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企業社会と市民社会の分離

2010/08/02 01:08
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 ISED本の発刊を記念したシンポジウムに出させてもらいました。本自身は相当大部ですし、自分自身も、調子に乗って話してしまったため、あまりわかりやすく話せた自信は無かったのですが、他のメンバーの皆さんのご活躍があって、非常に前向きな書評(朝日読売)を頂いたようです。

 シンポジウムそのものは、時間不足による消化不良の感もありましたが、皆さんの議論は大変楽しく、色々なことを考えながら聞かせていただきました。今回は、その時に感じたことと、最近気になっていることとのオーバーラップ部分を整理してみようと思います。

 

1.企業社会と市民社会のランデブーの終わり

 

(1) 減少する人口というインパクト

 

 今、法人税率の引き下げが話題です。 片方で、世帯別に見ると、20代〜30代の平均所得が下がっているという話があります。この二つ、一見したところ、全く関係がありません。しかし、僕には、共通の時代背景が背後にあるように感じられます。「企業が市民社会の面倒を見てきた時代の終焉」です。

 

 これまで、企業は、系列企業の雇用を支え、諸外国に較べて高い法人関係諸税を払い、自らのグループ企業社員にも高い福祉サービスを提供してきた。いわば、日本社会の「公共」的な部分を、様々な形で、おそらく資本主義社会が想定する以上の水準で支えてきたのではないかと思います。

 

 それは、企業にとっても、成長する内需の保証につながるという意味でWin-Winの戦略だった。電力や通信といったインフラ産業から、公共事業から、家電、自動車、その他日用生活品まで。こうした公共負担に耐えることが、右肩上がりの企業の成長と消費者の生活水準の向上にわかりやすく結びつき、好循環していた。

 

 しかし、人口減少というトレンドは、極めて即物的かつ物理的に、国内市場の縮小を意味します。今や、企業にとっては、無理をして国内の「公共」的な部分を支えても、決して内需は成長しない。見返りは得られない時代に入りつつある。

 最近若い人と話していても、日本経済の「成長」は本当に必要なのか。世界第二位のGDP規模に拘り続ける意味はどこにあるのか、といった成長懐疑論がよく聞かれます。それは良いんです。そうだろうと思います。でも、一つだけ勘違いしてはいけないことがある。確かに、社会は経済的に成長するだけが目的ではないけれども、資本は、必ず成長しなくてはいけない。

 前々回のエントリでも、こんなことを書いてみました。

 

 市民社会の方は、前述の通り、今や拡大均衡など望んでおらず、成長自体を目的とした議論にも興味が無くなっている。にもかかわらず、企業資本の論理だけは、その構造上、どうしても拡大を目指ざるをえない、そのギャップが解消できないということです。

 市民には、拡大均衡の願望はなく、リアリティと肌触り感のある時間・空間を大事にしようとしている。成長成長といわれても、どうしても、それより大事なものがあるような実感から逃れられない。他方で、全体を支えてきた企業の方は、競争は厳しくなるし、国内市場は縮小するしかないし、余裕を持ったことなんて言ってられず、とにかく早く海外へと拡大均衡していく必要がある。

  この資本の拡大の論理と、決して拡大を望まない市民の論理の間のパラドックスの中に、地域や共同体の再生といったキーワードが陥りがちな矛盾、ソフトパワーといいながらどこかリアリティを持ちきれないおかしさなどが、あるのではないでしょうか。 

 

 他人様のお金を使っている「資本」は、違います。必ず増やしてお返ししなければいけない。だから、日本社会は「成長」しなくてよくても、日本「企業」は、必ず「成長」しなくてはいけない。

 その答えは、何か。少なくとも、平均的に見れば、日本企業は、必ず、国内を捨てて海外に出ていくしかない。

 

(2) 市民社会を切り捨てる企業社会

 

 海外市場を主体に経営戦略を考えれば、どうしたって、法人税率含め法人負担率が圧倒的に違う韓国、中国の企業と競争条件を較べざるを得なくなる。欧米と較べてすら高い、企業の社会負担を考えざるを得なくなる。

 派遣切りの問題も、ある意味、近い面がある。歴史的に見れば、派遣や製造委託のような中途半端な「雇用」形態は、経験的には雇用の総量を増やす方向に働く。それを、正規へ正規へと追いつめれば、正規雇用自体は増えるかもしれませんが、雇用総量は減る方向に働く。実際、製造業等での若者の雇用は減りつつあるし、企業は、中途半端な雇用形態の廃止という大義名分を以て、事実上の雇用のスリム化に走ることが出来る。

 何となく、企業社会の市民社会離れが、加速しているような気がします。

 

 同じことを消費者/市民の方から見るとどうか。

 今までは、まさに、良き企業人であることが、時代を支え、自分のアイデンティティを支える、信ずべき「大きな物語」であった。しかし今は違う。企業にいても雇用不安に晒され、将来右肩上がりの生活水準が期待できるわけでもない。市場経済も混乱を深めるばかり。

 みんなが日本社会・経済自身の潜在成長率が信じられなくなった瞬間に、デフレと低投資水準という悪循環が始まり、日本経済全体が沈滞化してしまっている。

 

 こんな流れを一番敏感に、そして、まさに自分たち自身が企業社会に切り捨てられ始めていることを実感しているのが、年収200〜300万の非正規雇用市場で働き、お金が無いという理由で結婚できない、若年社会層ではないかという気がしています。

 今はまだ、団塊の世代の親が元気で、実家に帰れば、ものもある。うまい飯も食える。そう言う意味では、最後の一撃は食らっていません。決定的に惨めな思いはせずに済んでいる。しかし、今後数年先、その親が要介護世代になれば、今の時代、介護ほど、カネでサービスに差がつく世界も無い。厳しい現実を目の当たりにするのではないかと思うのです。その時に日本の国内社会に何が起きるのか。ちょっと想像するだけで怖い感じがします。

 

 だからといって「日本企業」に、必ずしも直接的利潤を生むとは限らない社会的投資の高い水準での維持を迫っても、日本社会には現状維持以外、何も起きません。むしろ、悪循環・じり貧がますます激しくなるばかり。

 確かに、企業の社会投資負担を軽くし国際的な競争条件を平準化してあげたところで、彼らが稼ぐ利益が本当に国内に還元されるかどうかは、保証がありません。そういう批判もあるでしょう。しかし、また今の路線を継続すべき理由も、どう探してもない。放っておけば、双方ともにじり貧にはまっていってしまいます。企業はより国際化を進めると同時に、日本自身も、国際化する企業にとって魅力を感じるような社会・市場になっていくしかないでしょう。

 

 では再びですが、こんな状況に追い込まれつつある、普通の若い世代の人達は、どこに行き場を求めればいいのでしょうか。

 地方に戻れば、年収200〜300万円でも十分幸せに暮らせる社会のがあるのも事実。しかし、若い子にとって、なかなか職場がない。特に力仕事が減少しつつある昨今、男性の雇用が少ないのは、なかなかシビアな現実です。

 でも、お金がない東京ほど、暮らしていてつまらない場所はない。だからこそ、つまらないリアルにそっぽを向いて、非正規労働で食いつなぎながら、ネット自体を生活の場にする人が、若しくは、携帯等を通じた身近なネットワークの中でひっそりと暮らそうと引きこもる若い子が、どんどん増えているんだと思います。

 

 では、この子達は、引きこもりっぱなしなのか。必ずしもそうでもない。実は、偶然、今の職務で地球環境問題に接しているうちに、ああ、こういう感じで、新しい動きが始まっているんだな、そう実感する局面に出会うことが増えてきました。

 具体的には、若い人達、特に今の30代半ば以下による、自分の属する「市民社会」/共同体探しが、あちこちで始まっている。エコや地域主権といったキーワードに触れて集まってくる人の流れを見ていると、本当に、そのことを実感します。

 

2.社会の設計・編集

 

(1) 環境管理型権力

 

 isedをやっていた頃って、ここまで、こうした企業社会と市民社会の分離や、若者の窮乏化を見据えて、ネットの時代を議論していたわけではありませんでした。ただ、「大きな物語」が喪失し、若しくは、産業のタテ割りや既存の産業社会秩序が、むしろ新しい価値を生み出す邪魔になっていたことをベースに、情報社会の設計の在り方を議論していたのが実態です。

 高度成長期の日本が典型的にそうであったように、産業構造から、日本全体の再分配の構造から、あたかも全体が設計可能であるかのように、大きな枠組みをトップダウンで定義し、市場機能をそこに上手く当て込んでいく、少なくとも、そういう時代がかつてはあったように思います。

 

 そうした時代では、「規律訓練型権力」が有効です。企業や社会は、従業員、若しくは国民に、「Royality」(忠誠心)のようなものを要求する。その代わり、如何に行動すべきでそれは何故かという「Legimacy」(正統性)を提供する。

 会社の「●●ism」を信じていれば、多少おかしいなと思う営業活動でも何でもやる。そうした「物語」を信じることが、結果として、自分の生活水準の向上や社会の成長にちゃんとつながっている。会社人として人生を全うすることが、自分の人生にも、社会への貢献という意味でも、しっかりとプラスに働く。

 そういう組織や社会を信じることが出来る時代の、タテ型論理の時代です。

 

 しかし、 今は、Legitimacyを信じてみても、報われない。給料も上がらないばかりか、下手をすれば、いつでも雇用を切られる。

 

 

 であれば、個人が信ずべきは、それぞれが信ずるに足ると思う価値観。大義名分です。いわば、欲しいのは、自分の生活の時間をそこに費やす、Justification(正当性)です。環境活動、ものづくり、地域社会への貢献、そうした信じれる価値に対して、行動を起こす「motivation」(動機付け)を返す。そういう時代になったのかなと思います。

 

 この発想、東浩紀さんたちがいう、「環境管理型権力」の発想に近いかなと(isedの時には、こんな形で議論してました)。または、以前の「ネット移民」というエントリでご紹介した、「リスク社会」という時代かなと。

 

 この時に大切なのは、提供する論理の中身よりも、最初に、環境、温暖化、地域主権、オープンガバメントといったコンセプトに触れた瞬間の「共感力」です。共感力のないものには、響かないし、その背景にある論理にも目を向けて貰えない。

 組織や社会が提供するLegitimacyを無前提に信じて貰えた時代は、こうした入り口論がいりませんから、ダイレクトに、論理の中身が検証し、勉強される。だけれど、「共感力」でつながる時代になると、いちいち論理を検証していたら、言葉の定義、ちょっとした観点の違いなど、すごく些細なことで失うミッシングリンクが山のように出る。

 だからこそ、逆に、聞いた時の感触、誰がどのようなコミュニティで叫んでいる言葉か、など、言葉の肌触り的な「共感」度合いが重視される。共感できるとなって始めて、そのメッセージの中身・論理が検証される。

 こういう共感の輪の広がりが、社会秩序を作る基本的な力の一つとして作用し始めているように思います。

 

(2) 社会設計のトップダウンとボトムアップ

 

 組織や社会が提供するLegitimacyを信じて貰えた時代は、社会もある程度トップダウンで設計することが出来ます。しかし、市民が企業を信じなくなり始めた時、市民が国家を信じにくくなってきた時、トップダウンで投げかける設計方針に、大きな共感は得られません。

 むしろ、政府発表であるとか、マニフェストであるとか、言われれば言われるほど何やら怪しく、また自分の身近な生活とは関係のない感覚が伴ってくる。テレビがトレンドをどう説明しようが、スポーツで何が話題になっていようが、自分の身近なところの話題に入り込んでこない限り、特段大きな話にもならない。

 大事なのは、肌触り感覚のある身近な話。共感できる身近な話が、どこまで積み上がりの効く、大きな物語になるのか。感性は論理ではなく、感じることによって動くもの。芸術が理屈では語れないように、そういう局面では、いくら理論や理屈を振り回してみたところで、言葉は積み上げられない。共感力が積み上げるボトムアップ力で、全体の流れが決まってくる。

 

 では、ボトムアップとトップダウン。社会設計として、どちらの方法論が正しいのか。

 そう言われても、どちらが正しいという結論は、たぶんありません。昔が全くのトップダウンだったかといえばそうでもないし、今が全くのボトムアップかというとそんなこともないでしょう。強いて言えば、社会設計の重心が、トップダウンからボトムアップにややシフトしている。

 おそらく、一人一人が持つCreativityの積み上げが、新しい社会のうねりを作る。Creative Collaboration(創造性の協働活動)が、うまくボトムアップが要請する論理とヒットした時に、何か大きな流れが生まれるんだと思います。

 

 残念なのは、今、トップダウン型の秩序形成に熱心な人は、ボトムアップの現場で何が起きているかを知らなさすぎる。現場力が弱すぎ、経営企画部型タイプの人がますます量産されている。他方、ボトムアップの現場で闘っている人は、トップダウンにコンセプトを整理しなくてはならない人達の苦労を知らなさすぎる。社会性に欠け、正義が社会を動かべきだと単純に思いすぎている。

 このトップダウンと、ボトムアップの出会いを、どう戦略的に編集・設計していくか、そこに、isedが延々と議論していた悩みもあったように思います。

 

3.積分的社会設計

 

 さて、では、そんな時代に何を目指して動いていくのか。自分としては、3つのポイントを指摘してみたいと思います。

  • 第一に、集積度あげる。ボトムアップ型の取組とコミュニケーションの集積度を、もっともっと上げる。

  • 第二に、VisionをActionに変える。リアルをもっと盛り上げる。 

  • 第三に、境界線を見直す。「日本」というDNAのBoundaryをもっと自由に発想する。

それぞれ、簡単にまとめてみようと思います。 

 

(1) 集積度を上げる

 

 トップダウンの流れとボトムアップの流れをどこで融合させるか。企業社会から見捨てられた感の漂う市民社会の動きを、どう大きく育てていくか。そのためには、何も生み出せなくなっているトップダウンに代わり、まずは、ボトムアップ型の共感の輪を、なめらかに大きく育てていくことが必要です。

 しかし、そのためには、まず、コミュニケーションの密度をどんどん上げていくことが必要です。今はまだ、全然、散漫。緩慢。断片だらけ。大きな流れとして見えてきません。

 SNSやブログ、そしてTwitterといったITがまさにそのツールを提供しているんだと思いますが、まだまだ集積度が足りない。地域/出身という境界、会社という境界、血縁という境界、いろいろな境界に縛られずに、素直に広がっていく共感の輪。昇華させてより大きな取組に育てるには、論理的な足し算では駄目で、一挙に積分するくらいの Jump Upが必要だと思います。

 

 そのためには、共感力に加えて、その背後にしっかりとした論理や社会性も必要でしょうし、時代を捉えていることも必要だと思います。とにかく、今のままでは、爆発が起きるような集積度に欠ける。すべてが、散発的。断片的。これでは、旧来型のマスコミに、断片として消費され、消進されてしまって、それでお終いです。

 ITをツールとしてもっともっと使って、トップダウン型の社会設計思考が理解できない現場の輪を、ガンガンに拡げていくことが必要だと思います。

 

 その時に一つだけ、陥ってはいけない陥穽があります。それが、「ケインズの美人投票」的な症候群です。自分の感性ではなく、周囲の動向を当てようとする。そういう方向にITを使い始めると、感性の集積は起きません。むしろ、一人一人の個性をつぶす方に作用してしまいます。

 しかし、こういう鳴動こそ、従来型マスコミが大好きです。マスコミは一人一人の異なる感性の集積を取り扱うのは苦手です。だからどうしても、美人投票的な動きを加速し揶揄する方向に持っていこうとする。その方が、マスコミ的にも受けやすい。ITが紡ぐボトムアップ的な世界が、マスコミと慎重に距離感を図らなければいけない最大の理由は、僕はここにあると思っています。

 

 どうも、この10年間のITの働きを見ていると、独自の感性を今までにない形でPositiveに結びつけてきた側面と、KYから逃れようと美人投票的動きを加速させてきたNegativeな側面と、両方出ている。強いて言うと、後者の方が少し強いかもしれない。

 この現象を是正するためには、良いJudge、若しくは、こういう環境に慣れ親しんだ良い編集者が必要です。ただし、編集者というと、これまたマスプロ・マスコミの時代の一方的な価値創出型の編集者を思い浮かべられることが多いと思いますが、そうではない。時代が欲しているのは、自分を取り囲む双方の陣営に編集権を委譲するような、Softな編集。名伯楽があたたかく弟子の成長を見守るような、そんなような編集感覚ではないかと思います。

 こういうソフトなJudge、若しくはソフトな編集者を介しながら、感性の輪を大きく育て、トップダウンの流れに上手く繋げていく。トップダウン症候群の人達にも、そういう現場を見えるようにしてあげる(ボトムアップの流れの可視化)ことが、大事なんだろうと思います。

 

 言い換えると、個人にも、意識している部分と、無意識の部分があると思いますが、社会にも、同じように意識/無意識の両側面がある。こういうボトムアップな何かの積み上げって、言い方を変えると、社会の無意識の部分を可視化する、そういう作業なのかもしれない、と感じます。

 

(2) VisionをActionに変える

 

 ITを使って、一挙にボトムアップ流れの集積度をあげる。それが必要な取組の第一だとすれば、第二はリアルを楽しくすること。VisionをActionに変えること、ではないかと思います。

 

 断片化した様々な現場ベースでの楽しい取組。例えば、環境で言えば、清水エスパルスのカーボンフリーゲームだったり、Earthday Tokyoへの熱狂だったり、Tomigayeahだったり。そうそう、鈴木奈央さんの周り(Greenz.jp)に、そういう断片化した色々な取組が綴られていて、とても面白いです。

 

 ネットで繰り返されるボトムアップ型の言論って、あくまでもネット上のものであることが多い。そうでなければ、リアルはあまり人に見られたくないところで、こっそりやっている(オタクや引きこもりの原因?)ことが多い。

 でも、みんな、本当に欲しいのは、楽しいリアルの生活だし、リアルの熱狂なんだと思います。ネットに引きこもっている人達だって、本当に楽しいリアルの生活があるのなら、絶対そっちの方が楽しくて良いに決まっている。

 これからのキーワードは、「楽しいリアル」。ネットで共感できる人達を捜すだけでなく、都会というコミュニティの境界線が曖昧な空間の中で、自分が安心して参加できるハレの場を探そう。そういうリアルのつながりがあって始めて、その背景にある言葉も、真の共感を得ていくような気がします。

 言葉だけの応酬だと、ちょっとしたニュアンスの違いや、定義・見方の違いが気になることが多い。90%同じことを言っていても、10%の違いが不幸な入れ違いを起こすこともある。そんなときに大切なのは、「美味い」とか、「居心地が良い」、単純に、「楽しい」、そういうリアルの空間が提供する「気持ちのリンク」なのではないでしょうか。

 やはり、リアルな接続。もっと言えば、それで盛り上がる「お祭り的空間」がどうしたって必要になる。そして、その中で某か自分の中に変化が起きている、そのことに気付くことで、人は本当のモチベーションを得ていくような気がします。

 

 ただし、一点。どうしても気を付けないといけないことがあります。それは、TGCやEarthdayTokyoにその危険性が孕んでいるように、Event自体が自己目的化し、素直に共感したい人から見て違和感のあるイベントになる可能性もあるということです。

 しかし、そこから逃げていても、言葉だけの遠吠えだけでは大きな流れにはつながりません。やはり、いろいろなリアルを試してみながら、駄目だと思ったらすぐ撤退するという形で、トライ&エラーを積み上げていくしかないんでしょう。

 

 ネットなどで語ってきた立派なVisionをActionに変える。それによって、コンセプトをリアルな形にし、リアルな生活空間を盛り上げる。そうかくと、何やら学園祭のようで、単純で申し訳ないのですが、そういう空間こそが、今、時代のニーズを捉えている。

 自分が知っている範囲でも、「朝時間.jp」のような地味だけどリアルな活動が、これから力を持っていくような気がします。もちろん、古田秘馬さんはじめ、主催されている方々(まさに、場の編集人)の個人的魅力も不可欠の要素ですが。

 (ちなみに、出だし、最高に面白かった、D−People:太った人のためのライフスタイルマガジンのサイト、最近あまり更新がないような。)

 

(3) Boundaryをリセットする。「日本」を捉え直す。

 

 集積度を上げる。リアルを盛り上げる。そして自分の考える第三のポイントが、「日本」というBoudary(境界線)の見直し。もっといえば、海外と日本の間を、もっともっと、日本人のママ、自由に出入りする。日本と海外とLocalとを、より繋ぎ目無く、シームレスに繋げる、ということではないかと思います。

 

 最後に来て、ちょっと固くなりますが、「大きな物語」の崩壊。信ずべきトップダウン型の社会設計の喪失は、実は、そのまま、日本という国民国家の枠組みの老朽化に起因しているように思います。

 文化的な境界、政治的な境界、経済的な境界。その全てが、日本というある領域性を持った社会レベルでぴったりと一致している。地元コミュニティも、都道府県コミュニティも、国際的なコミュニティもあるけど、「日本」という国民国家レベルの階層断面が、地域社会や国際社会を押しのけて、一番強固な強力な求心力を保っている。

 それって、変な言い方もしれませんが、やや不自然なような気がします。

 

 企業社会が市民社会を救済し、日本という内需を育てることが日本企業の国際競争力や経済力にもなり、ゆえにその再分配構造が政治的権力の源泉にもなる。そうした暮らしが支えるライフスタイルが、日本の文化として定着する。そういう、政治・経済・文化が、一つのバウンダリでめでたく相思相愛だった時代というのは、ある意味、非常に特殊な状況だったのではないか。

 それぞれの人の暮らしには、地元民としての生活もあれば、趣味人コミュニティとしての生活もあれば、地域人としての側面、日本人としての側面、国際コミュニティの一員としての側面。本来、いろいろな階層に属する顔があるはず。それを、すべて、「日本人」として、片づけるには、相当強固な「大きな物語」を「日本」が引きずっていなければなりません。

 しかし、どうやら、そういう日本という国民国家の耐用年数がぼちぼち来ている。だいたい何を議論しても、「今の日本」を前提とする限り、どう議論しても暗〜い話になってしまうことが多い。今やもう一度、「日本」を分解して再設計すべき時期に来ているのではないか。日本の全面的レストアが必要。そんな気がしています。

 

 例えば、今、オープンガバメントとか、ガバメント2.0といったことが流行りますが、その流れは、この辺にも原因があると思います。そこでいうオープンガバメントとは、決して今の霞が関や自治体行政そのものが情報公開や意志決定プロセスの透明化を進めることではない。そこにオープンであることを求めること自体に何やら自己矛盾を孕むような、そういうもっと複雑な背景を持つものだと思います。

 まさに、社会の無意識を顕在させることで初めて、本当に必要な境界線と、そこに宿すべき「公共」が見えてくる。そういう性格のものだと思う。そこをしっかりと認識しないと、オープンガバメントといいながら、行動する相手を間違えると、単なる集団無責任による混乱を招くか、既存秩序を維持強化する不幸な悪循環の連鎖を招くか、いずれかになってしまうような気がします。

 

 そもそも、今の日本の中に、バンバンと共感を刺激するようなネタがあるか。そう言われると、辛いものがあります。なんだかんだ言って、海外と較べれば、街は安全だし、メシはやすくても美味いし、最近ちょっと暑いけど、でも自然も環境も悪くはない。一言で言えば、平和ぼけ「満タン」状態。

 その点、アジアの若者の元気たるや凄いものを感じますし、欧米の一流には、国内の一流にはない意気込みと本当の意味でのプライドの高さを感じることが間々あります。ハングリーさも違う。ちょっと言い方が変ですが、こうした流れと較べると、日本のDNAって、とても弱っている感じがします。

 今こそ、「日本」というDNAを活性化させるためにも、ボトムアップの広がりを、敢えて日本からはみ出させて、外から日本を刺激する。そういう、日本にこだわらないネットワーク作りをこそ、求められている。そう感じるのは、自分だけでしょうか。

 

      *     *     *

 

 話が発散してしまいましたが、以上の話の流れは、「積分的社会設計」として、一つに整理できるように思います。

 集積度がある限界値を超えた時に、取組の次元が昇華する。でもそのためには、滑らかにつながる取組の連鎖と、それを取り結ぶ一つのDX、すなわち共感力のネタが必要。また、その取組の連鎖を支える一定の広がりと密度がなければ、新しい関数は生まれてきません。

 また、その時に、全体を紡ぐ仮説をお手伝いするようなトップダウンの仮説がないと、共感力が強いだけでは、秩序形成的な動きにはなっていかないでしょう。

 今までは、どちらかというと、四則混合の加減乗除で社会設計を語ってきた嫌いがあるように思いますが、市場経済がアシストする社会設計の時代には、微積分のセンスをこそ、また、自分はその中の部分であり、またその全体であるという、社会変化の微積分と一体化した気分をこそが、時代を変えていくヒントを与えてくれるような気がします。

 

      *     *     *

 

 前回が写真集だったので、今回は思いっきり小理屈・長文エントリに逆戻りしてしまいました。

 今回のエントリは、自分の思いの原石を詰め込んだような形になってしまったので、次回以降、再び、もう少し分かりやすく、因数分解した話に戻してみたいと思います。

  

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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