あけましておめでとうございます。年初、江島健太郎さん(以下、エジケンさん、でお許しください)のエントリを読ませていだいて、何となく、かつてのニュー・サイエンスに浸っていた時代を懐かしく思い出しました。そこで、いきなり胡散臭い感じで、なんですが、アーサー・ケストラーのことを少し書いてみようかなと思います。
元々自分は、勉強しない経済学部生からスタートして、ニューサイエンスに染まってから本とコンピュータに本格的に親しむようになり、社会システム屋だか社会哲学屋だかよくわからないような勉強をしながらグレゴリー・ベイトソンで卒論を書く、という妙な大学時代を送っていました。ですから、こういう話をしていると、何やら先祖帰りをしたような気分です。
というわけで、年明け早々、少々脱線を。
1.ネオフェリア
エジケンさんが話題にしておられた「ネオフェリア」は、進化論的のものの見方を肯定的に捉えた上で、「ネオフェリック(=新しい物好き)」な人の特性が、「ネオフォビック(=新しいもの嫌い)」な他の動物とのその後のパスを分けたという、 ライアル・ワトソンの有名な主張の一つ。とても乱暴にまとめれば、新しい物好きで移ろいやすい人の「性(さが)」自体が、人間社会の成長の原動力でもあり、永遠に脱却できない「業(ごう)」の源でもある、みたいな世界ですね。エジケンさんはもっと正確に書いておられますが、この方のまとめた要約(?)も、読みやすいと思いました。
「ネオフェリア」って、おそらく、生物学的には根拠を与えにくいんだと思いますが、観察の視点としては、非常に面白いなあと感じています。こうした見方の伝統は、生物学よりも、むしろ言語学や社会思想の方に根強く残っているのでは、と思うのですが、その一端を、この方がご紹介されてました。確かに、「パンツを脱いだサル」とか読んだなあと懐かしく思い出しました。Wikipediaの栗本先生に対する解説の一部をそのまま引用しますと、
日常的時空間における生産的な経済活動は、逆説的であるが、非日常的時空間における破壊的な(経済)活動の準備としてなされる、ある意味極めて不合理なものであり、その背後にタブーを犯すことによって生じる快感と、それを支える生命的なエネルギーがあり、しかもそれが経済活動のみならず、人間の道徳、習俗、意識さえも規制しているという「過剰-蕩尽理論」を主張した
まあ、ニューアカ・ブームもあったんだと思います。今にしてみると、ちょっとアナクロな感じが無くもありませんが、確かに、竹田青嗣さんの欲望の現象学とか岸田秀さんなんかも、同様に近かったのかもしれません。最近は、どちらかというと人間行動学的な分析を基礎とした行動経済学みたいな分析の方が主流ですから(この辺が良い入門書でしょうか)、こういうのはあまり流行らないのかもしれませんが、懐かしく思い出しました。
さて、エジケンさんご自身は、年初ということもあってか、「ネオフェリア」ということを非常に前向きに整理をされておられるように感じました。まずは、松下幸之助さんの「産業人の使命は貧乏の克服である」という言葉を引用された上で、幸之助さん当時とは、時代も社会も変わった現在について、
使命として強く感じられるほどの欠乏は日本のような先進国には存在していない。だから、何を為すにせよ、現代の事業というものは、「貧乏の克服」というような大義にとっては本来なら必要でないことを、さも必要であるかのように見せかけ、なかった需要を無理にでも作り出すという側面がつきまとう。そんなことに自覚さえない一部の起業家たちが、とてもうすっぺらな存在に見えた。穴を掘り、その穴を埋めてもGDPさえ増えればいい、という論理で動く政府の公共事業をそんなに笑ってもいられない。
政府の公共事業・・・(苦笑)、とりあえずおいておいて、その上で、でも、
このネオフィリアという言葉に出会ってから、そんな一見愚かな人間の営みは生物学的にインプリメントされていることであって、理性や努力によって克服できるものではなく、その本能に逆らっても仕方がないという、割り切った考え方ができるようになってきた
と表現され、
たゆまぬ競争とイノベーション、そしてバブルの生成と崩壊をベースにした資本主義は、そうしたネオフィリックなヒトの性質と相性がいいということも、より実感をともなって理解できるようになってきた。
というようにまとめておられます。ここまでの理解については、僕は全く同意です。
しかし、自分の立場からすると、でも、このままで良いのか?という問題意識を、敢えて付け加えてみたい衝動に駆られます。そこで、大変失礼ながら、次のようなコメントをお送りしました。
このエントリ、何となく、今の悩みと重なるところを感じたので、誠に勝手ながら「貧乏の克服」という切り口から、別の視点で一言。 個人的にですが、産業革命以降、「貧乏の克服」という大義名分の下、人間が労働手段として資本に所有される構図が、正当化されてきた面があるのではと思っています。
しかし、近年、食うに困るような「貧乏」自体が話題になるくらいに稀少化しつつある中(無論ゼロになったわけではありませんが)、「個人(?)」という立場から社会に対して、この「構図」自体への見直し要求が起きている、という見方に立ってみるとどうでしょうか?
でも、要求を突きつけられた社会の方は、労働という手段を相対化してしまってこれだけの数の人を養っていける自信もまだないし、人口減少と人口ピラミッドの構造変化という生物学的現象も進行しつつある中、一体どっちを向けばいいか、わからなくなり始めている。国内外の政治的な政治動向を見ていて感じることです。 環境という名の下に起きている様々な現象にも思うことですが、「ポピュリズムの悪弊浸透」というネガティブに見える側面と、「人としてのまっとうな生活(?)の回復」というポジティブに捉えるべき側面の二つの流れが、産業社会がもたらした歪みに対して、今、同時に起こりつつあるのではないでしょうか。
いずれにせよ、成長戦略とか、グローバリズムとか、そういうことだけではなく、今の産業資本主義的若しくは金融資本主義的流れ自体を相対化するような、もっと大きな流れから社会を見つめ直さないと、大切なことは何一つ分からないような気がしますね。まさに政策科学が立脚すべき「前提」そのものが問われているような気がします。
「成長戦略」という型どおりの見方自体にフラストレーションを感じることが多い今日この頃、どうやら、僕の方は、まだエジケンさんほど、「スッキリ」きていないようであります。(苦笑)
2.ホロン (常に、「全体」でもあり、「部分」でもある ということ)
ネオフェリアの方は、大脳生理学の進歩がその根拠を生物学的に与えてもらえる日も近いのかもしれませんが(?)、それより更に科学的根拠には乏しい話として、「ホロン革命」という本があります。
目次だけでも相当雰囲気が分かりますので、こちらの出版社のページをご参照ください。アーサー・ケストラーという人自身は、学者というより、大変ラディカルなジャーナリストで、最後は薬物投与による人類制御まで言い出す、相当危険な終わり方をされる方です。
しかし、彼が提唱した「ホロン」という概念自体は、色々な物事を整理する上で、とても便利な概念だなあ、と思っています。僕自身は、ホロンという見方は、こんな感じで見ています。
- 自分(若しくは「個人」)という一つの有機体は、常に様々な細胞から構成された自分というシステムの「全体」でもあると同時に、日本社会というシステムに対する「部分」でもある。
- 同様に、自分を構成する細胞も、細胞というシステムの「全体」であると同時に、自分というシステムに対する「部分」でもある。
- 同様に、日本社会も、日本というシステムの「全体」であると同時に、国際社会というシステムに対する「部分」である。
・・・=>「細胞」=>「自分」=>「日本社会」=>・・・
有機体は、このように、どのレベルで取り出してみても、自分自身に対する「全体性」と、より高次のシステムに対する「部分性」の両方を兼ね備えている。
有機体のそういう特質を捉えて、細胞も、自分も、日本社会も、ある意味「ホロン(=ギリシャ語のholos(全体)に部分を示すonをつけた、「全体・部分」みたいな意味の造語)」と呼ぼう。そういう見方から全体を見つめ直してみようと。
全てのホロンは、「全体」として、自己主張性を発揮する側面と、「部分」として統合性(全体への調和・自己超越)を志向する側面の両面を持つ。どれかのレベルのホロンが、このバランスを崩して暴走を始めると、全体の秩序が崩壊する。という感じの使い方です。例えば、
- 細胞が統合性を喪失して自己主張性だけを発揮すると、ガン細胞の増殖のような事態が発生します。
- 一部の人が暴走・暴徒化して、収集の付け方が見つからなくなると、例えば、学生運動のような不幸な結末を迎える暴走になります。
- 逆に、トップダウンで統合性を強く発揮すれば、かつて共産主義が結果として志向したような計画主義経済になるんでしょうし、
- 市場原理主義的に金融ゲームを放任しボトムアップな全体秩序の形成だけに任せると、金融システムの暴走からリーマンショックのような事態も発生するんでしょう。
要は、バランス、といってしまえばそれまでですが、どこかの階層レベルの現象だけに縛られずに、複眼的に全体を見よう、といのが、この主張のエッセンスかなと思っています。もう少し用語に正確な要約は、ネットをちょっと見るだけでも、色々な方がされていますので、例えば、こちらやこちらなどご参照ください。
また、この議論に、「ゾウの時間・ネズミの時間」のイメージを強引に重ね合わせて読むのは、僕特有の変な見方かもしれませんが、細胞=>自分=>日本社会という階層を上がるに連れて、時間感覚も変わっていくという実感を持っています。例えば、比喩として次のような乱暴かつ極端な整理を許していただければ、
- 細胞=>自分 : 人を構成する細胞は、滅茶苦茶大雑把に括ると、多くが2〜3か月で入れ替わってしまいます(脳細胞等変わらない細胞も有りますが・・・)。物体的には、細胞という「部分」は、2〜3か月で世代交代してしまっているが、自分という秩序「全体」は、更に長いスパンで、数十年続く。遺伝子という媒体が自分という秩序を次の世代の細胞へと紡いでいく。
- 自分=>日本社会 : 日本社会の主力世代を構成する人間という「部分」は、これまた20〜30年周期で入れ替わってしまうが、日本社会の秩序「全体」は、更に長いスパンで数十年周期で続く。言語という媒体が社会という秩序を次の世代の自分たちへと紡いでいく。
別に、細胞=>自分=>社会という一つの切り口だけにこだわることなく、金融市場というシステムと貨幣という媒体の関係から見ても良いし、地域社会の伝統というシステムと方言や風土記という媒体の関係から見ても良いし、それこそ、どれか一つの見方だけに還元する必要はないと思います。
そういうと、だんだん話が混乱するだけかもしれませんが、ただ、こうした「全体性」と「部分性」の両性を兼ね備えたホロンの生成・発展プロセスとして、各システムを支える、言語、貨幣などの媒体に注目しながら、細胞、自分、社会などを見つめ直していくという作業自体は、なるほど便利だなあと思うことがままありました。
まあ、科学的には、「だから??」という感じの主張ですし、一歩間違えれば、色々な人を相対主義の陥穽に陥れていくだけなので、大騒ぎも禁物だと思いますが、他方で、エジケンさんのエントリにコメントしたとおり、個人的に、今、資本市場と労働市場の分離と調和を前提とした、これまでの経済学的な市場観が、一つ限界に来ているような気がしているため、こうした見方を、今の市場構造に対する既存の見方を変えるためのヒントとして持ち込むこと自体には、意味があるような気がしてます。
3.資本市場と労働市場
では、資本と労働、やや意図的に言い換えれば、企業生活という切り口と、個人としての社会生活という切り口は、どう重ね合わせてみればいいのでしょうか。実際には、サラリーマンや職業人としての生活と、プライベートの生活とが綺麗に一致しない。そんな悩みを多くの人がかかえているのではないでしょうか(職人さんや、自営業の方は、ある意味、良い悪いは別にして整合しているかもしれませんが)。
さて、実質どちらの切り口の方が、より上位概念だったかといえば、高度成長期の猛烈社員の時代は、おそらく企業生活(資本が労働を所有する)という切り口の方が、実質的に「全体」を構成していて、プライベートな生活は、その「部分」としての要素を強く持っていたのではないかと思います。
そこには、資本が生産手段としての労働力を所有し、そのかわり、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」的な企業倫理、若しくは、松下幸之助的な「産業人の使命は貧乏の克服である」的な倫理観が作用するという近代以来の構図が、連綿と生き残っているような気がします。
僕自身、マルクス経済学者なわけでも何でもありませんが(どちらかというと、好きなのはハイエクです・・・)、こうした構図のあざとさは、何となく、マクロ経済学による、財市場、貨幣市場、労働市場のそれぞれが独自に均衡し、かつ、それらの関係が調和する均衡点を持つという理論の流れの中で、うまく蓋をされてきた(若しくは、「蓋」をすることに成功してきた)ような感じを持っています。
実際には、この調和を演出するに当たっては、ケインズとハイエクの対比・論争に見られるように(両者の、意外と一致する側面を強調するため、やや情緒的になっている嫌いがありますが、この本も好きな本です)、失業率やインフレ率をインディケーターにしながら、政府・政策も、積極的に市場を補うことが、全体の議論の前提になっているんだろうと思います。
しかし、実際は、最近どうも、こうした労働市場・金融市場・財市場の三者のバランスを短期的に取ろうと努力すればするほど、長期的にどういう絵姿を社会として目指すのかという要請と調和しなくなってきているような気がする。短期の調整に走ればビジョンレスになるし、長期のビジョンを語れば短期の調整と齟齬するような結果を招く。「蓋」にもほころびが出はじめてきた。そんな感じが漠然としています。
おそらく、産業資本主義社会とでもいうべき、資本の論理を前提として、人々の生活の有り様を決める従来の社会システムに対して、資本を支える機関投資家や金融の力という第三勢力が大きく首をもたげたことによってできた隙間の間から、貧乏から脱出し始めた個人やプライベートからの反抗が起こり始めているような気がするのですが、どんなもんでしょうか。また、そういう横の連携を、ネットが強力に支えているようにも感じるのですが。
これはこれでまた、ある種の葛藤を通じた「進化」だと思うので、肯定的に捉えるべきだと思いますが、その「進化」の主役が企業なのか、個人なのか、社会システムを、どのような視点に立脚して見ると、次のビジョンが見えるのか、公私通じて、今、最も個人的にホットな話題に感じています。
逆に言えば、そこで企業が「従」たる存在になる可能性があるのだとすれば、エジケンさんの悩みは、再び深まってしまいますよね。まあ、当面、そんなことはななさそうですが。全体は、どの辺の均衡をめがけて動いているのでしょうか。
* * *
まさに、今切り出すと有効なホロンは、どの角度に存在するのか。そういう視点から、このお正月も、「10万年の世界経済史」等の本を楽しく読んでいるところです。
別に結論があるわけでは全くないので、大変恐縮ですが、そんな思考を改めて喚起してくれるエジケンさんのエントリが年初早々あったので、僕自身は、それにちょっと悪のりして書いてみました。年初早々、込み入った長いエントリですいません。。