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日本型調達構造の落とし穴

2010/06/18 13:00
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 最近、日本型調達構造ということが、気になっています。 自分は、電子政府を巡る「1円入札」もどきが騒ぎになった際、政府調達制度改革の担当となり、いろいろな勉強をさせていただきました。実は最近、似たような話が、情報システム以外にも結構あるなと、感じることが多いのです。

 今、地球温暖化問題担当ということで、日本の優れた低炭素技術がもっと海外で活躍するようにできないか、という議論をしています。省エネ性能に優れた家電・自動車はもとより、高性能な石炭火力発電所、省エネ・省資源性能に優れた鉄・セメントのプラント、化学産業と農業のコラボによる地球に優しい農業の実現、エコドライブの普及を通じた都市の平均車速の向上など、温暖化抑止に役立つ技術は、日本の中に、実に色々とあるものです。

 しかし、優れた技術であるはずなのに、海外に出しても、なかなか市場が取れない。技術としては申し分ないのに、調達をすると負ける。どうやら、その理由の一つは、国内の調達市場が、国際的な常識からズレてしまっているからではないか。国内の調達と海外の調達で、アプローチが大分違うので、要素技術に力はあっても、海外に出た瞬間、取り方が分からなくなってしまう、そんなことになっているのではないかという気がしているのです。

 

1.日本型調達市場

 

(1)行政サービスの場合 

 

 いちばん分かりやすい例は、行政サービスのアウトソース市場かなと思います。最近、「パブリック・サポート・サービス」と呼ばれ、改めて話題になってきているとようですが(NRIさんの調査によれば、現在、その市場は、約5兆円程度とのこと)、この分野、規制改革と調達構造改革が必要であり、なかなか英国や米国のように素直に伸びてくれません。

 典型的には、公的施設管理のアウトソース、上下水道や廃棄物処理といった行政サービスのアウトソースといった分野なのですが、何かが世界とずれ始めている。日本型の独自の調達構造が、世界的に活躍できる事業者の成長を阻んでいるような気がするのです。(その当時NRIの石井さん達と一緒に勉強した成果も含め、NRIが包括的な書籍をまとめています)。

 いつか例示的に、その特徴を並べてみたいと思います。

 

 第一に、調達範囲が細切れだという問題があります。典型的には、博物館・美術館、区民会館、刑務所といった行政施設のアウトソースサービスの例が挙げられます。こうしたサービスは、複数箇所に同じノウハウを持ち込めるからこそ、コストメリットも民間独自の強さも効いてくるものですが、一箇所だけ切り出されては、民間メリットは限られてしまいます。

 他方、パブリック・サポートサービス先進国のイギリスでは、こうした施設管理自体はもとより、ある行政区域にある10以上の学校施設の建て替え管理自体まで、一括して調達にかけるようなケースが見られるようです。非我の差は非常に大きい印象です。

 それでも、後述するような調達スペックの乱れがなければ、あとはファイナンスの問題だけになるのですが、日本の場合、そもそも、各施設やサービスごとに、一件一件、それぞれ微妙に異なるスペックで調達が切り出されてきます。これでは、民間としては、せっかく受けようにも規模のメリットが生かせず、それぞれの自治体の、しかもその一件一件に合わせて、内容を作り込まされているのが、実情のようです。

 

 第二に、地元産業界との関係があります。我が国でも、指定管理者制度の導入と合わせて、特に、水道事業、清掃事業などの分野では、それなりに民間アウトソーシング事例が蓄積されてきました。しかし、その多くは、地元の事業者がしっかり食い込んでいる印象です。地域振興という側面もあるので当然といえば当然ですが、グローバルスタンダードのサービスが入ろうとしても、なかなか入れない。

 自治体から見れば、地域の実情にあったサービスという大義もありますし、そこを無理してグローバルスタンダードに合わせ、国際的に競争力のある事業者に開放してしまったら、地元経済はますます疲弊してしまうかもしれない。地域固有の事情だって、無視されてしまうかもしれない。なんでもグローバル・スタンダードが良いかというと、そうも言い切れないのが、なかなか難しいところです。

 

 ただし、第三に、その結果として出てくる発注仕様書の質の低下という問題があります。というのも、必ずしも地元の事業者だけとは限りませんが、こうした分割発注文化の結果、馴染みの事業者が得意とする各市町村独自の調達仕様が維持される面がある。特に、情報システムなどはその傾向が顕著で、せっかく他の市町村と同じシステムを導入して合理化を図ろうとしても、帳票の書き方などが自治体毎に少しづつ違っていて、現場も慣れた帳票の書きぶりを捨てようとしない。システムを納める事業者側でも、その結果、地元固有の帳票の書きぶりに熟知した者が有利になるなど、安定的な顧客の確保につながる。逆に言えば、そこでシステム自体の進歩が止まってしまう。

 こうして、それぞれの顧客毎に分断された市場が、特定の事業者を恒常的に生き残らせるような形で出来上がってしまっている。 このままでは、スケールメリットを効かすこともできないし、必要な仕様の標準化が効かないので、民間企業が様々なケースで培ったノウハウを他で活かすこともできない。イノベーションのない仕組みとなりがちです。

 

 こうした調達側と受注側の構造が、どんどん独自の調達仕様を育てていくわけですが、こうした市場作りは、更に本質的な課題を残すと思います。

 というのも、こうした独自仕様によって守られた調達構造が継続的に続くと、サービスの実現に必要な知見が、調達を行う行政側と受注している事業者側とに、バラバラに分散してしまうからです。本人達は、いつも受注側・発注側が一緒にチームでやってるのが当たり前になっているから、そのことについて自覚症状がない。

 本来、各市町村等の実情を踏まえたシステムを作るには、民間サービス側も、実情に通じた自治体側の専門家を引き抜き、サービスを作り込む必要が出てくる。しかし、人材市場はそこまで流動化しておらず、民間側も、なかなか引き抜けない。自治体側も、現場人材にある意味調達管理を丸投げしてしまっているため、そう簡単に現場を知る人材に抜けられてしまっては困るという話になる。

 イギリスの場合を見ていると、民間サービスが行政側の現場人材を交渉の上まるごと移籍させ、他で培ったノウハウとその現場のノウハウの融合を図る。これに対して、行政側は、つい昨日まで民間側で何とか調達を勝ち取ろうと苦労していた生きたノウハウを持った人材を採用し、民間サービスに騙されないような調達のプロを配置する。どうやら、そんなプロセスをたどっている。こうして、それぞれが必要とする知見が受発注側双方にバラバラに分散していた人材市場に構造変革を起こし、調達する側のノウハウ、受注する側のノウハウをしっかりと整理。その結果、両者の間の競争自体に質的変化が発生しているようです。

 

 しかし、日本の場合、相変わらず、受注側、発注側双方に、必要な知見がまだらに分散。未だに、調達時点では、しっかりとした仕様書を書くことも難しければ、それに応える優れた提案書も書かれない。個別の事情が分かる人には分かる暗号のような仕様書が残る。継続的な関係の中で、仕様書は甘めに書かれ、むしろ契約した後にじっくりと話し合いながら、現場にあったシステムやサービスが、一件一件個別に作り込まれていく。そんなやり方が色濃く残っているような気がします。

 実は、こうした日本流のやり方も、短期的に見れば、なかなか優劣つけがたい面があります。むしろ、個々のプロジェクトの仕上がりだけをみれば、日本型のアプローチで契約後に仕様の詰めにじっくり取り組む方が、良い場合さえ考えられるように思います。

 問題は、この構造のままではグローバルには通用しないということです。海外には、既に調達・モニタリングのプロと、企画・執行のプロが発注側・受注側に分かれて、競争をする市場が始まっている。しかし、国内には、知見がバラバラに分散していて、その間尺にぴったり合うチームがそろわない。誰かが単独で動こうとしても、身動きが取れないことも多い。 

 加えて、このままだと、一件一件の短期的な品質は良いかもしれないが、中長期的に見たとき、海外や他の市場で起きているイノベーションが、いつまで経っても国内の市場には反映されない構造になってしまう。こうして我が国独自の調達構造が固め上げられているような気がします。

 

(2) 情報システム、電力インフラ、通信インフラ

 

 こう書いていると、やっぱり問題は公的部門かという話になりそうですが、実は、同じ構造が民民調達の中にもあるように、僕は思います。

 こうした行政サービスのアウトソースは最も分かりやすい例ですが、民民で行われている情報システムの調達、電力プラントの調達、通信システムの調達なども、実は同じ構図があるのではないか。「動かないガリバー」達が市場に大きく構え続けていることで、我が国の優れた技術が、国際市場の進化から隔絶されているのではないか。そんな気がしています。

 

 一つの例が、コンピューターの世界におけるNTT調達でしょう。無論、良い面もたくさんあります。例えば、黎明期の日本のコンピュータ産業の成長は、正直、当時から懐の大きかったNTTの調達市場抜きでは語れません。日本の様々なインフラ関連事業者が国や自治体からの発注によって育っていったように、我が国の国産コンピューターは、当初、NTTの交換機市場によって育てられた側面が極めて大きい。そういう意味では、NTTは、日本のIT産業の立役者です。

 しかし、そこで起きることは、前述のパブリック・サポートサービス市場と同じこと。我が国独自仕様の調達市場が構造的にどんどん拡大していきます。その後、コンピュータ産業は、金融機関、流通管理といった形で市場のすそ野を広げていくわけですが、いかんせん、情報システムの場合、一件一件の調達金額の規模も大きく手のかかる話なものですから、基本的には、NTT調達のケースと同じような調達が他分野でも複製・量産されていきます(無論、NTTが悪いわけでも何でもありませんが)。

 この情報システム調達の場合、そのツケは90年代にやってきました。それまでは、日本の情報システム各社は、各社独自仕様のコンピュータを、タテ割り独占した市場に売り込み、安定的な収益を確保してきたわけですが、オープンシステムという黒船が海外からやってきた瞬間、これまでのタテ割り市場がグッと横串しされた。国際的に出ていく前に、国内の市場構造が国際化されてしまいました。

 本件は今回の主題ではないので、深入りしませんが、その結果、日本の情報システム市場は、奇妙な状況に陥っているような気がします。

 

 電力プラント。これも似ているような気がします。

 この分野、情報システムと異なり、永らく発電プラントを売りさばいてきた歴史があります。特に、タービンや原子炉の蓋といったモジュール化された部品となれば、競争力はそれなりに大きい。

 しかし、話がいざ、電力インフラ全般となると、また別です。メーカーの多くが調達側の視点に立って全体の仕様を追求したことが無く、自分の得意な分野の発注が出てくるのを、とにかく、じっと待つ方が主体です。加えて、企業グループや関係の深いメーカーの商品を裏切れないので、そこを裏切って調達側が最も喜びそうな第三者の技術などとパッケージを組み立てて海外に攻め込みに行くのも、なかなか難しい。そんな状況になっているように思います。

 

 通信システムは更に奇妙かなと思います。NTTは、世界でも稀に見る規模で国内の次世代ネットワークにどんどん投資を続けています。ただし、独自研究開発能力が強いが故に、世界のオープン化、IP化の進展と中途半端に混ざった、ちょっと特異な技術仕様の世界を作ってしまった。その結果、オープン化・IP化で出遅れた日本メーカーもついていけなければ、他方で完全に開かれたオープンな調達構造でもない、とても中途半端な市場になった。そして、日本型調達構造自体をそのままに、その一番美味しい部分を、日本の固定メーカーではなく、JupiterやCISCOといった海外メーカーに取られてしまう構図になってしまった。今や、NTTのインフラ調達は、米国優良企業にとって、格好の最新技術のテストベッドのようになってしまっている印象です。

 他方、NTTほど研究開発力もなければ、独自仕様にも拘りのない他の通信事業者の場合は、国際的に見て違和感のない、ドライな調達を行い、遠慮無く韓国製技術を採用している状況です。そして、どちらにも与せない日本メーカーは、せっせせっせと、国内向けに独自端末を作り、通信ネットワークでは、下層の利益率の薄い部分で一生懸命汗をかいているようにも見えます。何とも奇妙な構図になっているのではないでしょうか。

 

 このまま、自治体やNTT、通信インフラや電力インフラの大手ユーザといった「動かないガリバー」達がガラパゴス市場を作り続ければ、調達側と受注側の役割分担はいつまでたっても変わらず、疾うにガラパゴスであることを止めた優れた技術も、ますます日本から逃げていくしか生き残る道がなくなります。また、調達側に鍛えてもらえないので、世界に出て行っても戦うのに苦労することになります。

 受発注構造がここまで独自仕様化し、捩れてしまうのは何故でしょうか。上手く行った例は、日本にはないのでしょうか。

 

(3)鉄道インフラの場合

 

 イメージ、多少良いのかなと感じているのは、鉄道インフラの輸出。こんな中で、少しだけ気を吐いているかなと思います。実際、フロリダの新幹線、英国都市間鉄道への車両納入、世界各都市への地下鉄車両の納入など、様々な話題があるかなと思います。

 本分野、基本的な構図は、NTTの通信インフラ調達とすごく似ているのかなと思っていました。NTTが強大な基礎研究所群を持ち、そこで培った技術をNTTに馴染みの深いメーカーが具体化し、実装していくのと同じように、JRの場合も、鉄道総研を持ち、新幹線技術もリニアモーターカーも基本独自開発。そこで培った技術を、日本の車両メーカーやシステムメーカーが実装していくというパターンだったように思います。その結果、本来的に起きることは何か。

 

独占事業体による発注なので、コスト的に余裕がある。裏を返せば、海外に出すにはコスト競争力が弱く、オーバースペックになりがちである。

 

独自仕様がはびこる結果、他の地域に転用しようとしても、いろいろと障害が多い(米国でも、NY=ワシントンという一番美味しい部分には、専用軌道が見込めないと言うことで参入を見送っていることなども、良い例かと思います。)

 

他と競争したことがないので、自分の持っている技術のどこがどう優れているのか。アピールする方法が分からない。競争する時の市場スペックを作り出す能力がないので、ライバルがアピールするのを見始めてから、自分の良さをライバルの提示した基準に合わせて反論するパターンに陥ることが多い。

 

 半分想像ですが、この構図は、新幹線も、おそらく最初は同じだったのではないか。ただし、JRの場合、その後の事情がちょっと違った。

 国鉄時代と違い、東日本と東海、西日本が激しく技術を争った。500系で高速化路線に走った西日本、それをうまくN700系にまとめた東海・西日本に対し、2階建て路線や「つばさ」・「こまち」などの新在直通化で個性を出した東日本、といったように、同じ鉄道総研の技術をベースにしながら、国内でも競争をする土壌が生まれた。このため、自社独自仕様に硬直的に拘るというよりは、良いものは盗む的な柔軟性の芽が生まれた。

 また、フランスのTGVという分かりやすいライバルがいた結果、彼らの売り込み方や市場スペックの作り方を見ていて、どう売り込めばいいのか、勉強する機会があった。メーカーのみらず、JR自身が鉄道技術の輸出に前向きな姿勢を示したことから、独自ノウハウをメーカーとJRが一体となって持ち寄りながら、現地の情勢に合わせて調達に応札する連係プレーが、比較的上手く行った。

 今、結果が出ていると言えるのかどうかは微妙かもしれませんが、国際展開はおろか国内でも十分に競争的な市場を作れていないパブリック・サポートサービスや、海外に全く出ていけない通信インフラ技術などと較べれば、鉄道技術の方が遙かに国際競争力を身につけているように思います。

 まさに、国際的な調達構造を理解し始めているからこそ、そういうフォーメーションにもついていけたということなんでしょう。

 

 

2.「大きな物語」の喪失

 

(1) 家電の場合

 

 こうした事例は、大型インフラの場合などにはわかりやすいですが、では、一般消費者向けの分野ではどうでしょう。普通に考えれば、これらの市場と、インフラや自治体サービスの市場とは全く関係がありません。しかし、実は、全く似たような調達構造を持っているのではないか、というのが、今回の僕の個人的仮説です。

 メーカーはいつも、値下げ競争や仕入れ条件など家電量販店との関係が大変だ大変だといいます。事実大変だと思いますが、これは、ちょっと穿った見方をすれば、エンジニアの世界が考える商品のスペックを、実際にどのように消費者に売りさばいていくかどうかは、事実上家電量販店に依存している。そこから先の勝負を自分で出来ないので、家電量販店という「ガリバー」への調達で、市場競争の結果の多くが決まってしまう。そういう構図になっているとみることはできないでしょうか。

 もちろん、メーカー自身もパンフレットを作ったり、商品宣伝をしたりという、消費者への働きかけの努力はしています。しかし、実際に商品を購入している消費者が何をしているかといえば、ネットで評判と価格を確認し、店頭で店員の話を聞いて実物を見て、それで何を買うか決めているケースが非常に多い。

 メーカーが頑張って主張している製品スペックについても、値札に小さな文字で書かれるだけ。「大特価」なんて値札がついたときには、そのスペック表示すら下敷きになって消されてしまうことが多い。立派なパンフレットは確かに配られてはいるが、読んで判断できるのは最初からリテラシーの高い消費者。冷静に考えてみると、メーカーが消費者に直接、商品について語っている機会も、そこから次の開発へのフィードバックを得ている機会も極めて限定されている。

 結局、家電量販店への調達合戦を勝ち抜き、販売優遇条件をどうとれるかどうかで、全体の売上が大きく変わる。本当に商品性能に大きな差がなく、特徴の差別化も難しいとすれば、仕方がないのかもしれませんが、今のような流通のままで、商品の中身から想起できるライフスタイルまで消費者に訴求するのは、非常に難しくなっている感じです。

 

(2) 大きな物語と消費動向

 

 もちろん、こうした販売方法自体が絶対に悪いというわけではありません。特に、三種の神器、新・三種の神器といった、大きな流行が既に作られたものとしてあって、その同一カテゴリーの中での販売シェア争いをするような時代だとすると、個別に流通を作り込むより、流行に乗った共通の販売の場を作って、その土俵の上でシェア争いを演じた方が得だという判断もあると思います。

 しかし、時代は、マスの流行とか、社会のトレンドとか、そういった「大きな物語」への関心を急速に失いつつある。自分の周りにある肌触り感覚の合うもの、自分がそばに置きたいと思うもの、自分の仲間内でのちょっとした「秘密」に貢献するようなもの、そうしたパーソナルな感覚にヒットするものが求められる時代になっている。

 そうしたパーソナライズされた嗜好にぴったり合うような商品やサービスを探そうにも、現状、消費者から見れば、必ずしも情報が十分ではない。そうした視点から考えると、メーカーは、逆に、恐ろしいほど、消費者と、そのライフスタイルの作り方について、直接対話していない、ということになるような気がします。

 新しいライフスタイルの作り方、生活の中での価値作りへの貢献。技術そのものより、そこへのアピールが求められる時代。今こそ、メーカーと消費者が直接コミュニケーションの絆を太くすべき時期なのに、家電量販店への調達合戦に勝負を委ねるような流通に頼っている。これでは、せっかく良い技術力を持っていても、それをどう生活に活かすのか、技術によるValue作りをどう進めていくのか、そのチャンスを放棄しているとも言えるのではないでしょうか。

 今までは、高度成長期の社会像とともに、ライフスタイル、暮らし方、その時流行の商品と、みんなが共有できる「大きな物語」があったからこそ、消費者向け製品の分野でも、その「大きな物語」にあったスペックを念頭に置いて技術を調整すれば良かった。しかし、そういう「大きな物語」自体が失われつつある中、メーカーは、技術の使い方について、再度ゼロから、消費者と向かい合う必要がある。「大きな物語」に変わる「物語」を、ものづくり自らが見つけていかなければならなくなった。そういう時代になったのではないかと思います。

 

(3) 「大きな物語」の後に

 

 では、新たな消費社会の特徴と、新たな「調達構造」づくりは、一体どう考えていけば良いのでしょうか。 このコンテクストからキーワードになりそうなセリフを、最近話題の福嶋亮太「神話が考える」から拾ってみたいと思います

 

人々が何に関心を注ぐかは偶然的だが、流行が起こることそのものは必然的。

 

  確かに、流行って、無いと社会が持たないではないかな、という気がします。2chも、ニコニコ動画も、もっと言えば、民放テレビも、雑誌も、それぞれ性格は少しづつ違いますが、いずれにせよ、時々の話題=流行を作らないと自分自身が立ちゆかなくなります。そして、そのコミュニティを通じて話題を共有している実社会の側も、何やら不安定になっていくでしょう。だから、日々、ニュースになるような話は、必ず必要になる。

 ただし、明日の流行が何か、それは明日になってみなければよく分からない。流行によって絆が保たれている実感はあっても、明日の絆がどんな流行によって繋がっているのかは、誰にも予測できない。でも、「何かあるんだろうな。」そういう予感めいたものや期待感はある。

 流行だけで語るのは、ちょっと矮小ですが、他にも、社会の仕組みであったり、市場機能が導く経済の安定であったり、社会が用意する教育機能だったり、我々の生活を巡る様々な諸機能への全体的な信頼感というのがあるんだと思います。そして、その信頼感の醸成が、市民の社会への帰属感にも繋がっていくのかなと思います。

 問題は、今、そうした社会とか、マスの動きといった「大きな物語」全般への信頼が揺らぎ始めていること。

 

 社会的信頼の機能というのは、その「どこにもない」はずの保証を成立させるところにあるが、社会の複雑性や透明性の増大は、その保証が不成立に終わる機会を増している。

 

 このセリフにもあるとおり、例えば、リーマンショック以降、市場機能への信頼が揺らいでいる。我が国の財政危機が表面化して以降、我が国政府の社会保障機能への信頼もますます揺らいでいる。こうした全体的な信頼感への揺らぎが、最近、ますます大きくなり始めているのではないか。

 今の社会の仕組みの中で何を頑張っても、生活水準は上がらない。市場機能を信じて優れた商品・技術を出していても、決して評価してもらえない。良い論文を書いていても誰も見いだしてくれないし、大企業の中で一生懸命働いていても、いつクビにされるか分からない。会社や組織の仕組みに載っているだけでは、所詮能力のアップも人格の陶冶も見込めない。その結果何が起きるか。 

 

 「大きな物語」の失効ゆえに、それまでの関係の蓄積に基づいた「事実性と近接性ベースのコミュニケーション」への信頼は、今後否が応にも増していくだろう。

  

 信じれるのは、身近にある手触り感のあるものだけ。仕方がないから、身近な仲良しとのネットワークだけが頼りになってくる。最近は、そこにネットという新たなご近所コミュニケーションツールの場が加わり、ネットを介して「社会」全体が見えるんだか、見えないんだか、よく分からない雲の中のようなところに、人々が置かれ始めている。

  

 私たちは、どのみちネットワークに巻き取られている。問題は、そこからの情報の転送をどう適切に処理するかということにある。ハイパーリアルな神話は、むしろ随時ランダム性や慈愛の原理を巻き取っていき、いわば「ゆるんだ」状態を保ったままで、自らの輪郭を定めることになるだろう。

 

 昔なら、井戸端会議のコミュニティ、地元仲間のコミュニティ、職場の飲み仲間コミュニティ、若しくは、もう少し全国区で言えば、王・長島を要する巨人ファン・コミュニティ、田淵を愛し藤川の活躍を願う阪神ファンコミュニティなど、コミュニティの外縁が比較的しっかりしていた。

 でも今は、この流行を支えているネット上のコミュニティって、外縁はどこにあるの?っていう状態になっている。ネットワークが作るぼやっとしたコミュニティに、自分から見えている流行や憧れが巻き取られている状態にある。

 新聞や雑誌、職場のオピニオンリーダーや地元のリーダーがしっかりと編集する話題や、みのもんたさんがしっかりと方向付けるTV発の空気感。今までは、メディアのところで、かなりハードな編集がかかっていたように思います。だから、良くも悪くも、善悪も含めて方向も外縁もはっきりしていた。しかし、ネットワークからに滲みだしてくる流行や話題は、誰かが意思を持って編集するものではない。むしろ、ランダムな中から出てくるものの面白さや、ネット独特の親近感から、ゆるい形ででてきているソフトな編集。

 だからこそ、ハードな編集になれてきた家電メーカーをはじめとする企業群も、どうやって自分の技術をその話題に引き合わせていけばいいのかが、ますます分からなくなっている。話題の輪郭と、技術の輪郭をどうやって合わせればいいのかが、話題の輪郭の方がぼんやりしてきているため、合わせ方が分からなくなっている。

 ネット・マーケティングやバズ・マーケティングをやってみようとは思う。しかし、これもなかなか、コツが掴めない。成果が出ない。仕方がないから、家電量販店含めたマスプロダクト・マス流通時代の流通に頼らざるを得ない。

 

 TVや新聞は、ただ、流れているだけ。バズ・マーケティングでは、それは、たえず他者との近接性を利用している。今日の設計思想は、設計を超えるもの(自然)と設計の産物(人工)を和解させつつあると評することもできる。

 

 マス・マーケティングでは駄目だということは、みんな分かっている。人工的に設計してきたものに、いかに自然な流れを組み込んでいくか、そこの融合みたいな作業が大事になっていることも何となく分かってきている。 

 

 完全な設計は最初からあり得ず、むしろいざというときの変わり身の可能性を含んだ設計、設計を超えたモノを逐次再設計する設計が良き設計ということになるだろう。消費者の動向がそのまま次のものづくりにフィードバックされていく。言い換えれば、消費というのは、たんに与えられたモノやサービスを使い尽くすことではない。それはむしろ、次の段階での生産に指針を与えるような行為であり、多少踏み込んで言えば、市場を作る創造行為の一環なのだ。

 

 おそらく、こういうことなんだとみんな思っているし、そのこと自体は、ものを作っているエンジニアの方もうすうす分かっておられるんだと思います。でも、実際に、消費行為から得られる次への指針を、ネットワーク時代の揺らいだコミュニケーションの中から、どう掘り当てていくのか。正直、「お手上げ」みたいなことになっているのではないか。

 揺らぐコミュニティ−を上からがっしりと抑えて、新たな価値を被せていくようなアプローチを取るのか、揺らぐコミュニティの揺らぎの中に自身も入り込んで、一緒に悩みながら製品・サービスを取っていくのか、How Toだけ議論していると、なかなか答えが出てきません。

 

 個人的意見ですが、最初に行うべき大事な作業の一つは、企業や組織、若しくは、揺らぐネットワークのコミュニティの中で、しっかりとしたアイデンティティを持ち、自分をどういう風に見て欲しいのか、企業も行政も、大組織は、そこにはっきりとメッセージを持つということなのではないでしょうか。

 コミュニティが揺らぐ中で、人の心を掴むためには、最初に共感を得ることが大事です。中身の論理がいくら優れていても、入り口でわかりやすく、自分が向かっている方向性や価値観を周囲に示唆できなければ、肩書きや組織の看板だけでは、もはや人の気持ちはついて行きません。表情のない能面のような人には、それが企業であれ、行政であれ、個人であれ、おそらく何の絆のネットワークにもつながっていかないでしょう。

 今までの日本の企業や組織は、製品だったり、政策だったり、具体的な成果物を市場や社会を通じて見せることで、間接的に自分の姿を消費者に見せてきたんだと思います。また、実際、それで十分だったので、企業や行政には、あえてそれ以上の特徴やメッセージを、市民に見せようと思う歴史がなかった。しかし、これだけ、コミュニティが揺らぎ、全体的なものへの信頼感が傷つき始めている中、顔の表情が見えないようなものには、みんな、ややついて行きがたいと思い始めている。そういう時代になのではないでしょうか。 

 

(今の世界は、)単一ののっぺりした平面というよりも、無数の「偽の平面」が層状に折り重なったものである。・・・世界は既に一種の仮想現実のようなものであって、そのつどの観測によって絶えず異なる偽の平面を浮き上がらせていくメカニズムに類される。今日の文化にとっては、この層状の世界の多元性を確保することが、一つの責務ということになるだろう。

 

 福嶋さんの本は、文化的空間を語っているので、こういう総括の仕方になりますが、「層状の世界の多元性を確保」しつつ、自らの立ち位置を探ることは、社会的、経済的空間から見ても同じことのように思います。それぞれのレイヤから、それぞれの見方ができるような「しっかりとした表情」を、企業や行政といった大組織が持つこと。今、それが、とても大切になっているように感じています。

  マス媒体を通じ、価値観をハードに編集する時代から、層状に折り重なる近接性のあるコミュニケーションを通じ、ソフトに編集する時代に映りつつある。だからこそ、それぞれの「層」からみて、それぞれの見え方をする「顔」をしっかり持つこと。そこに、今のコミュニティの揺らぎの時代に対する対応の鍵があるのではないでしょうか。

 政策や製品を出していることで、「自分は認知されている」と驕ることなく、企業自身、行政自身が表情のある顔を持つこと。そこに、ソフトな編集の相手に引っかけて貰えるかどうかの第一歩があるように思います。

 

3.日本型調達市場の行方

 

 さて、色々書いてきましたが、冒頭に掲げた「日本型調達市場」そのものは、一体、どこへ向かっていけばいいのでしょうか。まとめ的に整理すると、僕は、大きく二つの方向性があると思います。

 

(1) 海外*「大きな物語」の再構築

 

 一つは、海外。資本の拡大論理に従って成長するには、国内のこうしたソフトな市場は、若干厳しい。ドメスティックにだけ勝負していこうと思うと、ものすごく長期的な投資行動を持って全く新たな地平を切り開くか、揺らぐコミュニケーションに合わせて、ものすごくミクロで機動的な動きをしていくか、いずれか両極端な対応が迫られることになるのではないか。やはり、ちょっと規模の大きなところで、資本効率性を安定的に求めようとすると、海外に出ていくリスクを背負うしかないのかなと思います。

 ただし、その時は、従来からの「大きな物語」をそのまま持ち込めばよい。ベトナム、中国はじめ、アジアの国々は、今、若い人が元気に溢れて、自分達の「大きな物語」を作ろうと必至になってい取り組んでいます。価値観作りのために、新しい作業はたいしていりません。日本が20世紀後半に取り組んできた、インフラ整備や、家電、自動車といった生活必需品をしっかり供給し、物質的に充足した安定した社会を作る。そういう作業を、現代的にやり直せば良いんだと思います。まだ、これらの国々には、ソフトな編集でなくてもハードな編集のままでも市民に届く声が、たくさんある。

 ただし、一つだけ付く条件が、「1.」で整理してきた、日本型調達市場構造の見直しです。アジアの公共調達、日用品の大手流通の世界には、既に、欧米の資本がしっかりと入り込んでいます。その調達競争も、すっかり欧米型となってきた感じがあります。その構造の中にいくら、日本型調達構造のモデルを持ち込んでも、要素技術が良いだけでは市場は取れません。そのために、国内の調達市場構造の見直しも含めた、事業フォーメーションの見直しが重要になりそうに思います。

 

(2) 国内*「柔らかな物語」

 

 これに対して、国内は、もはや、20世紀型の大きな物語の再生を試みることは不可能でしょう。

 特に、若い人達にとっては、もはや、リアル、マスの語る世界の方が嘘っぽい。職場も学校も惹き付けられるような魅力には乏しいし、そこで頑張っても、自分の将来を保証してくれるような「大きな物語」があるようには、もはや思えない。

 じゃあといって街に出てみても、周りにあるのは、どこに行っても同じような駅前とコンビニのある風景。生活空間として面白いと思えるリアルな空間は少ない。結局、どこに行く当てもなく、自宅でネットに向かい合う方が、生活の場として親近感が涌くという気持ちも分からなくもありません。時代は、既に、 社会の構造や仕組みにリアリティがあった時代から、身近な関係性の方が大切な時代に移行しようとしています。

 こうした文化に慣れた人々の間では、色々なものの編集権はユーザ側に移行していきます。彼らは、全体の構造が無くてもリアリティが切り出せる。ポストモダンを地でいく関係性を体現しつつあります。固定ゲートから可変ゲートへ。 断片化した関係性を紡ぐ、柔らかな大きな「物語」を探す。産業と文化の新しい間合いを見つける。伝統文化を再生させつつ、かつてのスタンダードに穴を開けるような仕組みを考える。そういったキーワードで語れるような、新しい時代が、ネットを介して新たに始まろうとしているのではないでしょうか。

 こういうSoft Editな時代に入りつつある今、大切なのは、まず、自分自身の「顔」をしっかり持つこと。これは「2.」で記したとおりです。「層状に折り重なった様々な層」それぞれから、色々な姿で見られるような、関係性を支える記号としてのポジションニングを取ること。

 そうしたポジショニングを取りながら、リアルの生活を楽しくするためのキーポジションを押さえること。躍動する身体感みたいなものを、より多くの人が取り戻せるような、そういう空間作りに貢献するような記号として、様々な関係性を紡ぐ役割を取ってしまえば、広がる付加価値の世界は案外広い。特に地球環境問題などを担当していると、そういう実感を強く持ちます。

 

 最後の最後の部分が超・駆け足になってしまいましたが、今回は、第一に、前半で指摘した日本型調達構造の問題と、第二に、実は、それと同じ構図が家電等の日常生活用品にもあるのではないか、という問題提起に、触れたい話の核がありましたので、最後の部分については、また別の機会に触れたいと思います。

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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