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CoFestaとケン・オクヤマさんの話 〜 前編

2009/10/26 03:50
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 ケン・オクヤマさんの話を伺う機会がありました。CoFesta(コ・フェスタ)私塾という小さなオリジナル企画があり、そこでご一緒させていただいたのですが、これがとても面白かった。

 ブログで全てをご紹介することもままなりませんが、自分の感想も含めて、引用として許される程度に、幾つかのポイントをご紹介させていただければと思います。なお、奥山さんのオフィシャルサイトは、こちらです。

 

1.「モノ」に力を

 

(1) 今、車より新幹線の方がカッコいい

 このブログでも話題にしてきましたが、大量生産・大量消費による右肩上がり経済は、終わりつつある。価値創造のトップランナーを担うような「三種の神器」は、もう出てこない。そう腹をくくらなければいけない時代になりつつあるのではないか。そういう感じがしています。今後は、少量生産でも、直接ユーザにアピールし、高い付加価値を得ていく。そういう方向性が必要になるのではないでしょうか。少量生産・直接勝負の時代。そこで、奥山さんのこのご指摘です。

 

「子供にとって、今、車よりも、新幹線の方がカッコいい」

 

 奥山さんは色々なことを理解するキーワードとして、この台詞を使っておられました。とても共感します。

 敢えて個人的に注釈を加えますが、これは、聴講生にわかりやすく伝えるための、意図的なデ・フォルメの面があるので、正直に受け止め過ぎないでください。世界超一流のデザイナーである奥山さんだからこそ、言い出すことが許される表現です。

 何を隠そう、僕自身も、典型的なスーパーカーブームの中、車に憧れて育った世代です。小学生の時に国立科学技術博物館でみたフェラーリとランボルギーニが忘れられず、ミウラとディーノの綺麗な車体にも憧れました。80年代には、NAVIがはじめた車社会論にはまり、「段付き」をはじめとする年代別アルファの顔を必至で覚えた、「そこそこの車好き」です。決して、車をネガティブには考えていません。ですが、

 

今や、子供達は新幹線を追う。

 

 そのことを直視する必要がある。何故でしょうか。

 

(2) カッコ良さには理由がある

 奥山さんは、カッコよさに最も敏感なのは、子供達ではないか。子供達こそ、その素直な感性を持って、本質的なカッコ良さを見抜くのではないか。そう指摘されていました。また、そのカッコよさは、意味や理由があるとも。

 例えば、最近、テッチャンがブームです。子供達は、新幹線に流れがちです。彼らにとっては、車より新幹線の方がカッコいい。新幹線は速く走る。速く走る意味がある。デザインも、その意味に裏打ちされています。

 誠に残念ながら、渋滞にまみれる車に、空力性能を強調すべき合理性は、あまりありません。しかし、300km近いスピードで走る新幹線の先頭形状には、その意味がある。

 ややオタクな話題で恐縮ですが、最近の新幹線のカモノハシのように長い先頭は、「トンネル微気圧波対策」という、300km近いスピードでトンネルに入ったときの衝撃波対策のため特別な形状をしています。しかも、内外の圧力の変化によってトンネル前後で3cm〜6cm近くも変わる胴体周りの変化率が、5cm幅毎に同じになるよう設計し、ぎりぎりまで空気の流れを良くしている。スピード対策から騒音対策まで、万全を期すためです。 しかも、このN700系では、「トンネル微気圧波」対策を最初に本格的に導入した500系という型から、乗員を増やすために少しでも短い先頭形状で同等の効果を得ようとし、ギリギリまで検討された形です。

 

  では、車はどうでしょうか。

 思えば、国産メーカーがこぞって280PSまでで「自主的」にエンジン出力をとどめていた頃が華だったのかもしれません。その後、事実上、そうした慣習もなくなり、300馬力前後は、高級グレードの車ならほとんどの車が出せるようになりました。最高速度も200kmを軽く超えるモノが多く、法定速度を遙かに上回るスピードで走っても、安定感はばっちり。

 しかし、今や、アウトバーンも無い日本で、そんなに高性能でどうするの?日本のどこを探しても、サーキット以外、そんな高出力が必要とされるところはありません。むしろ、スピードカーが東京の渋滞にまみれているのは、カッコ悪い。スーパーパワーの車をオープンにして、六本木の渋滞にまみれ、ほんの一瞬、道がすいた隙を狙ってゴゴゴゴゴと加速する。場合にも夜と思いますが、あまりセンス良くは見えません。

 今や、時代はプリウス。車がスピードや出力で高性能を競う時代は、終わってしまった。R32型スカイラインがGT-Rを復活させ、直列6気筒のツインターボで280PSギリギリに押さえていた頃が、出力競争が美しく見えたピーク。今となっては、渋滞していてスマートに走れ、CO2もあまり出さないハイブリッドの方が人気。残る課題は、老人の歩行者にも優しくなるよう、音をつけること? 

 

  おそらく、子供達の感性が、こういうことに一番敏感です。スーパーカーがブームだった時代。それは、思い起こせば、100kmで走ると安定性に不安が出てくる車が普通に残っていた時代でした。そもそも、車というのは、素人が恐ろしいスピードで操縦することができる、本来的には危険な乗り物です。だからこそ、憧れもあり、技術進歩の意味もあった。

 しかし、今の交通システムが前提では、その「進歩」を巡る議論ももう、ぼちぼち限界まで来ている。子供達にとって、速く走れる車というのは、魅力ある対象では無くなりつつある。そういうことなのではないでしょうか。

 

(3) ユーザは「エンド」ではなく、「起点」 

 端的に言えば、子供にカッコいいと思わせるようなモノ。それが、本当のモノの「力」だと思います。そして、その力こそ、少量生産・直接勝負の時代を勝ち抜くために必要なもの。

 さすがに、個人で新幹線は買えませんが・・・(苦笑)、他のわかりやすそうな例を出しますと、

 時計好きが、まずはタグ・ホイヤーのやや複雑なクロノグラフから入り、ブライトリング当たり(若しくは、ロレックスなどのゴージャス路線)を経て、自分の好きなブランド探しにはまる。これも、機能やそれを必要とする生活に対する憧れから、徐々に自分のスタイルを見つけていくというパスだと思います。時計というモノの側でも、そのユーザの生活の嗜好の中に入り込むような、独自の「力」を持つ。

 同じことは、例えば、靴に目覚めたお兄さんにも言えると思います。まずは、エドワード・グリーンやジョン・ロブの型あたりを必至に覚え、そこから徐々に、自分の足に合う靴を長く大切に使う合理性を知る。そこから少しづつ知っているブランドの数を増やし、最後は、自分の足の型と嗜好性にあった好みのブランドにたどり着く。気がついたときには、安売り大量販売の靴には、帰れなくなっている。

 ちなみに、今や日本の靴も、ブランド好きを唸らせる作品が少しづつ出てきています。それこそが、ものとしての「力」。

 

 「男の子」の場合、こういうカッコよさが基点になりますが、女性の台所用品に対するセンスの磨き方、もとよりファッションなどにも、基点となる価値観があるんだろうと思います。良いものづくりには、良いものがたりがついてくる。

 ロイヤルコペンハーゲン、ル・クルーゼ、・・・台所用品に疎い僕ですら、上げ出せばまだあと10個くらい(なら)あげられそうです。

 例えば、奥山さんの山形工房が生み出した鉄瓶もまた、数々の合理性と美しさに裏打ちされた生活に対する価値観がある。だからこそ、ユーザーに訴求するんでしょう。例えばクマというモデルの場合、こちらのページトップにあるようなアピールを自らされていますし、マユというモデルの場合は、こちらのような評価もネットで頻繁に見受けます。ご関心の向きは、「フェラーリと鉄瓶」という奥山さんご自身がかかれた本も、良い参考になるのではないかと思います。

 

 モノに力を与えるのは、ユーザの生活力だとおもいます。他人から憧れられるような生活をする。その中にぴたっとはまるモノだからこそ、そのモノにも力が与えられる。無論、ブランド製品だという記号性だけが消費されるケースもあるでしょう。でも、その場合でも、そのブランド製品を作り出してくる草創期のユーザには、人から憧れられるような生活力がある。

 本当は、高度成長期だって、生活へのあこがれという論理自身は同じだったんだと思います。みんなが憧れる次のステップの生活に必要だからこそ、必至になって三種の神器を買おうとする。ただし、そこにある生活は、画一的な成長神話の裏返し。三種の神器が、生活に利便性を与え、人を個人として解放してくれる、そういう生活です。当然、今の日本では、ユーザが求める生活感も時代も、こうした高度成長期モデルにはありません。求める生活自体が変わってしまった。それが、「三種の神器」という言葉のセンスが、今ださく響く理由だと思います。

 

 奥山さんが、エンド・ユーザーという言葉が嫌いだと盛んに仰っていました。同感です。ユーザは「エンド」ではなく、「起点」。ユーザの生活に力がなければ、モノにも力は生まれません。生活に力のないこと。若しくは、力のある生活がものづくりの現場と直結できていないこと。それが、既に少量生産・直接消費にトライし始めている地域の優れた中小メーカーの「ものづくり」に、なかなか「力」が与えられない理由だとも思います。

 大量生産・大量消費は、生活の不可欠素材・基盤(essenntial facilities and products)として、無くなることはないと思います。しかし、それだけでは、経済には元気が出ない。世界から憧れ、うらやましがられるような生活力を付ける。その生活力を、ものづくり力にダイレクトにリンクさせる。それが、日本経済が世界経済の中で勝ち抜いていくための、実は秘訣でもあろうと思います。

 

2.モノに力を、生活にビートを

 

(1) 作るのに3年、売るのに3年 : 流通の革新

 今や、イノベーションという言葉に甘えて、理由無き研究開発に明け暮れていても、新たな競争力は生まれません。「次世代」の技術だけが何かを生む時代は終わっています。圧倒的な技術を介して生活を変えることができる。それなら話はまた別です。でも、そういう技術シーズも今のところ見あたらない。

 このブログが最初にテーマにしたiPodもそう。性能・品質の技術力でWaklmanに勝ったわけではない。iPodのある生活が、Walkmanを使う生活に勝った。そう説明することもできます(最近では、Walkmanも頑張ってますけど)。

 

 問題は、日本人の生活力の向上がおぼつかないこと。生活力の高い人達の生活と、付加価値の高いものづくりの現場とが、流通を介してなかなか結びついてくれないことです。

 奥山さんが山形工房の経験をこう話しておられました。最初3年は、まずはものづくりに徹した。そして、次の3年は、販売に徹した。でも、販売体制の確立が納得行くほど盛り上がっていかないうちに、現場が補助金体質に慣れきってしまったので、一度、けじめをつけざるを得なくなった。

 中小企業政策に責任を持つ経済産業省の一員としても、とても重く受け止めなければならないご指摘でした。

 

 大量生産・大量消費のための流通は、相当の切削琢磨を経て完成の域に近づいているように思います。商店街に対してデパートの世界が複層的に広がり、次に両者がスーパーの世界に押される。更に、スーパーも、生鮮食料品の世界を除くとコンビニに押される。それに対して、専門的なスーパー群を核としたショッピングモールが盛り上がる(除く都心部)。

 ここには、大量生産・大量消費の中で、如何にモノを合理的かつ的確に届けるかという思想が満ち溢れています。最近、買い出しの必要性に迫られて、コストコに行きましたが、なんかアメリカ的大衆消費文化の終着点に来ているように感じました。

 

 こうした大規模で効率的な流通は、それはそれで大事だと思いますが、でも、ここには、モノを魅せる力が足りません。そういう販売の現場が、悪く言えば凡庸な生活そのものを表象してしまっているからだと思います。だからこそ、無くなりはしないけれども、時代を切り開くものづくりの販路には、たぶん、なれない。

 例えば、陶器のような歴史ある嗜好品にまでなれば、九段下の花田さんや、表参道の大文字さんを始め、ここに行けば、こういうものがある、そういう評価の確立した僕らでもアクセスできる店舗があります。が、なかなかこういう流通って、一朝一夕作れない。

 

 生活から力を得るという意味では、やはり広い意味での「地産地消」が大事になってくる。そうも思います。地元の生活に密着すること。そこで食され、使われるモノの良さに、拘ること。それが大切なのは、このアプローチが一番、生活力をモノに結びつけやすいからでもあると思います。

 僕自身も、そういう地物の大切さを、ITの力で地域以外でも実感して貰おう、流通の仕組みを変えてみようと、「にっぽんe物産市」という実証プロジェクトを始めました。しかし、採算の立つ、地産地消のネットワーク作りには、本当に苦労しています。

 大地の藤田社長はじめ、この分野の先駆者にも色々と教えていただきましたが、本当に難しい、そう思いました。

 

(2) 生活にビートを : 生活の革新

 これまで触れてきた流通の革新が第一の課題だとすれば、次に触れたい第二の課題が、生活の革新です。

 申し上げたいことの多くは、前回の「無印ニッポン」の中に書いてしまったので、重複するようなことはここにはあまり書きませんが、とにかく課題は、「元気のない生活」から、如何に脱却するか、「生活の24時間化」をいかに食い止めるかだと思います。

 

 自分のブログの引用で恐縮ですが、前回、「生活の24時間化」と題して、こういう表現をさせていただきました。

原則論的には、僕は決して、忙しいこと自体が別に悪い訳じゃないと思います。でも、今や、その質や程度を問題にしないと、まずい。たぶん、休暇を増やせ、といった問題じゃない。「やりたいこと」が他にあるから、仕事が忙しくても、その仕事を放り出しでても、そっちをやる。そういう活力源みたいな動きを大切にしてあげないと、生活も、論壇も、批評する能力も、生活の楽しさも、みんな窒息してしまう。最近、そんな、危うさを感じます。

 今、組織も生活も、みんな「手続化」しているような気がします。この仕事をしたい、こういうことをしたい、そういう目的があって強いられている忙しさではない。

  •  業務命令で下された仕事を実施するために、社内規定に基づく手続きを実行する。予算要求の時期が来たから予算要求のことを考え、企画の部門に来たから企画の内容を考える。

  •  子供を育てるために、保育所のスケジュールがこうなっているから、自分の生活をこう段取りする。仕事との両立中で、こうするしかないから、こういう時間の使い方をする。

  •  だんだんと決められた段取りに業務や生活が追いつめられていって、息苦しくなっていく。

 そんな感じなっているとは言えないでしょうか?

 

 仕事も生活も、理想は、自分で「作る」ことです。他方、現実には、今や産官学の様々な現場で、周囲の環境に個人の業務が押されまくって、仕事が「手続き」化し、生きた感覚を失っているような気がします。

 今、僕らに必要なのは、躍動感、リズム感ではないでしょうか。周りから与えられたリズムだけに従って仕事や生活をこなすのではない。自ら生み出すリズムを、周りのリズムにとけ込ませ、時に周りにリズムを生み出していく、その躍動感。そのリズムの影響の範囲は、大きくても小さくても良い。でも、某か働きかけていると思える。その実感こそが、生きている意味づけと幸福感にも直結していくのではないでしょうか。

 今の日本の、この躍動感とリズム感のない社会生活を変えていかないと、みんな窒息死してしまう。Shall We Danceでダンスを始めてしまうような独自のリズムを、クドカンの世界が魅せるような独自のリズム感に染まった生活、そういう独自のビートを、弾み方を生活に取り戻していくことが必要なんだと思います。

 僕の周りを見ていても思いますが、今、このリズム感の欠如と、周囲から押しつけられる手続き感に辟易として、元気を失いつつある「大人」が沢山いるように思います。これは、個々人の人生の問題というより、もはや社会問題ではないか。

 芸能界の世界のような隔絶された世界でのハレも重要ですが、加えて、もっと身近なところに文化とお祭りが必要だ。ハレとケの回復。生きたリズム感で、個人の力を押し流そうとする「手続き」パワーを吹き飛ばす。そんな元気を日本が取り戻すことが必要だと思います。

 おそらく必要なのは、社会経済の大きな環境の変化と、文化力。経済合理性に楯突いて、新たな次元の経済合理性を生み出すようなソフトパワー。そんなことになっていくような気がしますが、この辺の話について、後編、触れてみたいと思います。

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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