感の整理がいる。


 そういう思いから、今感じていることをかなり乱暴に、自分に対しても強制的にまとめてみた。これだけの長文を誰が読んでくれ、どう感じてもらえるのか、吟味し再構成することもないまま、Webに乗せるのは、なにやら無責任な気もする。その辺が、自分が、文章を書くということに対して素人であるゆえんだと思うが、この文章のうちの何がしかの部分でも、良い議論を活性化させる材料になってくれれば、とても、ありがたい。


 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
運営事務局に問題を報告

最新ブログエントリー