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ネット移民(新大陸の向こう側とこちら側)

2010/05/26 01:50
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 先週末、錚々たる大先生に囲まれ、大きな時代の変化について、みっちり考える機会を頂きました。

 自分の言葉で全て書けるほど、内容を完全消化できたわけではありませんが、最近、ドワンゴの川上会長から教えていただいた「ネット移民」という言葉の切り口から、この辺で感じたことを、まとめてみようかなと思います。

 

1.ニコ生体験と「ネット移民」

 

(1) ニコ生

  先週、ニコ生を初体験しました(超ガラパゴス研究会 シンポジウム)。話の内容は、このブログの前回のエントリをベースの問題意識として持ちつつ、研究会全般の議論をまとめたものです。内容は、提言資料という形で、ここに公開されています(なお、生放送中に寄せられたコメントの一部も、ここにまとめてくださった方がいらっしゃいます)。

 自分は、その時持ち合わせのPCが無く、後でタイムシフト試聴したのですが、一番驚いたのは、リアルの会場よりも、ネット上のコメントの方が、よほどダイレクト感があったことです。かつ、その数も、一万人超。ちなみに、会場の入場者数は百数十人です。

 

 感じた主なポイントは、次のとおりです。

 一点目として、時折混ざるクオリティの高い「寸出しコメント」や共感の頂き方に、囁いている方の日頃の問題意識の高さを感じました。最後に行われた会場の方の質問が、若干、提言との関係が希薄なものだったので、少しがっかりしていたのですが、某か伝わっていることが分かり、嬉しかったです。

 二点目として、もちろん、「痛い」コメントもたくさんいただきました。「話が早くて長過ぎる」っていうのは、僕の基本的な欠陥なんですが、加えて、「いちいち例が古い」。とか(爆)。 総じて、初歩的なことほど、はっきり言って頂ける印象で、僕にとっては貴重な機会です。 

 三点目として、オタク系の性格であることは、あっという間にばれてしまったようですが、それだけでなく、何となく感覚的に多くのものをシェアしていただいたような気がしました。もちろん、しっかりと確認したわけではありませんが、緩いけど太い、このコミュニケーションの束が、リアルの場合の一針一針差し込む感じが有効な質疑応答とはまた違って、特徴的だなあと思いました。

 更に言えば、常に、「あちら側か、こちら側か」という話題が盛り上がっていたのも、印象的でした。きっと、僕程度だと、まだ「似非、『こちら側』」くらいなんだと思いますが、こういう形で、「こちら側でつながっていること」自体が、とても大切なんだということが、実感できました。

 

 そう、この「こちら側」と「あちら側」。この感覚って、上の世代の人にどれくらい理解してもらえるのでしょうか。

 

 ここからが今日の本題です。この違い。それを、リアルの会場と、ネットの視聴者をそれぞれ目の当たりにする機会を頂いて、改めて考えさせられました。

 そこで思い出したのが、ドワンゴの川上会長に教えていただいた、「ネット移民」という言葉です。この比喩、個人的には、とてもハマりました。

 この話、もともとは、「ネットは手段ではないか」という別の方の問いかけに対する、川上さんのこのTwitter上のつぶやきから始まっています。

 

 ネットはツールではなく生活の場です。現実の世界に強固な居場所がある人は、ここが根本的に理解できない。

 

 僕も、そう思います。ただ、それだけのことなのに、単純化された「匿名性」の是非論とか、不用な水準まで拘った「セキュリティ」絶対論だとか、本当にネットをツールとしか思ってないんだなと思う、詮無い視点からの議論が未だに多い。そう思って返信してみたところ、川上さんから、更に、こんな返信を頂きました。

 

 おっしゃるようなネットネイティブ? とでもいうような世代になると自動的に現実とネットの境界は消滅するような気はしますね。ただ、現在おこっている問題は、ネットネイティブというよりは、ネットに移民してきた第一世代と母国の間での摩擦だと思います。

 

 なるほどと。この表現わかりやすい。確かに、ネットに移民した人と、母国に取り残されている人。それくらいの距離感の違いは、確かに感覚的にあるかなと。

 

(2)欧州大陸型と新大陸型

 

 この「ネット移民」という言葉にヒントに、ネットの世界を、「欧州大陸」に対する「アメリカ新大陸」みたいなものと考えて、その比喩で、彼我の距離感の遠さを考えてみたらどうだろう、そんな風に考えてみました。ネットネイティブから見た、そうでない人達との距離感って、まさに、新大陸へ移民した人からみえる旧大陸みたいなもんじゃないかなと。

 

 大陸国家は、 別に自分たちを雇ってくれるわけではない。大陸にとどまっていても、生活水準が上がる見通しも収入が増える見通しもない。大陸国家政府が、王侯貴族と新興ブルジョワジーの間で何を揉めていようと、自分たちには関心ないし、向こう側も自分達に関心がないことはよくわかっている。

 もちろん、「『新大陸』っていうほど、大げさなものかよ」というところはあります。ネットへの参入は、米国大陸への移民のような身体的苦労は問いません。携帯かPCでネットに繋げばそれでお仕舞いです。

 でも、実際の生活空間は、リアル中心の人とは、だいぶずれている。ネット世代を支える若者の多くが窮乏化していることに加え、物欲的にも、食生活的にも、実は、同じ都市空間に住んでるとは思えないくらい、違う場合がある。

 今日も発表がありましたが、実際、我が国の世帯収入は急激に下がり始めています。「生活が苦しい」と応えた人が58.1%。過去20年間で見て最低とのこと。特に、20代〜30代の窮乏化は激しい。

 

 そういう世代から見れば、日本の社会とか制度とかっていうことに対する信頼感も、根本的なところで違う。日本政府が、社会保障制度の再設計を叫ぼうが、医療費の増大を問題視しようが、所詮、自分達の世代が貰う側になる頃には、制度的にすってんてんになっている。社会の仕組みだ、政府の機能だ、市場機能だ、グローバリズムだと言われても、何のリアリティも感じない。信ずべき「大きな物語」は、もうどこにもない。 

 リアルに感じるのは、どこでも同じような「コンビニのある街」。個性のない駅前の風景。そんなリアルの生活を足場に暮らしていても、特に面白いことがあるはずもありません。機能的ではあるかもしれないけど、そのままでは、少なくとも、Funではない。萎えた物欲を、それでもたまには満たしたくなったときには、親の実家に帰ればよい。

 極端に言えば、そう見えなくもないリアルの世界に見切りをつけ、ネット中心の空間に生活の場を移した大人達と、現実の世界に強固な足場を持つことに拘り続ける大人達。その両者の距離感って、ちょうど、新大陸へのネット移民者と、大陸側の母国に残っている人との距離感に、案外、近いものがあるんじゃないかなと。

 

2.リスク社会

 

 新大陸の生活、すなわちネット中心の生活は、もとより大変です。がしかし、大陸国家の方は、ご安泰なのか。そんなことはありません。

 リーマンショックが示した金融工学の破綻は、現代社会を支える構造を、世界規模で一挙に不安に落とし込んだと思います。ある意味、世界の市場機能を支えていた「神の見えざる手」が根本的に否定されかねない出来事だった。

 でも、財政機能によるビルトインスタビライザーも、金融政策の諸手段によるマネー市場の安定化も効かない。じゃあ、思い切って財政出動による有効需要刺激策だと思ってみても、これもダイレクトには市場に効いてこない。金融市場と財市場の均衡によるマクロ経済の動学的均衡も効かず、一見、市場は、どんどん暴走していく危うさを、ますます増しているかのように見える。

 だましだまし高成長を続けている中国、10年前に同じ経験をし、デフレを甘受しながら何とか市場を維持している日本など、世界経済は、まだなんとなく持ってはいますが、それでも、市場は、例えば、ギリシャとEUが引き起こすかもしれない次の崩壊を、びくびくしながら待っているような状況かなと思います。

 

     「神の見えざる手」は、一体どこに行ったのか。

 

 大澤真幸先生に教えていただいたところによれば、こうした「神の見えざる手」が信じられなくなるような状況のことを、「リスク社会」と呼ぶそうです。「リスク社会論」としては、ウイリアム・ペックの「リスク社会(別翻訳名「危険社会)」が有名ですが、最近では、社会学での分野でも、「リスク学」は、大きく取り上げられているようです(ちょっと趣旨が違うかも知れませんが、松岡正剛さんの解説です)。

  アダム・スミスの「神の見えざる手」、ヘーゲルの「理性の狡知」、いずれも、プロテスタントの「予定説」に源流を発して歴史的予定調和を期待する構図と言われていますが、現代は、まさに、そういう「神の見えざる手」をどこかで信じてる。信じようとしている。全体を信じてついていけば、最後は、そこそこに人生を全うできるだろう。市場を信じて良いものを作り続ければ、最後は、必ず報われるであろう。そういった歴史的予定調和を信じることが難しくなっている。何とも悲しい状況にいるのではないかと思います。

 大きな意味で資本主義と呼ばれる今の経済社会の仕組みは、「神の見えざる手」や「理性の狡知」を単純に信じることができおかげで、「プロテスタンティズムと資本主義の精神」が予告したような枠組みの中で、大きな意味での資本主義が着々と育てることができた(ちなみに、最近出た中山訳はわかりやすいと評判のようです)。

 以前は、自分のことを自分で選択しても、大きな仕組みの中で、某かの自己実現が得られていくだけの何かがあった。誤解込みで平たく言えば、「会社を信じて生きていく」、そういう選択肢が成立していた。でも、今は、何を選択しても、最後に頼れるものは実はない、という寂しい期待感の中で、自分で自分のリスクを取っていく覚悟が必要になりつつある。

 

 こうした「大きな物語」から開放されると言うことは、良い面もある。ある種、無条件に前提として受け入れさせられていた、いろいろな「社会の枠組み」や組織から自分の生活が開放されるということでもあるし、自分の生活を縛ってきた地元のご縁やサラリーマン社会、自然環境(都市環境などを含む)や社会の伝統・秩序といった、個人を縛る様々な桎梏からも解き放されるということでもある。

 でも、人って、実はそんなに強くない。開放されてしまった、こういう状況にあるからこそ、突然、人々が、「自然」をいとおしく思い始めたり、自分たちにとっての「神」探しが始まったりする面もある。つまるところ、ポストモダンが行き着くところまで行き着いたということだと思いますが、妙な時代に入ってしまったものです。

 

3.ありのままの「成長」を語る

 

(1) 成長は、目的か、結果か 

 

 国民国家を信じる大陸国家派と、ネットネイティブな新大陸派の間には、まさに、従来の市場機能における、この「神の見えざる手」を信じるか、信じないかの断絶があるような気がします。

 だからこそ、歴史的予定調和を求め制度的正解を探そうとする前者と、そんなものを鼻から信じていない後者の間に、解決しようのないミス・コミュニケーションが横たわる。

 

 その一つの良い例が、「成長」に対する考え方の違いです。

  政府はまもなく、「成長戦略」をとりまとめることになります。この「成長」というキーワードも、新大陸派と大陸国家派とで、大きく実感の異なる言葉ではないかと思います。

 もちろん、「成長」自身はとても大切なことです。しかし、成長は、目的なのか、結果なのか。そういう意味では、日本社会自体が「成長」を目的とする時代は、実は、もう既に終わっているのではないでしょうか。

 「成長」というのは、ある枠組みが不安定ながらより拡大均衡を続けていく姿を表現しているものだと思いますが、ネットネイティブ世代にとっては、その成長すべき枠組みそのものにリアリティがない。

 新大陸に移民したばかりの人達に、「米国の成長」というコンセプトは、たぶん、無かった。かといって、大陸国家が勝手に作って押しつけてくる制度や補助金などにも、興味など無かった。成長とは、今ある自分の生活を必至に生き遂げることであり、その結果、そこにあるものが、強いて言えばアメリカの成長であり、成功であり、そして、誇りだった。

 

 今のネットネイティブに西部開拓を実現した米国新大陸移民ほどのパワーがあるかどうかは「?」かもしれません。ただ、他方で、少なくとも気分としては、大陸国家側が話題にする「成長」という概念だったり、そのための国家戦略だったりということに対して、ほとんど関心もないし、繋がっているという実感もないことだけは、確かかなと思います。

 もちろん、新大陸の個々の住民が努力した結果を、「成長」や「成功」と呼ぶのは自由だし、必要なことですが、成長自身を目的として、取り組むべき取組を還元的にプログラム化するという時代は終わった。欲しいのは、住民の生活や挑戦を、ありのまま応援してくれるような仕組み。鼓舞するような仕組み。

 

 ただし、ここに一つ大きな問題がある。

 それは、市民社会の方は、前述の通り、今や拡大均衡など望んでおらず、成長自体を目的とした議論にも興味が無くなっている。にもかかわらず、企業資本の論理だけは、その構造上、どうしても拡大を目指ざるをえない、そのギャップが解消できないということです。

 市民には、拡大均衡の願望はなく、リアリティと肌触り感のある時間・空間を大事にしようとしている。成長成長といわれても、どうしても、それより大事なものがあるような実感から逃れられない。他方で、全体を支えてきた企業の方は、競争は厳しくなるし、国内市場は縮小するしかないし、余裕を持ったことなんて言ってられず、とにかく早く海外へと拡大均衡していく必要がある。

 この資本の拡大の論理と、決して拡大を望まない市民の論理の間のパラドックスの中に、地域や共同体の再生といったキーワードが陥りがちな矛盾、ソフトパワーといいながらどこかリアリティを持ちきれないおかしさなどが、あるのではないでしょうか。

 

(2) 資本は拡大を求めて外に出る。中はコミュニティを再編する。 

 

 柄谷行人先生にもご指摘いただいたのですが、最近、マルクスの資本論が良く読まれているようです。それは、最近、資本の論理ということへの関心が厭でも高まっている、そういうことだとも思います(ちなみに、まもなく、先生の近著が出版されるそうです)。

 マルクスが体系だって整理した資本の論理は、たぶん、執筆当時と全く本質を変えていない。それに加えて、西側経済は、消費社会のダイナミズムを活用し、労働分配率を微妙にコントロールしながら、この資本の論理をありのまま、市場の中にうまく溶け込ませてきた。企業と労働者の関係を、企業と市民に上手く置き換えながら、「予定説」の中に全体像をうまく押し込めてきたんだと思います。

 ところが、その60年単位、場合によっては120年単位くらいの長いサイクルの中で作られてきた枠組が、最近、見事に壊れ始めている。資本は拡大を求めて国家に「成長」をもとめるが、国家に暮らす市民(/労働者)の方は、より身の丈にあった、リアリティのある生活を求めて、「国家」と距離を置きつつある。その差分と矛盾は、日々激しさを増している。

 おそらく、企業自身、資本自身は、その拡大を原理的に必要とし、外需を求めてますます海外に出て行くでしょう。それが出来ない企業は、どんどん利益水準的に厳しいところに置いて良かれ、ある種の独占・寡占を享受できない限り、退出を運命づけられるような気がします。

 その時、国際展開する企業の側も、資本効率性だけを考えれば、国内雇用を今の水準で抱え込み続けるのは、相当苦しくなってくるはず。したがって、企業自身も野村證券や旭硝子などがそうであるように、どんどんガバナンスの国際化を進め、雇用形態もどんどんグローバル化して行かざるを得ないことでしょう。

 

 この数十年の日本は、徴税制度、年金制度、教育制度など、社会に必要な仕組みを、ある意味、企業から積極的に協力を引き出し、資本の論理が生み出す追加的余剰を、公共と企業が積極的にうまく分け合うことで、成立させてきたように思います。

 それがお互いのメリットになることが分かっていたから、企業も、高い負担率や高水準な企業福祉作り、系列の護持を通じた雇用の確保などを自らの経営のミッションと考えてきたところがある。

 しかし、もはや企業も、外需の拡大に向けて、追加的余剰を国内の公共のためだけに支払う余裕は、もはや無くなりつつある。市民の方も、それが内々分かっていて、来るべきリスク社会に向けて、自らが周囲と共生できるコミュニティを探さなければならない、ということに、気づきつつある。

 そこに被さるように入ってきたのが、まだ「上部構造」的なものを信じる大陸国家世代と、そういうものを信じず、目の前にあるフロンティアだけにリアリティのある新大陸世代の断絶。そういうことなんではないかと思います。

 今や、日本の中には、近代的国民国家としてのニッポンを見る世代と、ただ日本語を話すグループ的なるものとしてのニッポン、という、全く異なる二つの日本が共存し始めている、とも言えるのではないでしょうか。

 

(3) ありのままを伸ばす成長戦略

 

 じゃあ、新大陸に国家戦略がなかったのか。若しくは、大陸国家と新大陸国家が、空間的に重畳的に成立してしまう今の状況の中で、「国家」戦略は不要なのか。

 そんなことはないと思います。まさに、

 

外需を求めて外に膨脹していく資本の論理と、よりリアリティと生き甲斐のある居場所を求めて国内をさまよう市民の間に、今後生まれていく、新たな「差分」をいかに埋めていくか。

 

という課題を、日本政府全体として背負っている。これ、とてもつもなく重く重要な課題だという気がします。 しかも、この現象、金融面だけ見ても、欧米に先んじて、まず日本で起きている(以下、三菱UFJ総研チーフエコノミストの水野さんの分析をから引用)。

 

【銀行神話の崩壊】  

  • 日本 94年:二信用組合破綻/97年〜:金融システム危機
  • 米国 08年:リーマンショック、公的資金注入

【金融政策】

  • 日本 99年ゼロ金利政策、その後量的緩和
  • 米国 08年ゼロ金利政策、その後量的緩和

【10年国債利回り】

  • 日本 97年以来2%割れ
  • 米国 08年12月に2%

【デフレ】

  • 日本 94年にマイナス。以降、たびたびマイナス
  • 米国 09年にマイナス。以降、微妙にマイナス

【雇用者報酬】

  • 日本 97年3Qがピーク。以降年率1%下落
  • 米国 08年3Qがピーク。以降4%下落 

 

  少子高齢化、財政破綻、金融システムショックなどを次々と経験する我が国こそ、近代的国民国家崩壊後の、国及び政府の役割の見直しについて、最も先鋭的に問いかけられている、ということかと思います。その中で、成長をどう語るのか。これは、世界的に見ても、前例のない大きなチャレンジではないでしょうか。

 

 では大事なことは何か。

 それは、先ほども触れたとおり、今既に行われている優れた取組を、あるがままに伸ばしていくような、そういうコンセプトや応援策ではないかと思います。

 大陸国家の人が、論理・演繹的に頭で考えたメニューを作られても、とても、新大陸側には、それを実行している余裕は、ありません。特に能力の高い人ほど、そんな余裕はない。環境とか、地域主権とか、論理的には正しい戦略ではあるのだけれども、でも、実際に現場で起きていることを知らずに、勝手に、その戦略の下に追加的アクションプランを作られても、「誰がやるの?」、という話になる。

 どちらかといえば、今ある取組のうち、時代の方向性に合うと考えられるものを更に伸ばしていくような大きなフレームワークが欲しい。毎年毎年、今年の目玉をアピールするために、ころころと政策を変えるくらいなら、市場に評価されないけれども将来性のある取組を、じっくりと継続的に支援してくれる大きなフレームワークが欲しい。制度をごろごろ変えるよりも、執行をしっかりと改善して欲しい。

 そう思っている人がたくさんいるのに、ほとんどの「大陸国家政府」が、新大陸で何が起きているかをろくに勉強しないまま、ほんの数人の言うことを聞いては、論理的な解答に基づく、新たなアクションプランをすぐ作りたがる。

 

 なすべきことは、第一に、まずこの情報ギャップを解消し、世代を越えて共通に語ることのできる言葉やコミュニケーションルートを造ることではないか。

 そして、第二に、両世代が一体となって、現場で起きている新しい動きをきちんと捉え、その上で、企業・資本に対する応援歌や支援策をしっかりと整備することではないか。

 第三に、同時に、市民の暮らしに安心感を与えるような、身の丈に合うコミュニティの再生を考えていくことが必要ではないか。ゴールドラッシュに涌く新大陸だって、公共分野で必要な施策・取組は、本当にたくさんありました。それと同じです。政府のすべき仕事は、本当にたくさんあると思います。

 

 ということなのかなとおもいます。

 ただ、こうした方向性を形にしていく上での、根本的な障害は、世代を挟んで二つのニッポンが既に出来上がっている、というこの構図自体に、まだ多くの人が気付いていない、ということです。

 相変わらず大陸国家側の立場から、論理的に考えた施策を展開しようとしているけれども、それでは駄目。もっと徹底して、現場に任せ、現場に存在している様々な挑戦を、あるがママを大きく育てる。現場と現場の接点を濃くし、新たな信頼のネットワークと大きな取組の流れがそこから生まれてくるよう、じっくりと、だけど上手に方向付ける、そういう支援策の展開が必要なんだろうと思います。 

 

 自分が、「ネット移民」を本当に果たしたのかどうかは、よく分かりませんが、週末の諸先生のお話を聞きつつ、ニコ生出演体験を照らし合わせると、新大陸側と大陸国家側の断層という捉え方は、かように、結構便利かなと。そう思ったこともあり、その関係部分についてまとめてみました。

 今日のところは、以上です。

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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