前回の続きです。作り手の個性と、感性ある使い手をつなぐ。そのつながり自体を市場化する。ソフトパワーを市場化するって、こういうことかなと思います。でも、そのためには、ナイーブ、かつ、個性際だつ作り手と使い手の両者を、巧みにつなぎ止めていかなければいけない。凄い人間力と、冷静なビジネス・スキルの双方が必要になる作業です。そのためには何が必要か。これが今回のテーマです。
自分は、前回のエントリで、次のように書きました。
そういう視点から見てみると、コンテンツ産業の悩み、高級食材を志向する農水産業の方の悩み、エッジのたったものづくりで勝負する中小製造業の悩み、実は、みんな共通する要素を持っているように感じます。
自分自身、コンテンツ産業の担当に加え、IT政策担当時代に、地元のこだわり農産品をITで全国に広める新たな流通作りのプロジェクト(にっぽんe物産市)をはじめたり、BtoBのe-Commerceの話を現場で伺ったりさせていただきながら、クリイティブな農家や、隠れたものづくり名人を、如何に市場に直接つなげることがいかに難しいか、ある種、共通するモノを感じてきました。
今回は、その代表選手として、改めて、「コンテンツ産業の悩み」を例に、その共通する要素を取り出してみたいと思います。
1.スマイルカーブ型へ
(1) 多メディア化
テレビのビジネスモデル、レコード産業のビジネスモデル、映画産業のビジネスモデル、これまでコンテンツ産業が作り上げてきたビジネスモデルは、強固なものがあります。少なくとも、ネットが出現するまで、余り大きな変化は必要ありませんでした。
他の分野を見てみても、農産物なら農協を主役とした流通、漁業なら漁協から築地につながる流通、中小ものづくり工場なら、大手取引先との系列的な取引。この数十年来、基本的なビジネスモデルに、あまり大きな変化がなかったのではないかと思います。
しかし、ITの登場をきっかけとして、この10年間くらいの間に、あちらこちらで、ビジネスモデルに大きな構造変化が起こり始めている。そこをどう捉えるかが、最初のポイントです。
コンテンツ産業の場合、具体的には、第一に、収益構造のスマイルカーブ型への変化、第二にビジネス・プロデューサーの立ち位置の変化。この二つが大きな要素だと思います。まずは、この辺の説明から入りたいと思います。
最初に、この20年間、コンテンツの流通経路が如何に驚くほど増えたかを見てください。字が読みづらくて恐縮ですが、次の図に簡単に整理してみました。
こうやってみるだけでても、改めて、90年代以降、コンテンツ流通メディアは急速に増えていますね。
更に言えば、この絵では、インターネットコンテンツ配信を一つに括っていますが、実際のネット上のコンテンツ流通チャンネルを見ると、YouTubeあり、ニコ動あり、IPTVあり、アクトビラあり、各種アニメチャンネルあり、最近では携帯漫画サイトありと、実際には、ここだけでも無数に分割されていきます。90年代以前の構図と較べれば、相当に多メディア化しているいえるでしょう。コンテンツの供給総量自体が増えていないとすれば、流通メディアの間の競争は相当厳しくなっているはずですよね。
こうした多メディア化の背景にあるもう一つの動き、すなわち、戦後の映画主役時代が、テレビ主役時代になり、その時代の流れにネットが挑みかかろうとしている、その側面も見る必要があると思います。
というのも、インターネット流通は、コンテンツ制作に自ら投資をしないという、これまでのメディアには無かった大きな特徴を持っているからです。
例えば、映画産業が立ち上がるときは、映画配給会社が必至になって俳優さんを養い、スタジオを作り、映画製作費用を賄いました。テレビ産業が立ち上がったときは、テレビ会社が必至になってタレントに出演機会を作り、スタジオを作り、番組制作費用を賄いました。レコード産業が立ち上がったときだって、アーティストにマネタイズの機会を提供し、スタジオを整えたのは、当初はレコード会社自身です。
しかし、ITは違う。BeeTVのように、そうではないコンセプトで頑張っている方もいらっしゃいますが、基本は、流通メディアの側では、制作資金への投資は行わない。その代わり、口も出さない。この辺は、「コンテンツ産業の未来図」というエントリの「通信ビジネスが中途半端な理由」という部分にも書きましたが、とにかく、専用のコンテンツ作りに投資をしようという行動に出ない。これは、流通側がコンテンツ側の制作資金を賄うことがある意味常識だったコンテンツ業界にとって、衝撃的な事件です。
(2) スマイルカーブ型へ
では、多メディア化(:流通経路間の競争激化)と、コンテンツ制作に投資をしないネットという流通媒体の普及は、コンテンツ市場全体にどういう影響を与えたのでしょうか。
ちょっと乱暴にまとめると、次のような事態が起きているのではないかと思っています。メッセージをわかりやすくするために、敢えてデフォルメして書いている側面もあるので、そんな極端な話でも無かろうという部分については、お許しをください。
古くは、有線放送やラジオという0次流通で刷り込む。シングル/アルバムという一次流通で収益を回収する。コンサート(レコード会社からの支援金付き)等の二次的・三次的な利用で、コアなファンを次につなぐ。これが、古き良き時代の典型的な音楽ビジネスモデルだったように思います。その後、0次に相当する刷り込み段階が、有線放送からラジオの深夜番組になり、「ザ・ベストテン」という歌番組に変化し、連ドラの主題歌に移行し、といった変化はあったと思いますが、基本的な構図は90年代まで不変だったように思います。
テレビ番組というコンテンツをみても、生録やライブの現場はただ同然、放映という一次流通段階の広告費で利益を回収し、その後のDVDビジネスや多の番組等への転用など二次・三次利用は 、広告収益に影響のでない範囲で行う。
雑誌の場合も、イベントや取材には収益の機会はほぼなく、雑誌媒体の広告費とFirst Saleの売上で利益を回収。ファンイベントのようなサービスやオンラインの情報提供などの二次的・三次的な利用もあるけれども、これらは、雑誌のブランドに対するロイヤリティ継続という位置づけ。
これらを単純化すると、次のようなモデルかなと思います。
- ラジオ、テレビ等で刷り込み
- パッケージ(一次流通)で回収 <=収益の柱
- 一次流通に害のない範囲で二次利用
しかし、今後、多メディア化やネットの普及で、競争過多が進み、相対的にコンテンツ制作への投資も低下していくとなると、一次流通は縮小均衡のスパイラルに入り込む恐れがあります。そのままでは全体の維持に必要な収益を支えられなくなってしまう。
そこで何が起きるのか。今後は、最初に、共感のきっかけを探してくれるライブなどの0次流通と、一次流通を経てある程度普及したコンテンツを活用した二次利用・三次利用。そちらの方に、むしろ、収益の柱が移行していくような気がするのです。
- ライブで収益
- パッケージ・ネットはそこそこ
- 収益源としてのタイアップビジネス
もちろん、ここまで単純にビジネスモデルが変化するとは言い切れませんが。しかし、全体の特徴をわかりやすく捉えようとすると、こういう「山」形から「スマイルカーブ゙型」への収益構造の変化と見るのも、一つのわかりやすい見方かなと。以下に、その萌芽となるような動きを見ていきたいと思います。まずは、その「左半分」の動きを見ていこうと思います。
例えば、下の図を見ていただくと、米国音楽業界では、Police、BonJoviといった錚々たるビックアーティストの収益は、黄色のアルバムセールスではなく、緑のライブ収入によって支えられていることが明らかです。そう言う意味では、BigArtistを抱える部分の米国音楽産業は、今や、パッケージではなく、ライブ・0次流通の方に収益の軸足を移してしまっている。
ちなみに、ライブの回数を具体的に比較してみたら、サザンやB'zといった方達のコンサートの2〜3倍の回数という感じでしたから、多くのコンサート回数に耐えられるという身体的な強さの違い(?)もあるのかもしれません。いずれにせよ、コンサートビジネスへの投資・回収意欲は極めて強く、むしろアルバム・パッケージの方が、ライブ・ツアーの付属物という感じもします。
このライブ収入とパッケージ収入の逆転現象の直接の引き金は、良い悪いは別にして、やはりiTunesだったのではないでしょうか。ネットを通じた、とても便利な一曲づつのばら売りで攻められてしまうと、特に単価が高く利益率も良かったアルバムセールスなどが分解され、レコード産業としては、苦しい立場に追い込まれざるを得ない。こうした動きも、そういう地平から出てきた窮余の策なのかも知れません(音楽産業のビジネスモデルや諸統計については、この報告書をご参照ください)。
こうした現象は、今後、音楽にとどまらず、多方面に広がっていきそうな気がします。例えば、テレビ・雑誌などの媒体でも、一次流通時点(テレビ放映や新刊雑誌)での広告費収入の相対的な落ち込みは、避けがたい変化になる。それだけに、スタジオライブや、雑誌取材の元ネタとなるイベントなど、元ネタ自体でかせぐという方向は一つ出てくるでしょう。
こうした一次流通での規模の利益が通用しにくくなる現象は、ユーザ側の変化にも加速させられているところがあると思います。というのも、時代は、みんなが同じ方向でマスを追いかける、という力を弱めている。もちろん、今でも、サザエさんが好きな人もいれば、笑点を欠かさず見る人もいる。だけど、国民全員が見るっていう感じの時代ではなくなってしまった。「八時だよ、全員集合!」のような国民的現象が起きることは、今後は、もうレアなのかもしれない。
ちなみに、この感覚の違いが、「八時だよ全員集合!」で育った僕らの世代と、「風雲たけし城」以降で育った僕らより若い世代との間を大きく分ける特徴なんだと言っている方にお会いしたことがあります。確かに、感覚的にはそうなのかもしれません。
40歳を超える僕らの世代は、まだマイケルジャクソンが懐かしい。Celine Dionが最後の国境を越えたミリオンセラーと言われても、何となく分かるような気がする。宇宙戦艦ヤマトや銀河鉄道999まで遡らなくても、「風の谷のナウシカ」を見て、みんなで良いよね、と語った記憶が残る。でも少し下に行くと、平井和正の幻魔大戦とかエヴァゲリオンとかっていうことにはなっても、そこに世代体験が共通する程のインパクトは、もう無いのかも知れない。攻殻機動隊が話題になっても、見ている人は一部の人。長嶋茂雄や王貞治といった国民共通の記号より、Jリーグが好き、プレミアリーグが好き、バレーが好き、野球全体というよりイチローが好き、と追いかけているものはバラバラ。
そういう多様化、分衆化した大衆が社会を支える時代に、どうやって、コンテンツという「流行」を基礎としてきた産業の収益構造を作り直すか。これが、ユーザーの側から見た、もう一つのお題設定なのかなと思います。
(3) 製作委員会の光と陰
暗いことばかり書きましたが、では、日本は手をこまねいているだけなのか。確かに、ライブの収益を強化するという、スマイルカーブの左半分の方については、まだ、日本では大きな流れには育っていないような気がします。しかし、スマイル・カーブの右半分、二次利用・三次利用の強化ということでは、少しづつ流れができているのではないでしょうか。
特に、アニメ産業の場合、この流れは顕著です。というのも、「製作委員会方式」の定着が、アニメ産業のビジネスモデルを大きく変えたからです。
次の図に、アニメ産業の市場規模と各時代の特徴を簡単にまとめてみました。
ここでいうアニメ産業とは、アニメ制作会社の収入というやや狭義の定義です。例えば、ガンダムのプラモデル(「ガンプラ」)の売上に伴う制作会社へのライセンス収入は含まれますが、ガンプラの売上自体など、二次利用・三次利用の売上を直接含んだ広い意味でのアニメ市場の数字ではありません。そのため、感覚的には、小さな数字になってます。
図を良くみていただくと、アニメ産業が85年から90年に急激に収入を増やし、90年代前半、二次利用を拡大することで更に収益力を強化。更に、95年以降、最近まで上昇基調を続けてきた様子が分かります。
日本のアニメ制作産業は、第一期には、テレビ会社から制作料を貰ってコンテンツを制作する、そういう苦しい制作下請け会社からスタートしました。赤道鈴之助、鉄人28号などの前後の世代にあたります。
それがガンダムなどを要する80年代後半を迎えた第二期を迎えると、とにかく資金力のあるテレビ局や代理店、玩具メーカーなどが積極的にビジネスに参入し、彼らのリードの下、二次利用・三次利用のすそ野を急速に拡大。収益力を高めていきます。
そして、90年代後半以降の第三期には、アニメ世代が大人になったのを受けて、様々なビジネスモデルが広がりました。例えば、深夜番組の時間帯に持参金付きで番組を提供。深夜で試聴率1%でも全国ネットなら100万人弱(の、おそらく可処分所得の高い大人)が見ているので、そのうち3%がその気になってくれれば3万本DVDが売れる。そういうモデルで、アニメ制作業は2000〜2004年当たりに更に急成長しました(このあたりの流れは、この報告書に詳しく書かれていますので、ご関心の方は、是非、ご覧ください。)
こうした二次利用・三次利用強化の流れを支えたのが製作委員会方式によるファイナンスです。2000年前後以降、「踊るシリーズ」以来急激に力を増したテレビ発の映画も、多くの場合、製作委員会方式が採られています。
コンテンツ産業の場合、どうしても、実際にアニメ制作企業、アーティスト、映像制作企業などの制作現場には、資金力が無く、二次利用・三次利用まで見据えた大規模な投資は行いにくいという実情があります。そこで、テレビ局、映画配給会社、広告代理店、玩具メーカー、商社など、主として流通や、二次利用・三次利用を行う事業者の側が任意組合形式で投資のための組織(:製作委員会)を作り、投資と収益の分配を共同で行うようになったのです。
製作委員会に、肝心要のコンテンツ制作企業が入れるケースは、実はマイナーで、制作現場は、相変わらず制作請負業的色彩が根強く残されています。それでも、全体の収益のパイが広がれば、制作側に帰ってくるライセンス収入も多少は増えてきます。
じゃあ、それで良いじゃないか。そう期待したいところですが、実は、このモデル、スマイルカーブ型の時代に対応するには、限界も見えてきている。その点を次に触れたいと思います。
2.コンテンツビジネス・プロデュース
(1) コンテンツの立場からプロデュースを
視聴者自身のマス志向が薄らぎ、好きなモノの多様化が進んでくると、ビジネス・プロデュースもなかなか難しい作業になってきます。加えて、これだけ流通メディアの種類が増えて、特定の人気コンテンツを独占することが難しくなってくる、いわゆる、一次流通の収益力が相対的に低下する「スマイルカーブ化」現象が進んでくると、収益モデルも見直さざるを得ません。ここに、今のコンテンツ産業の大きな悩みがあります。
というのも、今までのビジネス・プロデュースは、テレビ番組ならテレビ局、映画なら映画配給会社、音楽ならレコード会社といったように、一次流通で収益をあげている流通メディア側が、ライブの位置づけ、生録の公開、DVD等での二次利用・三次利用、更にはタイアップビジネスの展開などのビジネスモデル全体を考えてきました。
確かに、製作委員会方式のようなファイナンスが、こうしたビジネス・オプションの幅を拡げる上で大活躍をしたのも事実です。しかし、このやり方には、一つの大きな限界があります。というのも、流通側がビジネス・プロデュースをすれば、どうしても、その流通の価値を、具体的に言えば、例えば広告料収入をいかに落とさない形でビジネスの多様化が進められるかを考えてしまうからです。
例えば、コンテンツ製作者から見れば、テレビを通過点に、積極的にラジオにも、ネットにも露出をし、その上で、DVD化、タイアップビジネスの強化を進めたいと思っても、テレビ局が主導をすれば、どうしてもスポンサーの意向が最優先になります。でも、それは実際にそれだけ投資をしているわけですから、当然のこととも言えるでしょう。その結果、自分自身の視聴率が多きく傷つくおそれがあれば、例えば、思い切ったDVDの同時発売や、スポンサーの競争相手となるようなタイアップ相手との共同事業は、手が出せないでしょう。
そうした視点から、旧来型の特徴を一言でまとめると、こんな感じです。
- メディア(流通)がコンテンツ(制作)をフルサポート
- ビジネスプロデューサーはメディア価値最大化を優先
一次流通を構えようとする競争プレーヤーがこれだけ増えて、しかも収益力が相対的に落ちてきているとすれば、一次流通メディアの価値最大化を最優先してビジネス・プロデュースしている限り、みんなが「じり貧」になってしまいます。そこで求められる新たな形の特徴をあげれば、こんな感じでしょうか。
- コンテンツが多様な流通を跨ぐValueChainを再デザイン
- ビジネスプロデューサーはコンテンツ価値最大化を優先
これから大事なのは、コンテンツ価値を最大化するようなビジネス・プロデュースだと思います。放送、映画、レコード、同じような流通メディアの立ち位置にいてもいい。ただし、ちょっとだけ視点の立ち位置を変える。そうすることで、見える風景は全然違ってくると思います。
しかし、広告料収入の規模の大きさ、映画館での興行という映画の基本哲学、CD媒体の売上というこの30年を支えた成功体験などには、単なる発想上の足枷とは言い切れない、大切な真理も含まれている。それだけに、流通の立場から制作の立場へ、思い切ったビジネス・プロデュースの発想の転換をしろと言われても、なかなか難しい部分があるんだと思います。
(2) コンテンツビジネスの「パッケージ化」
そんなことなら、コンテンツ制作側でビジネス・プロデュースを始めてしまえばいいじゃないか。単純に考えればそういうことなのですが、これがなかなか簡単にはいきません。理由を一言で言えば、制作現場には、作品製作の中身を見るクリエィティブ・プロデューサーはいても、流通経路やそれぞれの利益率、パートナーとの折衝からマーケティング展開といったビジネス・プロデュースを自ら手がけるような人材は、育っていないからです。
理由は比較的簡単だと思います。そうしたビジネス・プロデュースに関しては、テレビ局をはじめとする製作委員会、映画会社の広告・企画部門、レコード会社といった流通メディアサイドのフルサポートに身を預けてきたのが、これまでの実態だからだと思います。
若しくは、もう少しラフに大局的に見れば、この10〜20年間に関して言えば、ビジネスモデル自体は必至に考えなくても、良い作品さえ乗せていけばそれなりに売れる。そのための流通パターンの「型」が、60〜70年代のテレビ普及期を支えた世代の方々の努力で完成の域に達していた。だから、「型」自体の変更をあまり考える必要がなかったという面もあるかなと思います。
もちろん、例えばAVEXさんのように、自らタレントと制作を抱え、レコード会社としてのレコードの売上だけに拘らることもあまりせず、自らリスクを採りながら、新たな、かつ、多様なビジネス展開を試みる事業者さんもいる。ですから、僕の言うコンテンツ制作側と流通メディア側の動向とが、そんなに整然と区別できるわけではありません。
しかし、極めて雑ぱくに言えば、今あるビジネスの「型」に、如何に自分の作品を流しこむかが、コンテンツ制作側が考えてきたことで、全体のビジネスモデル自身をプロデュースするところまで意識が届いているかというと、資金力も含めて、なかなかそこまで制作側からは手が出せていない、というのが実態ではないかと思うのです。
ここからが、難しい。。
日本の中にビジネス・プロデュースをやれるような候補人材がいないのかというと、いることはいる。でも、その多くは、テレビ、映画配給、レコードといった既存の流通メディアに関与しており、これらの利害関係に対して中立ではいられない。
じゃあ、流通側や別の新しい世界から、制作現場側に、ビジネス・プロデュースができるような人材を連れてくればいいじゃないか。そういう発想も確かにあると思います。しかし、それがなかなか、難しい。その構造変革に、市場ワイドで成功した数少ない事例が、実は70年代のハリウッドだったのではないかと思います。
大不況に陥った70年代、米国ハリウッド業界では、コンテンツビジネスの「パッケージ化」が起こりました。この点を解説した泊会長のご講演について、先日紹介させていただいたエントリでの引用をもう一度、引かせていただきます。
最近、日本のアニメも若干元気が無くなっている。そこで、私は、コンテンツ王国でありアニメ王国でもあるハリウッドから学ぼうと思っている。その一つは、映画の「パッケージ化」、「金融商品化」だ。
70年代までのハリウッドは、スタジオと呼ばれる大手映画会社が企画から資金まで全て自社で行っていた。しかし、ハリウッドでは、70年代の大不況を受け、80年代に入ると、エージェントと呼ばれる俳優、脚本家等の代理人達がスタジオの意向と関係なく、本当に面白い作品を実現するために、企画から資金まで、外部の人たちと作り上げる時代になった。
面白い作品が出来ればスタジオもそのプロジェクトに投資する。そこにスタジオ以外の投資家も参画する。こうして映画制作に世界中から巨額の制作費を集める仕組みが確立する。すなわち、映画は、パッケージ化され、金融商品になった。
日本の映画は、まだ、米国の70年代的状況に似ている。未だ、大手映画会社や大手テレビ局が企画から資金まで全て提供している。加えて、日本の作品は、日本人しか出演できないから、日本でしか回収が出来ず、外部の投資家にとって全く魅力がない。
しかし、アニメは違う。アニメの主人公は、日本人どころか、どこの国の人かもわからない。ドラゴンボールの場合、名前の悟空は中国名だ。髪の毛は金髪、西洋人だ。そして心は日本人だ。事実、世界中に販路を見いだし、世界中のテレビで放映されている。
アニメ産業は、30年先を行くハリウッドに学ぶことで、まだまだ活路を開ける。映画を川上に置く戦略にシフトすることで、可能性を更に開けるのではないかと思っている。日本のアニメは世界に浸透している。世界中の人が様々な形で協力してアニメを作る時代が、近い将来、来ると思っている。
まさに、日本のコンテンツ業界が、今、潜在的に必要としているのは、こうした変化ではないかと思うのです。
(3) 作り手の感性とやる気を引き出すビジネスマネジメント
実際、こうした発想は、僕が持ち出すまでもなく、既に色々な方々からうかがっています。「総合的なビジネスプロデュースと独自の制作資金供給で、コンテンツビジネスを大きく変えたい」、そういう思いをたくさんの方から伺いました。
なのに、どうしてこうした変化がなかなか起きないのでしょうか。
その理由の一つには、とても単純ですが、米国の70年代と違って、日本の地上波テレビが圧倒的に強いこと、レコード会社や映画会社も70年代のハリウッドほどひどいわけではないことがあげられます。むしろ、責任感を持って、コンテンツビジネス全体を守ろうとしてくれている。
しかし、それだけではない。一番大切なことは、やはり新参プロデューサーにはなかなか理解できない、どうしても大切な部分が、軽視されすぎている。ネットでコンテンツだなんだと叫ぶ人たちにも、なかなか理解してもらえない。
それが、傷つきやすいクリエーターの気持ちを如何に大切に、大きく育てていくか。そのための勘所みたいな部分です。
もちろん、そこをよく分かっている人達はいる。しかし、そのうちの多くの人は、さっきも触れたとおり、実はいずれかの既存の流通に紐付きになっている。それ以外のところで、なかなか、クリエーターの気持ちが分かる良いビジネス・プロデューサーが育たない。そんな印象を強くします。すぐ、ビジネスモデルだ、技術だと、現場がしらけるようなことばかりを前に出したがる。「伝える」と言うことに本当に必要何かが、欠落している。
個人的に、この面でいつも思い出すのは、コンテンツビジネスとは何か、ということについて議論していた際に、トイズファクトリーの稲葉社長に頂戴した、次のお言葉です。
(コンテンツ/ビジネスとは、)「本当に素晴らしいと思ったものを、手間暇かけてアーティストと向かい合って心を込めて出していくこと」
「自分が心を込めたり、美意識のあるもの、満足感のあるものを、たくさんの方に伝えること。それを、ビジネスにすること。」
こんな格好良い台詞を、僕自身はとても言えるような資格はありませんが、本当にそうなんだなと、当時教えていただいて思いました。例えば、僕のIT政策屋時代の知人の一人が、いつの間にか芸能プロダクションの役員さんになられていたので、話を伺ったのですが、その方も次のように強調されてました。
作り手はナイーブ。傷つきやすい存在。丁寧に丁寧に、土壌を掘り起こして、毎日毎日、水と栄養を少しづつあげて、大事に大事に育てていく。ちょっと農業みたいなところがある。
他人と同じでは、クリエイティブにはなれない。クリエーターには、クリエイティブだからこそ、人とずれているところがある。でも、そのクリエーターの気持ちを、上手く、市場を通じてみんなに見せるようにし向けていかなければ、利益にはならない。
自分が変わり者だということは当のクリエーター自身が一番よく分かっている。それでも、クリエーターが持っているものが、どんなに素晴らしい可能性を持っているものなのか、そのためにクリエーター自身が何を補うことが必要なのか、それをじっくり教えながら、前を向かせていかなくてはいけない。
この面での難しさというのは、気むずかしい農家のおじさんに、新しい流通と向き合わせるときにも、拘りの強い中小製造工場の熟練スキルを持った社長に新たな取引先と向かい合わせるのにも、少し似ているのかなと思います。
結局、コンテンツって何だろうって考えると、
「コンテンツ」(狭義)とは、「伝えたいもの」、「世界観」、「本当に素晴らしいと思ったもの」である。論理や言葉では平易に説明しがたい「伝えたいもの(世界観)」を、映像・音響技術などのコンテンツ技術と、それを駆使するクリエーターのスキルを通じて表現することで、相手に伝わる「コンテンツ」となる。
ということなんじゃないか。そういう意味では、一発勝負の芸術作品や、展示会用の試作品、場合によっては、これらの人が講演で語るメッセージや、場合によっては、普通の女子高生がtwitterしている内容も、素晴らしいコンテンツなんだと思います。 ただし、それだけでは、コンテンツ・ビジネスにはならない。
一過性のメッセージも「コンテンツ」には違いないが、ビジネスモデルの確立や技術の標準化などプラットフォーム化を経て、反復継続可能な形で「コンテンツ」を制作・流通させるビジネスとして成立したとき、「コンテンツ」の制作・流通ビジネスが「コンテンツ産業」となる。
このややこしいコンテンツを、気むずかしいクリエーターを相手にしながら、いかに反復継続可能な形で制作・流通できるビジネスとして成立させか、それが、コンテンツビジネス・プロデュースということなんだと思います。(固い報告書ですが、この辺整理してます。)
クリエーターを前に向かせて積極的に市場に働きかけさせることができる人と、それを新しい「反復継続可能な形」に持ち込むことができる人、この両者を持っている人が、今、極めて少ない。若しくは、特定の流通メディアの利害に、どうしても引っ張られざるを得ない立場にいる。それが、今のコンテンツビジネスの難しさの、ある種の根本的な課題になっているように思います。
余談ではありますが、正直、たった一年間でしたが、コンテンツ課長をしていて感じたことがありました。それは、コンテンツ業界で50歳を超えてなお、指導的立場にいらっしゃる方々の人間力というのは、本当に素晴らしいなということです。もちろんん、ビジネスマネジメントスキルとか、様々な人種の人達と幅広く付きあうコミュニケーション能力といったことだけ取り出して社長業のスキルを論じれば、製造業分野の大社長さんや財界お歴々の方が優れているのでしょう。でも、ある意味ナイーブなクリエーター達の持つ「作り手の個性」をしっかりとリードして、商業的に付加価値のあるモノに仕上げていく、その作業は、人間力が高くなければ、とても、リードしていくことはできない。その人間力の高さや人物力みたいなことが、大事だなと、強く思ったものです。
3.次のテーマへ
今回は、コンテンツビジネス・プロデュースという視点から、話を整理しました。ちょっと、これまで話の繰り替えしような論点ばかりで申し訳ありません。しかし、こうした構造問題は、実は、クリエィティブな農業の再生、中小企業の持つ優れたノウハウの国際市場への売り込み、生活をワクワクさせるようなサービス業の創造など、ソフトパワーを活かした産業作りに共通するテーマのような気がしています。それもあって、敢えて復習させていただきました。
いわば、コンテンツというのは、デザインされた「伝えたいモノ」。そういうコンテンツを持っている人に対して、いかに市場に目を向けさせ、ビジネスプロデュースをし、スマイルカーブ型への収益構造改革を乗り切っていくのか。素晴らしい農作物を作れる農家の人も、優れたものづくりノウハウを持つ中小工場の職人さんも、いずれも広い意味でのコンテンツクリエーター。グルメも、匠の技も、それぞれが、メッセージを持ったコンテンツなんだと思います。それを高付加価値無し上につなげていくために、このビジネスモデル問題をどう乗り切っていくのか、それがお題です。
そのためには、「作り手の個性」をしっかりと伝えていかねばならない。個性を上手に引き出すことに加え、それに感応する視聴者・ユーザーを捜し、その組み合わせ自体を大きく育てていかなければならない。その組み合わせ自体に新しさがあり、双方に感動を与えるインパクトがなければ、既存の流通と結局は差別化ができず、新たなコンテンツ毎、既存の流れにまた飲み込まれてしまいます。
これからは、優れた作り手と、際だつ使い手の双方をつなぐ、「チャンネル創造力」自体をあげていかないと、既存の流通メディアとの差別化が図れず、共倒れに終わる、ということになるんだと思います。それは、コンテンツビジネスそのものであっても、グルメであっても、匠の技であっても、同じことではないでしょうか。この辺から、次回につなげていこうかと思います。
最後に、参考まで、今回引用した報告書を整理しておきます。ご関心の分野に応じて、是非ご覧くださいませ。特に、最初の3報告書については、データの宝庫になっているかと思います。ご活用くださいませ。
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音楽分野 : 音楽産業のビジネスモデル研究会報告書
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アニメ分野 : Neoアニメ産業のビジネスモデル研究会報告書
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映画分野 : 映画ビジネスモデル研究会報告書
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映像コンテンツ全般 : 映像・コンテンツビジネスモデル研究会報告書