「超ガラパゴス研究会」という勉強会で、コンテンツ産業の話をしているうちに、通信産業も、電気・電子産業も、そして、コンテンツ産業も、そんな区別自体が意味がない。「おもろハイテク、おしゃれハイテク」みたいな方向性を目指せるかどうかが、鍵じゃないか。だんだんそんな話になりました。
韓国を追いかけて、「選択と集中」の不足を嘆くのは、もうやめよう。日本を強くする新しい力。それは、「選択と集中」の徹底でも、さらなるカイゼンの徹底でもない。これまでとは全く違う方向性。日本が伝統的に強かったかもしれない、異次元のモノを「丸呑み」する融合力。その発掘と育成にこそあるのではないか。
同研究会での、チームラボ代表の猪子さんの言葉が示唆的です。
デザインとテクノロジーの間に境界がなくなった。これからは、「おもろハイテク、おしゃれハイテク」
おもしろさ、おしゃれさ、といった要素と、ハイテクという要素、異次元なものを、半ば強引に融合してしまう、その融合力みたいなところに、今後の我が国競争力が目指すべき源泉の一つがあるのではないか。今回は、こんな感じの話をしてみようかと。
(昨日のエントリに不十分ながら、少し手を加えました。5月18日には、ガラパゴス研究会でシンポジウムを開催し議論することになっています。ご関心の向きは、是非、そちらも。)
1.日本辺境論
(1) 日本モデルを正常進化させた韓国の戦略
日本は、よく、ものづくりで勝ったといわれます。
例えば、自動車市場で、「米国の砂漠の中でも止まらない」、「中古車価格が落ちない」、そういった品質と価格を武器に、世界市場の中を争ってきた。製造現場で徹底した改善活動を行い、その競争を勝ち抜いてきた。それが高度成長期の日本の国家戦略モデルだったように思います。
ところが、どうも最近みてると、その路線を更に突き詰め、洗練させたのは、日本自身ではなかった。また、「カイゼン」を学び、日本の品質管理を最初に徹底研究したはずの米国でもなかった。それは、どうやら、週末のたびに日本人エンジニアを呼び込み、必死になって日本の研究と生産カイゼンの実践を繰り返してきた韓国だったのでではないか。
特徴のその1は、低価格車、半導体メモリーなど、機能と価格で勝負しやすい市場を更に切り出し対象を絞り込んだこと。
特徴のその2は、その選ばれた分野に対して、より徹底した資源投入の《選択と集中》を行ったこと。
つまり、日本が強みを発揮してきた品質と価格で勝負する「ものづくり」市場で、更に対象を絞り込み、また、IMFショックで実質的な国内企業数が減ったのを逆手にとって、官民が一体となり更に徹底して集中的な投資を行った。これは、日本流の戦略を、更に今風に突き詰め正常進化させた姿とも言えるように思います。
それに対して、我が国は、中途半端に、すべてのプロダクト市場を守ろうとした(他方で、確かに、その量的広がりは雇用の維持にもつながった)。そして、家電10社みんなで、そこをわたりきろうとした(この辺については、ちょっと古くて恐縮ですが、e-Lifeブログの冒頭提言における分析をご参照ください。)。
ここのところも、韓国分析が急速に話題になっているように思うのですが、しかし、今から韓国流の「選択と集中」だけを追いかけてみても、もう遅いのではないでしょうか。市場規模やプレーヤーの多さ、支えるべき雇用の数や質なども考慮すると、日本と韓国は、そもそも国の成り立ちが違います。そもそも目指すべき方向は、少し違う方向にあるのではないか。
Toyota型品質改善・ものづくりの強みだけに依存した戦略から離れ、技術とソフト、東洋と西洋など、異次元のものを融合する力を前に出したソフトパワー戦略を基礎に、国家戦略を再構築すべき。
ただし、このことは、ものづくりを否定しようということではありません。日本には、やはり「ものづくり」が必要だと思う。でも、今の「ものづくり」には夢がない。ものがたりがない。そこを更に、「選択と集中」と言って彫り込んでいけば、ますます、味気ない、枯れたものづくりになってしまうのではないか。こんなことでは、ライフスタイルの競争力の時代を勝ち抜けないのではないか。
アナリストやメディアのみなさんも、政策屋の我々も、ついつい、通信産業の現状と課題、電機産業の現状と課題、コンテンツ産業の現状と課題といった個々の産業分析をしてしまいがちです。そして、その中で、「やはり『選択と集中』が不足している。」「コーポレートガバナンスに問題がある。」「ファイナンスが弱い。」「やっぱりベンチャーだ。」「いやいや標準戦略だ」等々などと指適しまいがちです。
確かに、こうした命題が示唆するように、事業環境を国際標準に近づけていく努力は間断なくすべきです。でも、時代を突破する力は、実は、こうしたHowの戦略論とは全然違うところにあるのではないか。むしろ、「個別の産業それぞれでは、未来が描けなくなっている。」。その点こそが、重要なのではないでしょうか。
次の時代を作る力は、経営手法や分析手法といった戦略論のHowではなく、「何を作りたいのか」、というWhatの疑問の中そのものにある。個別産業ビジョンの中で語られる市場分析ではなく、個々の経営者が何を作ることにコミットしようとしているか、そのことの中にある。どうも最近、その議論のバランスが崩れているような気がいたします。
「正しい戦略」を探す議論ではなく、「良いもの」を探す議論をすべきだ。くどいようですが、最近、いろいろなところで、強くそう感じています。
(2) 日本人の辺境性
「日本辺境論」という本が大変売れているそうです。僕も、本屋さんで新潮選書の棚を一生懸命探していたら、ちょうど、その本の番号のところだけなかったので、カウンターの方に訊ねたら、「すぐ後ろに平積みされてますよ」といわれ、ちょっと恥ずかしい思いをしました。
それはさておき、その 「辺境性」を語る内田先生のフレーズですが、特徴的だと思うものをいくつか列挙してみたいと思います。
- 「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「誰を親しくすればいいのか」を見極めることにもっぱら知的資源が供給される。
- 日本人はコミュニケーションにおいて、メッセージの真偽や当否よりも、相手がそれを信じるかどうか、相手がそれを「丸呑み」するかどうかを優先的に配慮する。
- はるか遠方に「世界の中心」を凝らして、その辺境として自らを位置づけることによって、コスモロジカルな心理的安定をまずは確保し、その一方で、その劣位を逆手にとって、自分都合で好き勝手なことをやる。この面従腹背に辺境民のメンタリティの際だった特徴があるのではないか。
丸山真男(「日本の思想」)、梅棹忠夫(「文明の生態史観」)などを思い出させるような内容ですね。でもたぶん、日本人って、こういうことなんだろうなと僕は思います。引用を始めればキリがありませんが、本書には、日本人の実感とあうパラフレーズが随所に散らばっているような気がします。
ただし、本書は、日本人論の取り上げ方が非常に多岐にわたっているので、このエントリで取り上げたい「辺境性」を、以前のエントリでも引用させていただいた、デザイナーの原研也さんのお言葉を借りて、更に絞り込んでみようと思います。
日本の近代史は文化的に見ると傷だらけである。しかし自国の文化を何度も分裂させるような痛みや葛藤を経た日本だからこそ到達できる認識もある。日本人は常に自身を世界の辺境に置き、永久に洗練されない田舎者としての自己を心のどこかに自覚しているようなところがある。
しかし、それは必ずしも卑下すべき悪癖ではない。自己を世界の中心と考えず、謙虚なポジションに据えようとする意識はそのままで良いのではないか。アメリカのように世界の中心に自分を据えるのではなく、むしろ辺境に置くことで可能になるつつしみを伴った世界観。グローバルとはむしろそういう視点から捉えるべきではないだろうか。世界を相対化する中で、自分たちの美点と欠点を冷静に自覚し、その上で、グローバルを考えていく。そういう態度がおそらくは今後の世界には必要となるはずだ。
その上で、原さんは、高野孟の「世界地図の読み方」から、面白い言説をひいてこられます。
地図を90度回転させ、ユーラシア大陸を「パチンコ台」に見立てると、一番下の「受け皿」の位置に日本が来るという 。・・・(中略)・・・台湾、琉球につながる海のシルクロードは当然、オセアニアやポリネシアからの海洋系・漂着系ルートもあっただろう。また、北のシベリアやツングース文化圏を経てサハリンを経由しても、タマは受け皿に転がり落ちたに違いない。モンゴル高原を突っ切って真っ直ぐにすとんと落ちてくるタマもあったはずだ。日本から下は何もない。太平洋という奈落を背にして到来する文物の全てを受け止めるポジション。そこに日本は存在し続けた。辺境といえば辺境であるが、これほど世界に対してクールな構えを持てる場所は少ないのではないか。
「辺境といえば辺境であるが、これほど世界に対してクールな構えを持てる場所は少ない」、明治以来の近代化のストーリーを思い出すにつけ、何となく、そのとおりな気がします。こうしたクールさを、内田先生は、こういう角度からも表現されています。
「主体を立てない、敵を作らない、遅速先後を論じない、強弱勝敗を語らない。」。「機」というのは、時間の先後、遅速という二項図式そのものを揚棄する時間の捉え方。「機」の思想が辺境において選択的に進化した可能性。
和魂洋才などとも言いますが、日本は時々すごい折衷をやってのけます。
明治時代の国語文化は、漢語文化そのものを核に据えながら、西欧風の論理を語る文体や、女性でも語れる書き言葉を複合的に積み上げていった。
江戸時代の浮世絵だって、西欧流の遠近法を知りながら敢えて無視し、自の奥行き感のある絵を発展させたようなところがある。伊藤若冲のように、宋画経由で仕入れた写実やアラベスク的華麗さを巧みに使いながら、独特の日本画の世界を作った人もいる。そうした成果が逆に、西欧絵画にも大きな影響を与える。
昔に遡れば、神仏習合とまではいわなくとも、ムラのお祭りやお神楽の風習など、地元の風土と巧みに整合した日本流の宗教の普及スタイルを作る。
「侘、寂」といった独特の感覚を伴った、兼六園の茶室:夕顔亭や、銀閣寺の庭園や東求堂といった、日本の伝統建築を形作る。
まさに、
はるか遠方に「世界の中心」を凝らして、その辺境として自らを位置づけることによって、コスモロジカルな心理的安定をまずは確保し、その一方で、その劣位を逆手にとって、自分都合で好き勝手なことをやる。
異質なもの、異次元の間にある価値観の隙間のようなものを、そのいずれかに決定的な影響を受けることなく、一種独特の間合いで融合してしまう。そういう文化的、若しくは生活力的な強みが、日本には伝統的に備わっているような機がします。
まさに、内田先生の言う「時間の先後、遅速という二項図式そのものを揚棄する」感覚が強みになっているのではないでしょうか。
日本がこれまで頼ってきた「ものづくり」文化だって、基はといえば、西欧の大量生産文化、フォードの工場生産などに基礎がある。そこに、日本的なムラ文化がうまくかけ合わさった結果、カイゼンする製造現場、という方向性が出てきた。そうはみれないでしょうか。
こうした掛け合わせが進んでいた当時は、ひょっとすると、この方法論が世界市場を勝ちぬく秘訣になろうなんて意識は、なかったのかもしれない。富岡製紙工場以来、必死になって日本流に工場を動かしていたら、自然にそうなっただけかもしれない。
まさに、「時間の先後、遅速」時代を意識しない、自然体の姿のままでの取組が、西欧流の工場労働現場と日本流の村社会の融合を生み出した。女工哀史の世界が第二次世界大戦後、そういう形で独自の発展を遂げた。
ただ、結果として、このモデルは相当な普遍性を持ち、日本の70年代80年代の成長を、この「型」一点張りで、支えきってしまった。そして、ほんの一時とはいえ、国際競争力第一位の座を獲得することに成功した。そう考えてみたらどうかと思うのです。
ところが今、これが妙な自信になってしまっている。そこが次の心配です。
改善を基礎にものづくり競争力で勝ち抜いた実績がなまじあるからこそ、その喪失を恐れて、「選択と集中」の徹底だ、金融資本市場論理の徹底だ、そらその逆だという声が上がる。
でも、ここであわてて、同じやり方で世界の中心に帰ろう帰ろうとすると、逆に、歪みの方が大きくなっていかないか。そうすると、だんだん、日露戦争直後に朝河貫一先生が「日本の禍機」で懸念されたようなことがまた起きるのではないか。
日露戦争の時も、その勝利によって、日本は突然、世界のトップランナーになったかのような自信をつけた。それは、全く実態のないことではなかったものの、その時得た妙な自信が、日本を植民地主義の拡大という解のない出口の方向へと走らせてしまった。日本人自身が、日本自らの立ち位置を冷静に見ることができなくなっていったのではないか。
確かに、日本は世界有数の経済大国にはなりましたが、そのプロセス(60年代〜70年代)では、日本人って、Economic Animalって、皮肉られていたんじゃなかっけと。僕らが競争力の復活を期してやりたいのは、また、そこに帰ることなのか?と。
世界経済のトップ入りをした。GDP世界第二位、国際競争力第一位を経験した。それ自身は素晴らしいことだと思います。でも、そこから脱落するのではないかという焦りが、金融資本市場主義への中途半端な傾倒や、日本の産業雇用文化と相容れない企業経営文化への追求といった方法論の追求を加速させると、世界からみて、またまた滑稽な日本、ということになりかねない。
AKB48や、アニメ・コスプレ、かわいいファッションといった、日本人自身があまりあまり中心的な価値観として取り上げようとしない、サブカルチャーの方に、世界の注目が集まるという現象の中にも、日本が国際社会の一員として目指すべき方向性の読み方に対する示唆が潜んでいるように思います。
世界が日本を見つめる目、そこに鋭い感性をたてて、「我々は、一体、何を作りたいのか。」、その原点に帰ることが、結果として、日本の国際競争力の健全な回復にもつながる。
世界経済第二位の地位を守ろうとか、GDPの拡大を確保しようとか、今の取組の延長線戦にある結果自体を目標とするのではなく、こういう価値観を発信しよう。こういうモノを作ろう。そういうWhatを通じて、改めて、世界一をとりにいく。そういう感覚が重要なのではないかと思います。
じゃあ、日本独特の感性を強みに日本の競争力戦略を考えよう。今、自分自身、そういう発想はないのかと思っていたら、偶然、超ガラパゴス研究会で、チームラボの猪子代表が語る語る。1時間。これかはら、「おもろハイテク、おしゃれハイテク」の時代だと。
いやあ、すっきりした。猪子さん、凄いと。
2.感動ある発見
(1) 異次元なモノをFusuionする力
じゃあ、我々は、何を作りたいのか。何を面白がっているのか。何が今、日本に自然体に根付いた「力」なのか。そこを振り返って、猪子さんは、次のように表現します。
“おしゃれハイテク”、“おもろハイテク”といったFusionによるライフスイタルデザインこそ、競争力 。
こうした融合の力の代表例って、やはり、携帯電話ではないででしょうか。
機能的に不要なのに、必ず日本人の携帯についている、ストラップ。とても変ですけれど、でも、おそらく、本腰を入れて普及をすれば、世界も絶対喜ぶと思う。デコメがはやるのも日本独特だと思います。女性の携帯電話に必ずと言っていいほどついてる蓋のデコレーションなども、日本的ですよね。
おそらく、今、もっとも日本的にとがっているのは、携帯電話(そう思ってたら、中国から先に、こんな携帯電話が)。
じゃあ、他に例はないのか。
ちっと昔を振り返れば、iPodでは先を越されましたが、「猿のチョロ松が芦ノ湖をバックに音楽を聴きながら瞑想するCM」で一世を風靡し、普通に考えればすごく汚れの目立つオレンジのイヤーパッドを標準装備にしてみせたSonyのWalkmanも、日本ならではの発信だったように思います。
ドイツ車の機能美や、イタリアの官能美にはかないませんが、マーチな感覚やCubeな感覚も日本車独特だと思いますし、かつてIsuzuジェミニがコマーシャルで見せ、最近では日産Noteが広場というキャンパスに自由に絵を描くCMセンスも、日本人ならではの、自動車本来が持つ機能やスピードとは関係のない、洒脱感、軽快感の現れ。
一時期、「四万十用品百貨店」という本に個人的にはまりましたが、ここで紹介される、四万十川流域の地域の人たちの生活に付いた様々な知恵や、それが「もの」の形にデザインされた、いろいろなグッヅ。とても普遍的な要素を持っているような気がしました。
裏原ファッションや、中国で絶大な人気を誇るRayが伝える「かわいいファッション」。これまでこのブログでも紹介してきた様々なライフスタイルについては、すでに、ネットによって、リアルタイムに国境を越えていっています。
こうした動きを、ハイテクとつなげる。日本のものづくり力につなげる。
UNIWQLOやMUJI(無印良品)の海外における成功も同じことなのかもしれません。日本独特の生活感とクオリティの高いものづくり。ユニクロや無印が提案するライフスタイルと、機能的なサプライチェーンや生産体制の確保が融合することによって、日本の服飾文化や生活用品が世界に届けられていく。
ある種のライフデザインの普及。既に、新しい競争力の地平が、そこに生まれ始めているように思います。
(2) 「デザイン」と「価値観」を選択する
こうしたライフデザインの思想の中では、テクノロジーとデザインの垣根は消滅していきます。軽い、速い、長持ち、壊れないといった機能や品質から満足感が得られる時代は終わった。もはや、よほど長期的な視点からの抜本的ブレークスルーでない限り、技術だけではValueを生み出せない。
InterCommunicaitonという雑誌の60号に、「デザイン/サイエンス」という特集があるのですが、その中で、茂木健一郎さんと、Suicaのインターフェースデザインなどを手がけた、インダストリアルデザイナーの山中俊二さんが対談をされています。その中で、山中さんは次のように発言されています。
よく「芸術と科学の融合」みたいなことがいわれるが、僕の中では、全然融合する気はしない。でも、一つのものに科学的に磨かれる機能(例えば、「使いやすさ」)と、自分の感覚を磨くことででくる「心地よさ」の両方を込めるとき、微妙な接点がありうる。その場所を探すのがデザインの役目なのかなと思っているんです。
確かに、自分も、一消費者に戻れば、「いいものを見つけた」という発見をした時は、とても嬉しい。機能が良いだけでなく、どこかしら自分にフィットしたものが見つかった、そういう満足感が得られた時って、すごい幸せな感じがする。
ちょっと、いきなり一般的すぎる例かもしれまえんが、カタログハウスさんの「通販生活」の冊子が大人気を誇るのも、そういう「プチ発見」の連鎖にあやかりたいということなのかもしれない、と思うことがあります。UNIQLOやMUJIが勝ち続けている理由も、その発見の連鎖に対する期待を、店舗で次から次へと提供される商品が裏切っていないからではないでしょうか。
例えば、UNIQLOが始めたT-シャツ専門店舗をお邪魔した時も、T-シャツを缶に詰めるところに、デザインと流通合理性の両立がしっかりと込められていたり、T-シャツという規格化された製品に敢えて様々なブランドとの提携を持ち込む、という戦略があったり。どこかしら共通したユニクロらしい価値観が通奏低音のように流れている上で、しっかりと新たな展開を発見させている。相変わらず、すごいなあと、関心しました。
00年代以降、特筆しておくべき重要な変化の一つに、通販(村山ラムネさんが広める通販生活スタイルなど)や生協型のビジネス(大地を守る会、らでっしゅぼーやなど)が、着実に生活に浸透していったことが上げられると思います。
ネットや効率的な物流手段の普及などによる、「流通形態としての利便性」や、「口コミ評判が聞けて便利」といった機能面の評価もありますが、更に大事だと思うのは、それぞれに、こういう生活空間になじもうよ、「有機野菜」をこう考えよ、といった割り切りある価値観の提唱のようなものが伴っているように感じることです。
大地を守る会が毎回、配達のたびにツチオーネを同封しようとするように、商品やサービスに込められたデザインの中に共感できる価値観のようなものがある。そこには、機能や便利さだけではない、消費者としての満足感を大きく左右する大切な要素があると思います。
問題は、商品やサービスを提供しようとする企業等の側に、そこまで大胆に、特定のスタイル/価値観を選択するリスクを取る覚悟があるかないか、なのではないでしょうか。
例えば、新商品や新サービスをリリースするに当たって、機能や性能で語れる部分については、判断しやすい。小難しい経営役員がたくさん集まった経営会議でも、そういう客観的な指標で語れる部分については、コンセンサスが得られやすいのではないかと思います。
しかし、デザインとか、価値観を選択するとなると、なかなか難しい。こんな割り切った商品を事業化できるのか。こんな価値観を発信してしまって顧客は逃げないのか。サラリーマン社長になればなるほど結論は鈍るし、経営会議の総意が必要などと言い出せば、どんどん無難な選択肢しか残らなくなってしまう。
かつて、i-modeが新しかったのは、従来の携帯の概念を越えるサービスの提供に、当時の大星社長が自ら進んでGoSignを出したところがスタートだったと思います。
逆に、iPodに日本が負けたのも、日本の進んだ携帯電話を海外展開し損なっているのも、この価値観こそ世界に売れるという信念を、企業側が維持できなかったからだと思います。
例えば、大地を守る会の藤田社長がこだわる「農業と社会の信頼との絆」は、百万人のキャンドルナイトの熱狂と、それに対する一部の誤解の両方を生み出したんだと思いますが、それでもなお、藤田社長が、自分の信念を貫き通されたからこそ、ビジネスモデルだけで説明できない、大地を守る会の今の成功(というか、使いたい人は使うし、違うと思う人は、使わない)があるような気がします。
(3) 尖った感性に対する「寛容性」
では、どうすれば、こうした決断できる経営者や市場環境を、大きく育てていくことができるのでしょうか。
正直なところ、今の政策や事業環境は、どうも、こうした方向性から逆に行っているような気がする。客観的な指標や膨大な市場知識に基づくリスクの指摘ばかりを得意とし、たまに、ベンチャー待望論とかを始めると、今度は極端にその意識高揚論の方に走る。こうした批評や政策論は、自分の持つ価値観に少しづつ自信をつけて、ようやっとの思いで、おそるおそる決断しようとしている人達に対して、その動きの芽をつぶす方、つぶす方に、作用しているような気がします。
個別産業ビジョンのような知識先行型の取組も、大企業批判・ベンチャー礼賛のような意識先行型の取組も、百害あって一利無し。このいずれかに偏った風潮が強まれば強まるほど、デザインや価値観の選択に関する経営者やエンジニアたちの決断が、どんどん阻害されていく。
もちろん、アナリスト的な企業分析も、産業の勝ちパターン分析も大事です。だけど、こういう知識先行型論議は、それを語り始めた瞬間に、それを語ること自体が自己目的化して、知識のひけらかし自体が関心の対象となってしまいやすい。語っていることにリアリティがなくなってしまいやすい。
ベンチャーが大事だ。経営者の取り組み方が大事だ、シリコンバレーモデルだといった行動形態論も、意識を鼓舞する上ではとても大切です。でも、そういう意識論自体が、プレーしている本人ではなく、政策やメディアや、自らは無難な経営に安住する経営者など、第三者によって語られるおかしさから、どうしても免れられない。
行動への意志と、その尖った感性に対する「寛容性」。それを、経営者やエンジニアはもとより、政策現場や産業批評メディアなど、市場関係者みんなで大切にすることが、時代を変える新たな融合を生み出す上で、今、一番大切になっているように思います。
作りたい「もの」もビジョンもなく、ただ人の行動スタイルや状態を批判するためだけの、産業ビジョンや経営意識論は、単なる価値創造の邪魔でしかない。特定のライフスタイルや価値観で勝負しようとする経営者やエンジニアの冷静な判断を、ただ鈍らせるだけではないかという気がします。
音楽や映画といったソフトや、エステなどのサービス自身も含め、ものの「作り方」ではなく、どういう「もの」を作るか、「もの」に対するコミットがあることが、決断とその決断を批評すべき人の間に、常に共有されるべきポイントではないかと思います。
3.感動ある発見を広げる市場づくり
(1) 「選択する」/「選択される」空間の変化
では、「何をつくる」のか。その尖った感性をいかに周囲に許容させるのか。
そうした融合力を発揮させやすい環境を作るためには、クリエーティブな本人達の努力はもとより、優れた感性同士が触れ合う機会を、日本の中で、もっと意識的に増やしていくことが重要ではないか、という気がしています。
思い切った選択させることができれば、海外から見てもものになるような「新しい融合」は、実はまだまだ日本中にある。しかし、その中身が尖ったモノであればあるほど、それに応えられるユーザー側の感性と出会う確率は、普通のやり方のままでは、徐々に悪くなっていきます。
出会う方が凡庸だったら、せっかくの感性も、どこに出してもつぶれてしまう。凡庸ではない感性と出会うためには、出会い方に、それなりの広がりと可能性が必要です。
もちろん、かつての大量生産、大量消費の時代にも、商品に感性や感動がなかったとは言いません。最初にテレビと遭遇するショックは壮大なものだと思いますし、三種の神器との出会いは、多くの消費者にとって、大きな「感動」だっただろうと思います。そういう意味では、感性との出会いはちゃんとある。
ただし、その出会い方も内容も、かつては、ある意味、とてもシンプルだった。みんなで力道山のプロセス中継を見て、王・長島のプロ野球中継を見て、うちにもテレビが欲しいと思う。そういうとても普遍的な感動だった。
テレビや雑誌などのマス広告で知り、デパートやスーパーの売り場で実物と出会う。テレビなどの普及自体には大まかな流れが仕込まれていますから、あとは、マス広告で商品のバリエーションを認知し、品揃えという形でバリエーションが再現されたお店の売り場で、あとは実物をみて、どれを買うか、選択すれば良い。
最近では、そこにさらに、家電量販店という強力な売り場が登場しましたが、そこも含めて、基本的には、マスプロモーション、マス消費。だから、出会う感性のバリエーションも、万人向けの最初から普遍性を狙ったようなものが中心であり、多様性には乏しい。出会う場所も、デパートやスーパーといった、画一的にデザインされた空間で問題がなかった。
今では、それがさらには、デパートやスーパーでさえも無駄な選択肢や無駄な時間・空間が大過ぎるということで、もっと売り場の狭いコンビニという空間の中に、更にすべての選択肢が集結させられようとしている。まさに、尖った感性ということから見れば、逆に出会いの選択肢を狭める方、狭める方に向いて走っている。
しかし、僕らのライフスタイル、って、そんな程度の空間から選択されるもん??
もちろん、コンビニという狭い空間ですべてが間に合うようになりつつあるのは、僕らの生活に選択肢がいらなくなったからだけではなくて、特定の趣味に必要であり限られた場所でしか売っていないもの、それについての情報が、ネットにあふれており、そこで事前絞り込みが行われているから、身近にある売り場自体にはバリエーションが必要がない。必要なら、そういう店に、とことこと出かけていけば良い。そういう側面もあろうかと思います。
ただし、ネットが、感性の出会いの場に十分になっているのであれば、このパターンもまたよし、と思うのですが、そこで問題なのは、このネット空間、
「感動」がない。。
少なくとも、「感動」上手な人が手段として使うのでない限り、ここから、自発的かつ良質な「感動」が生まれて広がっていく、という感じはあまりない。あくまでも他人の「感動」を疑似体験するだけ。そんな感じがする。
ライブがテレビになり、テレビがネットになる。そのプロセスで、感動空間はどんどん狭まっているような気がします。例えば、筒井康隆曰く。byテレビの効果。
「毎日のように新たな英雄を見いださずにはいられない大衆の欲求によって、現代では英雄ではなく単なる有名人になり、テレビに現れては消費され、すぐに消えていく。」
そして、岩井八郎曰く。byネットの効果
「ネットワークと呼ばれる世界の中では既視感が蔓延する。(中略)実際には行ってもいないハワイに関する多数のブログのコメントを読んで、「ハワイ」はつまらないと評価する。」 これ、byネット。
さらに、
「(メール・ネットで)人間関係の網の目に埋め込まれてしまった若者は交際人数も交際回数も多くならざるえない。したがって、現在の状況は、消費が冷え込んでいると言うよりも、いくつものネットワークの中で村八分にならないために「小さな消費」を大量にしている。」
ということか?。
つまり、最初の出会いの場がネットになればなるほど、感動が希薄になる。すべてが既視感に包まれ、自分自身で発見する喜びは、あまりない。小さな消費だけが繰り返されていく。下手をすれば、その中に、尖った感性も吸収されてしまう。
テレビが英雄を有名人にし、ネットが有名人を身近なスターに貶めてしまった。便利にはなったかもしれないけれど、大きなモノを見つける感動は、もうそこにはない。ネットの中では、自分が行動して見つけた感も、とても希薄。
本という活字空間や、純粋に美しい写真集などをめくっていた方が、よほど感動を発見する喜びが深い。
例えば、Pin@Clipの実証でお世話になった東急ハンズの方も、顧客による事前情報収集が進んだのか、東急ハンズの店舗内での顧客の回遊率が下がる傾向にあることを、大変嘆いておられました。僕は、ハンズって、うろうろするとすごく楽しいと思うんですが、そこが最近、もう合理的な調達の場としてしか意味がないという。Shoppingの「調達化」が進んでいる。ハンズもそうなら、Loftもそうなってるんでしょうネ。渋谷ッ子としては、ちょっと寂しい。
それはさておき、となると、今後問われるのは、感動を伴う商品・サービス選択、そういう場をどうやって再生していくか。自分の問いたい新たな感性を、どこで「見せ」て、どうやって「見つけ」てもらうか、「みる」/「みられる」の関係の「型」の再構築が問われて行くことになると思います。
とても陳腐な表現をすれば、市場コミュニケーションとブランディングのあり方が、テクノロジーを生かす時代の鍵になっている。
そのためには、小売店舗の中のみに存在した「選択する」空間を、いかにもっともっと生活時間・空間全体の中に広げていくか、その中で作り手が持つ価値観を、どう裸になって使い手に見せ、勝負していくか。そこが、技術とライフスタイル、デザインとテクノロジーが融合する時代を勝ち抜く社会と、元気を失う社会の分かれ目となっていきそうな気がします。
「選択する」空間を広げ、共感する機会を増やす。尖った感性同士が、商品の開発者と商品のユーザとという関係性の中で出会う機会を増やす。若しくは、彼ら自身が融合してしまうような場を増やす。それによって、これまでの画一的な感動と大量生産・大量消費の在り方自体を変えていく。そういう取り組みは、どうやったら実現するのか。
とりあえず目指すべき取組みとして、僕は、大きく三つの方向性があるように思います。
(2)選択する空間の広げ方
?超ガラパゴス戦略
第一の方向性は、陳腐ではありますが、グローバル化だと思います。というのも、尖った感性を問うということは、単純なマス消費には、もう戻らないということだからです。
脱・マス消費ということと、多品種少量生産というイメージ。なんかそれだけもう、商売的には、いけてない雰囲気も漂います。しかし、単純に言えば、そもそも、対象とする相手の母集団を増やせばよい。多品種大量生産(中量生産くらい?)は、不可能な命題じゃない。
きちんと定量的に分析すれば、「少量」などと卑下しなくても、ホンダビートやダイハツコペンのようなニッチなクルマにも(例が古いか?)、十分採算の合うラインはあるでしょうし、もっといえば、これだけ情報伝達・物流の手段が発達した昨今、10年前と違って可能性はずいぶん広がった。実際、MAZDAはロードスターを海外に売りまくりましたし、今のGT−Rの一部ファンへの圧倒的人気も、相当なものだと思います。
尖った感性を資本効率性と両立させるためには、とにかく、土俵を海外に広げることが必要。
例えば、用途は限定されていても打ち上げに途方もないお金のかかる通信衛星ビジネスは、最初から、投資回収を地球規模で考えています。おそらく、映画、音楽などのコンテンツなど、尖った感性で勝負するような商品・サービスなども、今後は、同じようなことになるでしょう。
尖った感性を形にする上では、やはり金をかけることは大切です。手抜きをすれば、やっぱり本物感が無くなってしまう。昔、ToyotaとPanasonicなどがWillというシリーズを手がけた時期がありましたが、やはり、一品一品へのコストのかけ方が中途半端だったところに問題があったような気がします。
ただし、金をかける以上、それを回収しなくてはいけない。そのためには、国境を越えた市場規模を前提に投資を考えざるをえない。ニッチな車だって、世界を相手に考えれば、量的には全くニッチではない。だからこそ、ニッチにも妥協無く投資ができる。
もちろん、国境を越えるたびに多少のカスタマイズやリ・デザインは必要になります。でも、ゼロからやり直しかっていうと、そういうもんでもない。多少のカスタマイズも含めて、しっかりと投資をする代わりに、強固な意志を持って、最初から世界ワイドで回収する。
日本の商売の今は、とてもガラパゴス。金もかかるし、だから海外でもやらない。でも、それは逆ではないでしょうか。ガラパゴス化した尖った商品・サービスだからこそ、海外に出す競争力がある。超ガラパゴス化を進めることが、逆に国際競争力になる。
こんな風に模式化もできるのではないでしょうか。
代表選手は、僕は、やはり携帯電話だと思います。10年前、僕はメーカーの方に、日本のような小型の携帯電話は、体格が大きく、自動車で移動するのが基本の欧米にはなじまない。そう示唆をいただき、海外展開の難しさを教えていただきました。しかし、今、欧米の携帯は、見事に小型化し、手のひらサイズになってます。そしてさらには、かつてザウルスが唱えていたような、Smartphone化への道をたどりつつある。
実際、当時NYの小売店でみた某日本メーカーの商品は、1〜2世代も前のモノでした。国内の市場が急拡大していたということもあるんでしょうが、最新式を海外で売るために生産投資をしようという発想自体が、なかったんだと思います。
でも、やっぱり、日本の携帯っておもしろい。便利。かつてゲームソフトが世界を席巻したように、僕は、日本の携帯と携帯メール文化は、世界を制するポテンシャルを持っていると思う。でも、通信サービスとしての採算から先に考え、メーカー自らが勝負しようという発想がないから、いつまでたっても、宝の持ち腐れになる。
ガラバゴス化し、日本でしか競争力がない技術ではあるけれども、それをライフスタイルに視点を置き換え、技術ではなく、そのライフスタイルを国際展開するという発想に切り替えれば、ガラパゴス化した現象だからこそ、エッジのたった比較優位ができる。そこから、それを支える技術の市場も生まれる。
ガラパゴスであること自身を国際競争力にしよう。そういう発想の転換が必要になっているような気がします。
?リアルとメディアの融合
第二に、ハードもソフトも、もっとリアルな生活空間時代を大切にしないとだめではないか、ということであります。
例えば、平面テレビを、テレビだけで語らず、居間空間の作り方と一緒に提案する。例えば、バング&オフルセンのテレビやスピーカー、大変残念な結果となりつつありますが、ナカミチの壁掛けモデルなど、売れかけた萌芽をみせた市場がありました。その時は、いよいよそういう時代が来たかと思いましたが、実際には、その後、腰折れ感があり、現在は、普通に大型テレビシフトへと追い込む方向に、若しくは、とにかくデジタルテレビへの置き換えを促す方向に、市場が流れているように思います。
また、ソフトも、ユリイカの坂本龍一特集を語ったエントリの時に多少ふれましたが、CDなどの媒体に頼った商業音楽の功罪の結果、ライブでの感動体験ということがすごく軽視されがちな状況になっている。
でも、人に感動を与えるのは、今やテレビという機能ではなく、その場も含めてそこで得られる映像を楽しむ生活空間そのものです。音楽だって、流行の音楽をCDやネット配信で確認するのではなく、多少無名でも、ライブで音楽体験自体に親しむことです。そうした中から、感動上手、発見上手が生まれてくる。
コンビニとネットで済んでしまう生活の中からは、感動上手も、発見上手も、生まれてこないでしょう。ますます、人の後を追うだけ。みんなが知っているものを知っていることに満足するだけ。
しかし、暗い話ばかりかというと、そうでもないような気がします。
例えば、急速に普及したアウトレットモール文化や、コストコのようなある種の買い物劇場空間の広がりは、選択するという行為自体が楽しいモノで、その中で、自分にあったスタイルのモノを探したい(コストコは違うか・・・)、そういう欲望を着実に喚起しているような気がします。
家の中での上質な生活空間を選ぶ、そういう贅沢は、まだ、家自体が狭い日本にはなかなか許されていないのかもしれませんが、そういう選択する空間(つまり買い物やお出かけ先)自体の空間を楽しみたい、そういうことでの街の盛り上がりは、僕は案外ブームになっているのではないかと思います。
密かに盛り上がる荻窪のジャズ、中野サンプラザとまんだらけ、渋谷で展開したピナクリ、表参道のエキナカ、解放系で人を集めたい六本木ミッドタウン(夜桜のライトアップはきれいでしたけどね・・・)、街空間自身がFunな空間に化ける。そこで、自分に会う価値観を探す。昨年9月に行ったSensewareの展示も、ミッドタウンの雰囲気にマッチしていたような気がします。
また、年々盛んになり、メジャーになっていく富士ロックフェスティバルをはじめ、ライブが、いろいろなところで盛り上がっているのも、よく伺います。音楽ライブについては、自分自身であまり伺っていないので、確証を持ったことがいえないのですが、例えば、広島テレビが地元で開催したMusicCubeというライブイベントは、本当に多くの若い子たちが集まったそうですし、そこを訪れた職場仲間は、その熱気に感動して帰ってきました。
ライフスタイルを選ぶ、価値観を選ぶ、だからこそ、それを選択する空間には、リアリティがいるんだと思います。ネットで事前に情報があふれること自体は、まったくもって良いことだと思うのですが、その情報自身にのみこまれないよう、ネットとリアリティとの優れたバランス感覚を、もう一度社会的に取り戻さなくてはいけない。
メディアとライブや現実空間を結ぶ新たな行動を駆動する。インフラ・街空間とコンテンツの融合を促進しながら、新たな感動空間の拡大をはかる。そんな方向性が注力すべき第二の方向性かなと思います。
?広告から市場コミュニケーションへ
第三の柱だと思うのが、広告戦略から市場コミュニケーション戦略への転換です。
これまでの企業広告の発想の中には、商品をいかに広く認知させるか、差別化された形で認知されるか、という頭しかなかった。高度成長期の三種の神器のように、画一化された感動を、広く消費者全体に届ける、そういう時は、これで良かったし、まさに、そういうマス広告こそが必要とされていた。
すなわち、開発者と生産者で、次はこれを売ると決めたモノを消費者に選択させるために、マス広告を使い、広告した商品をスーパーやデパートにナガして置いて、そこに行くと、宣伝され話題になっているモノが目の前にある。あとは、消費者には、それを買うか、買わないかという選択が待っている。
そういうトップダウン型の市場価値創造で、経済を支えてきたんだと思います。
しかし、そこは、今、大きく形が変わろうとしている。開発者と消費者が直接、これは良いものだと響き会う。感性同士の出会いがまずある。それで「行ける」となった商品・サービスが、最適生産し最適流通される。
組み合うチームも、大量生産・大量消費時代は、「開発/生産」と「流通/消費」というチームに分かれていた。今後は、「開発/消費」と「生産/流通」という異なる組み合わせがチームになっていくのではないか。そこで大切なのは、HardwareでもSoftwareでもない、感性に訴えるSenseware。今、そういう時代に変わっていこうとしているのではないでしょうか。
大地を守る会の農家や、ナカミチのエンジニアが作るスピーカーが、直接消費者と響き会えば、一つの市場価値の萌芽が生まれる。それを「大地を守る会」やナカミチというメーカーが、それに応じた生産・流通体制を柔軟に組むことで、経済になる。
こうした積み上げを通じてボトムアップ型に市場形成されていくとすれば、マス広告の役割は終わる。その代わりに、作り手と使い手の間の「感動」の接続を、小さく地道に積み上げていく、通販生活のような情報伝達空間、市場コミュニケーションが、ますますにニーズを増していくのではないでしょうか。
ただし、これもネットだけではいけません。やはり、あくまでもリアルな空間、もしくは、それに代わる圧倒的なリアリティがどこかで必要になります。
例えば、生活用品を選択する際には、通販生活にとって、リアルのショップがあることが大切であるように、また、UNIQLOがネット販売を始めてもなお、リアルの店舗に人が集まるように、実際に物をみて、自分の発見の内容を確かめる空間というのは、必ず必要です。
そういうリアリティのあるコミュニケーションを広げていくような、ネットとリアルの双方を巧みに使いこなしていくような企業等の市場コミュニケーション戦略。広告戦略から市場コミュニケーション戦略へのシフトこそが、あらたな市場価値創造の時代を切り開く、重要なカギになってくるのではないでしょうか。
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今回は、日本文化固有の融合力を鍵とする国家戦略への転換。そのために取り組むべき、感動空間の再活性化、みたいなことについて、まとめてみました。後者について、キーワード的に振り返れば、
- メディアだけではなく、生活空間自体を楽しくする。
- メディアとリアルを駆使し、都市空間を人の活動が駆動されるようなコンテンツ空間へと再構築する。
- 作り手とユーザをつなぐ新たな「型」を創造する。
- ライフスタイルの競争力向上に貢献し、「魅力ある日本」を積極的に発信する、グローバル産業へと脱皮する。
- 企業の「広告」意識を変え、企業と消費者の接点に積極的に入り込み、企業の市場コミュニケーション戦略の基盤を提供する。
まさに、こうした空間の再活性化を図ることによって、生活感のない生活にリアリティを取り戻すこと。それこそが、日本経済活性化の鍵を握っているような気がします。
最後に、若干蛇足ですが、最近、神楽の本(細野晴臣さんの友人である三上さんというミュージシャンの方が、全国の神楽を巡った「神楽と出会う本」)にはまりました(苦笑)。実は、こういう公的な場の共有、というのが、「反復継続し、希薄化する日常」から、逆にリアリティを取り戻させるきっかけになるのかもしれないと、何となく感じました。
現代は、規制緩和と市場合理主義の徹底 (効率化ではなく、民営化自体を目標)が、その土地土地の文化や風土を壊している時代。全国どこに行っても、似たような駅前とコンビにしかない生活を浸透させ、ライフスタイルの特徴や文化が出る「公」が壊れていっている時代。
今ここに、Localityに根ざした土地の風土や、脱物質消費文明を支える大きな時代の価値観の方向性を、みんなで体得することができれば、我が国の成熟した技術力は、これらと一挙にFusionをおこし、そのライフスタイルとともに、再度、世界を席巻していくような気がします。
韓国のみなさんが、必死に「集中」と「カイゼン」に取り組んでいる今だからこそ、もっと生活を楽しむ。そして、選択する余裕のある空間を生み出し、その中から、新たなものづくりのものがたりを生み出していく。そのために、必死になって生活を楽しみ、必死になって仕事をする。そこにこそ、今、日本が目指すべき国家戦略があるような気がいたします。
「世界を変えるデザイン」という本を買ってきました。まだ読めていませんが、そのほんの副題に何気なく書いてあった一言。
ものづくりには、夢がある。
もう一度、夢が語れる国に、日本をしよう。そのために、一生懸命、暮らそうじゃないか。極端に要約すれば、今日は、そういうことが申し上げたかったのかもしれません。