政権交代が、無事(?)、実現しましたが、いかがでしょうか。政権交代から一週間がたった、この週末の報道ぶりなどを見ていると、何となく当面の話題が多く、若しくは、民主新人のキャラ探しや、落選議員の悲哀のような人情ものが目立つ。せっかく、民主党が国家戦略局を作ると言っているのに、少し寂しい気がします。
先日も、ニューズウイークに、ビジョン無き国家にアジアの大国でいる資格があるのかと、酷評されてましたが、国内から、そういう議論を吹き飛ばすような活発な議論が出ると良いですね。現役行政官としては、特に、当面の施策も大事になりますし、日々、大変なことも増えると思いますけど、せっかく政権交代までしたんだから、もっと大きな国家ビジョンや、国家的な課題について、議論ができたらいいと思います。
そんな視野に合致するかどうか、ちょっと自信がありませんが、実は先日、「無印ニッポン」という本を読んでいて、いろいろ考えさせられました。今回は、それを簡単にご紹介しながら、「ニッポンが便利になったら、ニッポンに元気が無くなった。」、そんな感じのお話を。
1. 生活に元気がない
(1) ワシントンの日本ブーム
実は、ワシントンで今、ちょっとした、俄か日本ブームなんだそうです。先ほど触れたニューズウイークの「沈みゆく日本」は、日本語版でも販売されていましたから、目にとまりましたが、こんな記事は連日ですし、こんなサイトも流行ってるみたいです。関連のセミナー等でも、日本モノは、ここのところ大盛況なんだとか。
確かに日本でも、週末のテレビは盛り上がってますが、こちらも議論が深まりそうになるとコマーシャルになっちゃうし。本当に追求したい問題意識があって盛り上がろうとしているのか、そこにそういう番組枠や紙面があるから、流れに合わせてやっているのか。よく分からないような気もします。(もっとも、一部芸能人の方のコメントが、一番批評性に優れているという説もありますが。。)
こうした日米での議論の質の違いも寂しいですし、何より、話題を見つけると、しっかりと盛り上がり、某か議論を深めようとしている米国の論壇の盛り上がりが、何となくうらやましいですね。
個人的な思いこみが強いのかもしれませんが、何となく、今、日本は盛り上がりかけているような気がします。小泉劇場やってたときの方が、まだ、なんか元気だったような。社会的な側面から何を話題にしても、何となくリアリティが感じられず、盛り上がりに欠ける。ビジョナリーな人たちの活発な議論のぶつかり合い、みたいな部分が足りない。なあんとなく、みんな現状をぼやいてるんだけど、結局批判に終始することが多い。これに取り組むべきだとか、こっちこそ進めるべきだという議論が出てこない。とても、大人しい。
もちろん、日本社会の仕組みとか、政権担当者とか、政策とか、そういうことも関係しているんでしょうが、そもそも、民主党だろうが、自民党だろうが、世の中ということ自体に関心が希薄になり、なんとなく暮らしていることに満足している日本人像。そういう問題が、別途あるような気がしてなりません。
(2)退屈なニッポン
強いて言えば、政権交代がどうなるかよりも、イチローが米国通算2000本安打に届くかどうかや、石川遼さんがツアーで今週こそは優勝するのかってことの方が(しましたねえ〜、今週は・・・)、何か、全然刺激を与えてくれる。自民党が大敗するより、サッカーの日本代表が、後半戦0−3でまくられちゃう方が、よっぽどショック。拳に力が入る。行政にしても、難しい政策の当否を議論するより、天下りをネタに、マンガの悪役になりそうなキャラを探していた方が、よほど数字が取れる。
いったいどんな風に議論を起こしていけば、みんな熱くなってくれるんだろうか。身近に感じられるのはスポーツネタみたいな話ばかり。こんな退屈なニッポンに誰がした、って、自分もその責任者の一人なんだと思いますが、そんな現状を、もう少しニュートラルに、淡々と話題にしている本がありました。
堤清二さんと三浦展さんが対談しておられる「無印ニッポン」。
押し流されるような日常の忙しさと、退屈さ。総合経済対策や産業競争力といった言葉が、どことなく現実感無く響く一方で、活力や元気のなさ、明るさの不足については、漠然たる不満がある。ニッポンの成長戦略のためには、個々の技術革新やベンチャー振興といった典型的な産業戦略だけではなく、もっと生活自体に元気を与えるような、それによって消費の質自体に競争力を持たせるような、そんな発想がいるのではないか。
そう漠然と感じていた自分には、部分・部分ではありますが、共感を覚えることの多い本でした。そのあたりを、簡単にご紹介させていただければ。
2.ファスト社会化が進む
(1) 社会の平等化の終着点
「社会の平等化が進むと消費が拡大する。それ以上に、消費が拡大することで平等化が進む。」
この原理は、折に触れ紹介してきたボードリヤールを始め(例えば、このエントリの後段)、様々な消費社会論者が指摘してきたところです。だけど、この仕組み、そろそろ限界に来たのではないでしょうか。(ボードリヤール自身も、消費社会が「差異」の内在化を原動力としていることを理由に、いつか社会が腐っていくことを予言していたようです。(松岡正剛さんの解説))
「みんなが持っている」。小学生が親を口説こうとするときに、よく使う台詞ですが、これって、実は、そのまんま、親世代が自分を納得させるときにも使っている理屈だと思います。でも、だんだん、「みんなが持ってるもの」で、「自分が持っていないもの」が、なくなってきた。子供時代ですら、どうしても欲しいものが無くなってしまった。むしろ、実家を出るときに多少の不便さを感じるけど、でも、車も、テレビも、オーディオセットも、別になくても困らない。平等化しすぎて、欲しいものが無くなってしまった。。
個人的な趣味趣向が強い人なら、欲しいモノや時間って、いつまでも無くなりませんが、そういうもの無く成人してしまうと、あとは仕事に振り回されて忙しくなるだけ。欲しいモノ、別にない。最近は、車や、時として彼女さえ、いらないらしい。そこに残るのは、機能としての生活。
そこでこの本が改めて取り上げるのが、「ファスト風土化」です。
著者の三浦さんの造語だそうですが、要は、コンビニとファミレスと、TSUTAYAがあれば生活が間に合ってしまうような、そんな社会現象。ご自身の定義によれば、
ロードサイドに、大型ショッピングセンターやコンビ二、ファミレス、ファーストフード店、レンタルビデオ店、カラオケボックス、パチンコ店などが建ち並び、地方から固有の地域性が消滅していることをいう
ということだそうです。アメリカの便利至極なモール文化に、自動車を引いて、コンビニとカラオケを足したような雰囲気ですね。
地域に帰ると自分も実感しますが、いくら地域社会が大切だといってみても、結局は、イオンやイトーヨーカドーが、「東京」を持ってきてくれるとありがたい。東京と同じモノを買える店があると助かる。加えて、多くの場合、その方が実際に機能的で便利。地域文化を大切に、と、きれい事をいってみたところで、便利さにはかなわない。
もっと言えば、そのファスト風土化は、スーパー&ファミレスの領域すら超えて、コンビニ風土化を色濃く強めている。実際、売上を見ても、特に都市の中のコンビニはホクホクです。これに対して、百貨店などは軒並み2割減。大型スーパーすら駄目になり始めている(こんなグラフを作ってくれている人がいました)。今や、消費者は、コンビニで用が足りるギリギリまでコンビニで用を足す。車を使って遠くまで行かない。
指摘されてみれば、霞が関という狭い世界にいる僕ですら、同じです。例えば、全然、昼ご飯を外に食べに行かない。何故か偶然、昼休みの時間制限が厳しくなったのも重なったからなのですが、食堂にすら行かない。コンビニのお弁当やおむすび・パンで済ませている。しかも、その方が感覚的に便利。もう、セブン・イレブンで販売しているパンの種類なんて、全部丸暗記してるくらい。。(苦笑
対談相手の堤さんが、深刻に面もちで聞かれている。
日本は相当高い食文化を持っているはずなのに、ファーストフードがこれだけ遼原の火のごとく普及するのは何故か。・・・おせちまでコンビニでは、極めて繊細で多様だった日本の食文化はどうなってしまうのか。
三浦さんは、こう答えられています。
上流の人ほど使い分けています。下流の人ほど調理しません。だいたい、下流の人は片手で食べるものが好きなんですよ。肉まんとかピザとか。食器を出すのも面倒くさいというところまで来ている。また一方で、発泡スチロールのお皿に素晴らしい柄が入っていたりして(笑)、わたしもたまに、お刺身を自分の家のお皿に盛りつけ直すのを辞めようかという誘惑に駆られます。
あちゃ、耳痛いですね。僕なんか、ハンバーガーでもピザでも、片手で食べるもの好きだし、完全に「下流」ですね。。 堤さんは、こう応じられます。
お皿に盛る手間暇と皿を片づける手間暇。二重に面倒くさいということなんでしょうね。社会の差別的な意味ではない下流社会化とファスト風土化は並行して進んでいると言うことでしょうか。
そういうことだと思いますし、また、こういうファーストフード・コンビニ文化があるからこそ、あれこれ忙しく働けてしまう。これって結構重要な問題だと思います。
昔は、こんな便利なモノ、無かった。外に弁当買いに行ってれば、たまには食べて帰ろうかという話になる。たまに外で食べてれば、まあ出れる日のランチくらいは、ゆっくり食べようかという話になる。そういうときにこそ、結構大事な話が進んだりもする。みんながそういう雰囲気になってくれば、昼休みの時間制限も、ほどほどの規律に収まる。
だけど、便利なコンビニがあれば、お昼ご飯ですら、そちらに流れる。そうなると昼も仕事ができるようになる。実際、仕事が進んでしまう。そうなるとますます外に行かなくなる。職場のコミュニケーションも悪化する。悪循環。。
(2)生活の24時間化
堤さんは、フランスで知人にいわれたそうです。
なんで食事の時間も惜しむほど、忙しく働くんだ。うまいものをゆっくり食べるために働くのが本当なのに、おまえは働くために急いで食べている。人生をどう思っているんだ。
もちろん、こんな話、典型的な日本人論として、特に珍しいわけではない。昔からよく言われていたこと。でも、最近、ちょっと笑ってられないぞ、という気がします。ファスト風土化のおかげで、いくら何でも、程度において、行き過ぎていないかと。。
確かに、どこの国でも、忙しい人は忙しくやってます。僕のお付き合いのあるワシントンのロビーストなんて、日本の霞が関行政官顔負けのワーカホリックで、一日20時間くらい働いている感じがします。常日頃は優雅に暮らしている条約交渉のカウンターパート達だって、いざここが条約のまとめどころだとなってくれば、夜中の2〜3時と平気で働いてきます。
しかし、日本中、24時間365日、こんな感じになっていないか。国産飛行機の設計に熱中している、新しい新幹線の設計に熱中している、実寸台のガンダムを必至になって作っている。そういう、取り組むゴールのはっきりしている忙しさならまだ良いんですが。なんかこう、みんなが平均的に忙しくなっている感じがする。そのことが、その人達から趣味の時間や考える時間を奪っている。
加えて、平等化の進展で「欲しいモノ」、実現したい夢まで無くなっている。それを考える時間もない。そんな中で、生活にリズムが無くなり、ハレとケもなくなり、抑揚のない生活に押し流され始める。起きているのは、
生活の24時間化
この生活の24時間化が、日本人の暮らしを、すごくゆとりのない、貧しいものにしたのではないか。福田恆存さんが、かつてこういわれていたんだそうです。
今と昔は忙しさの質が違う。昔の忙しさは、その忙しさの中に落ち着いていられる忙しさだ。「今日は他に何もしないでこれをやるしかない」、という忙しさ。しかし、現代の忙しさは、「いつまでもこんなことはしていられない」、という忙しさだ。
我が身を翻ると笑えませんね。かつ、部下を抱えて、日頃悩んでいる悩みそのもの。実際、忙しいこと自体は、僕は構わないと思います。国を思って行政官になったんだら、それくらい働け。でも、今の忙しさ。これは、ちょっと違う感じがするんです。何かを実現するためにみんなが没頭しているというよりは、得体の知れない何かに、ずっと振り回されているような。みんな、それが見えないまま、タダ忙しくなっているような。何とかしないと、と日々焦るばかり。。
原則論的には、僕は決して、忙しいこと自体が別に悪い訳じゃないと思います。でも、今や、その質や程度を問題にしないと、まずい。たぶん、休暇を増やせ、といった問題じゃない。「やりたいこと」が他にあるから、仕事が忙しくても、その仕事を放り出しでても、そっちをやる。そういう活力源みたいな動きを大切にしてあげないと、生活も、論壇も、批評する能力も、生活の楽しさも、みんな窒息してしまう。最近、そんな、危うさを感じます。
3.編集権の移行とパッサージュ(街路)の喪失
(1) ネット販売やモールの普及
「無印ニッポン」の著者達は、まさに、日本にセゾン文化ブームを仕掛けた当時者です。この頃は、まだ、消費の有り様が社会現象となった。その活力が、世の中の新しい変化を感じさせた。彼らは、その思いのベースをこう表現される。
本来個人的生活過程であった商品が、資本主義になってからは、単ある労働力の再生産過程でしかなくなってしまった。商品は労働力一般になってしまい、個性が無くなった。消費過程そのものに個性を復活させることが必要だ。
資本主義社会における権力というのは、労働力を再生産過程に適切な形で押し込むのが商売ですから、当然、消費活性化の活力は、本来、反体制な流れの中からしか出てこない。大雑把に言えば、官製コンテンツが面白くならないのと、同じことだろうと思います。
パルコ、ロフト、ハンズ。公園通りを軸に、渋谷がどんどん変化していった時期。当時を振り返って、特に不動産会社が仕掛けたハンズが、もっとも反体制色が強く、消費文化の拠点としての生命力も強かったと、パルコを開かせた堤さん自身が、そう評価しておられます。
実際、渋谷は、消費活力の強いパルコとハンズに挟まれて、本来、健全な婦女子が近寄りがたい場所だった渋谷センター街を急速に変化させていった。パチンコ屋→ゲームセンター→ファーストフード店と、建ち並ぶお店も模様替えさせ、その横に更に若い人にターゲットを絞った109を揃えったことで、非常に消費発信力の強い街へと変貌していきました。
しかし、そのハンズも今、ネット文化に押され、苦労されているようです。
最近のお客さんは、非常に合目的的に商品を探し、狙いの商品だけを買ったらそそくさと帰ってしまう。ネットを見れば情報が溢れている。下調べも徹底してできる。店は、実物を確認し、商品を受け取る場所。「忙しく」て、お店を巡るのが面倒だとなると、そもそも、店頭は実物を一回だけ確認するために行き、あとはネットで済ませてしまう。それに対抗できるのは、アウトレットモールくらいか。だんだん、そうなってきてる。
こうしたネットショッピングの急速な普及も、まさに、「忙しい」ニッポン、生活の24時間化と同じ流れにあるのかもしれませんね。僕が昼ご飯を「効率的」に済ませるために、コンビニメニューを覚え、さらっとコンビニに買いに行って、それを席で食べてしまうのと、少し似ている。
今や消費者には、情報がたくさんある。同じモノがどこに行けば売っているのかも知っている。あとは事前にネットで調べて当たりをつけて、それで十分。こうなってしまうと、間違っても、店のおじさんに勧められたから、こっちにしてみる、なんてことは、どんどん無くなっていくのかもしれない。
(2) 編集権の移行
こうした変化は、一面、消費者側からの強力な個性の発揮につながっているようにも見えます。だって、お店のいうなりにならずに、自分でネットで口コミ情報や価格情報を調べ、綿密な比較検討をした上で、買いに来ているわけですから。何となく、お店に来て、何となく進められた機種を、まあまあの値段だと思ったら、買う。そういう次元とはずいぶん変わってきているような気がします。
よく言えば、編集権の移行、とでも言えるのでしょうか。今までは、流行の機種、商品のグレード、流行の色やトレンド、みんなマスの側で用意して、消費者には、それに乗るか乗らないか、という選択だけが用意されていた。でも今は、マストレンドで叫んでみても、みんな消費者が、ネットを通じて自分で調べてしまう。若しくは、そこまできめ細かく、テレビを見てくれない人達にトレンドを届けることができない。
消費者は、自分で情報を編集し、検討し、行動を決めている。
こういうと、何かすごく良いことのような気がします。じゃあ、なんで、前半問題提起してきたように、ニッポンに元気が無くなるのか。そこまで消費者が自発的に動けるのであれば、なんとなく多様性が発揮され、むしろ消費生活も元気になりそうな気がします。しかし、どうも、そんな感じがしない。むしろ、ニッチなモノまで含めて、流行廃りの均質化が進み、かつ、その変化も、加速化しているような気がする。
何故か。ここが、重要なクエスチョンのような気がします。
仮説、その1。素人が見つけられる答えに、どこまで尖ったモノがあるか。みんなが高い消費文化と個性を持った消費者なら話は別です。でも、実際には、ファスト社会をくぐり抜けてきた消費者に、そこまでの多様性を求めること自体に無理がある。消費者が主体性を発揮すればするほど、逆に、個性が無くなる。
仮説、その2。ネット文化が進める均質化の罠。
江戸時代までは、武士たるもの、周りの空気に飲まれて自分の意見を変えるなんて恥ずかしい。明治以降、空気を読むようになり、戦争になった。今の若者には空気を読むのが大変なストレス。日本人が均質化してしまった。
今はみんな、周りの空気を読むのに忙しい。「KY」最悪。ネットというメディアが、この動きに輪をかける。その画一化の罠は、ちょっとした悪意の介在で、平気で社会システム全体を暴走させかねない危うさを持っている。江戸時代なら、武士は「KY」が基本です。強いて言えば、「空気読めない」じゃなくて、「空気読まない」かもしれませんが。
ネットは多様性を押し進めるのかと思っていたら、すんでの所で、逆に走っているような感がある。消費文化の面でも、例えば、「@コスメ」の急伸は、ネットが生み出す新たな消費文化に育つのかと思っていました。ところが、今や、化粧品メーカーの方が、「@コスメ」の生み出す流れに追従するようになってしまった。ネット文化、恐るべし。
さて、仮説、その3。ネットはオープンなはずだったのに、検索文化の進展が、逆に、街路の無い、時間も、空間も、クローズな環境づくりを後押ししていないか。みんなが同じ入り口から入って、似たようなサイトにたどり着く。ページランクが、ネット空間をパッケージ化し、均質化している。
この部分が、今回一番強調してみたいところなのですが、あまり馴染みのない問題提起かもしれないので、次節で、もう少し丁寧に見てみたいと思います。
(3) パッサージュ(街路)の喪失
実は、全く同じ現象が、まち作りにも言えるような気がしています。 というか、イメージを共有していただくという意味では、こちらの方がわかりやすいかな。
例えば、商店街が無くなると、街角が無くなります。スーパーはどこに行っても、中は基本的に、みな同じ作り。わかりやすいフロア構成に、機能的な陳列。明るい店内で、用が済めば、駐車場に逆戻り。
スーパーなどを集めたモールもずいぶん普及してきました。でも、こちらも、西松屋、しまむら、OfficeDepo、山田電気やK’s電気など、顔ぶれは同じ。真ん中は駐車場ですから、作りも同じ。迷い込むような街角はなく、どこにいっても、綺麗すっきり。
じゃあ、東京はどうか。最近再開発の進んだ品川も大崎も、実は開発はみんなパッケージ型。どこに行ってもあまり個性はない。錦糸町オリナス、最近急拡大中のららぽーと。便利だし、楽しいですけれど、これらも、みんな、言い方を変えれば、「大きなスーパー」。
強いて言えば、六本木。でも、六本木ヒルズもミッドタウンも、パッケージの中に顧客を閉じこめようとしている点では同じです。その中を回遊させようと必至になっている。つくりが単純だと回遊が少ないと分かると、わざと中を複雑にしてみたりする。なんとか街角を作ろうとしているのかもしれませんが、あげく、かえって分かりにくいと、客足が遠のく理由になっているとの指摘も聞く。
実際、六本木ヒルズができて以降、むしろ、麻布十番の商店街の売上が伸びたのは有名な話です。結局、そのまま麻布十番に流れてきて、豆源さんだったり、そば屋さんだったり、万華鏡のお店だったり、鯛焼屋だったり。そういうところを、何となく「発見」して、嬉しくなって鯛焼き買って、帰ってる。
たぶん、街の面白さって、出入りする道があちこちにあって、色々なところから自由に出たり入ったりできる。迷い込んでみた先に、意外な発見がある。そこに、その地元の人の顔がみえる。そういう複雑かつ、オープンな、なんかスポンジのように人を吸収して、はき出すみたいな、そんなところに、街本来の楽しさがあるんだと思います。
しかし、今、日本全国で起こっているのは、パッサージュ(街路)をどんどん無くしていって、パッケージの中に閉じこめるというモール型の開発手法。入り口と出口が決まっていて、回遊する道も決まっていて、とても機能的に設計されているんだけど、回遊して発見があるような、そういう楽しさが足りない。結局、合目的的に、欲しいモノだけ買って帰る。消費者の側も、確かに便利ですから、だんだん、それで良いと思うようになる。
でも、本当にそれでいいのでしょうか?
* * *
言論も同じです。テレビや新聞が展開するような、同じような入り口から入って、同じような出口に出る。そういう思考空間。でも、単純に綺麗に整理されてますから、まあ、そんなもんかなと思ってしまう。そこには、迷い込む苦しさや楽しさはない。
「無印ニッポン」の中で、堤さんも指摘されています。
現実を語ればアイロニカルになる。ところがそこを、テレビは言わずもがなですし、新聞ですら書かない。タタでさえ読者が減っているからわかりやすく単純に書く。アイロニカルなものは好まれない。
なんだ、言論までパッケージ化されているのか。思考空間からも、街角が無くなり、陰のない、明るい単純な空間へと均質化が進んでいる。小難しいことを言うと、忌避される。
じゃあ、国民みんながそうなのか。僕は、たぶん、そんなことはないだろうと思います。
質の程度は別にしても、そういう世の中の単純化、つまらなさを、本能的に回避しているのが、おそらく、本来の2ch.だったり、ネットを深く使いこなしている人達なのではないかという気がします。だからこそ、彼らは、わかりやすい社会の表面には戦略的に出てこない。出てきたら、使い尽くされ、消尽されることが、本能的によく分かっているからです。
ただ、残念なのは、そういう人達が、ただシンプルな人達と共存してしまっているから、ネット全体がとても分かりにくくなっている。ネットの検索技術だって、本来は、スポンジの網の目の中を、問題意識達が、自由かつ縦横無尽に、駆け抜けていくための仕組みだったように思います。だけど、現実には、多くの人が、検索技術を通じて同じ入り口にたどり着き、同じ出口から出て行く。KYを忌避する文化が、スポンジの中の王道から外れることを妨げてしまう。だいたい、ネットを縦横無尽に駆け回ろうと思ったら、技術的にも覚えなきゃいけないことがたくさんあるし、時間もかかる。そんなに、「暇」じゃない。(苦笑
今は、表に出てこない人をこそ、大切にしないといけない。街角の影にひっそりとたたずみながら、でも、来る人にはしっかりと自己主張する。そういう分散化した活力源を大事にしないといけない。三浦さんが、自身の経験を振り返って仰っています。
パルコで、売れる商品を本当に知っているのは非正規社員。
こういう人達を無理に正規社員化しようとすると、逆に抵抗される。それを無理に押しつけると、お店が駄目になる。気をつけないと、福祉国家の有り様が、こうした自由度をがんじがらめにしてしまう。現実のアイロニカルさを理解し、単純な言説に耐えられない創造的な人ほど、世の中の正面にいることを、生きにくいと感じている。
本当は、もっとこういう人達の力をこそ、正面から引き出し、無理に正規社員化しなくても、彼らが彼らの展望とリスクで生きていけるような、時にそういう活躍の場がきちんと用意されているような、そういう部分を大切にしていかないと、なんか、日本はますます、暗く、つまらない国になっていってしまうような気がします。
* * *
おそらくこれからは、モノの消費をひたすら追求する時代から、もっと精神的なモノ、文化的なモノを大切にする時代が来る。そうならない国は、ただ、環境に悪影響を及ぼしながら、元気をなくしていくだけかもしれない。
そのためには、現実空間にも、思考空間にも、もうちょっとアイロニカルなものを受け入れる、複雑なパッサージュ(街角)がいるんじゃないか。歩き回っていると、そこに突如、辻立ちしているアーティストや、説法しているお坊さん達がいて、それを色々な角度から俯瞰して地図にしてみせる教養人がいる。みんな、色々なことを言う。
でも、全員、アイロニーを理解しているから、一つの「正解」に収斂しないことに文句は言わない。複雑なスポンジの中で、どうやったら活力という水が保水されるのか、暮らしの智恵から学んでいる。
ただし、そういう成熟度の高い生活に、抵抗無く、入り込んでいくためには、個人にこそ、自身と誇りが必要です。そういう個人を育てるために必要なのは、コンビニでも、モールでも、テレビのわかりやすい解説でもない。ネット検索から得られる、情報の束でもないでしょう。
必要なのは、感動する力と努力を引き出す目標。他人の誇りに対する敬意と、それを発見する喜び。自分をこそ、それに比肩するものがある人材に押し上げていこうと奮起する気持ちと、それを実現しようとする努力。
こうした個人の営みを大切にしようと思うのであればこそ、現実空間からも、思考空間からも、パッサージュ(街角)を無くしてはいけない。晴れと褻(け)を無くしてはいけない。街も、言論も、消費も、歩いていると何かワクワクするような、そういう力を持った社会を育てていかないと、ただ技術革新、ビジネスモデル、社会制度といってみたところで、地に足がつかない。お金をいくら投じてみたところで、おカネはただ、乾いたスポンジから空しく、滴り落ちていくような気がします。
「無印ニッポン」。漠然とですが、そんなことを、考えさせられた対談でした。
そうそう、セゾン美術館が閉館したのがちょうど20世紀末。その翌年、2000年以降、IT戦略本部ができ、ITが「イット」かどうかが話題になり、時代は急速にネットにシフトしていきました。
浅田彰さんもかつてネット上で寄稿されていますが、こういうのも、時代の流れの象徴なのかもしれません。次の時代のセゾン文化的な戦略は、どこから出てくるんでしょうか。
ちなみに、ちょっと気取ってパッサージュなどと、フランス語もできないのに書いてみましたが、鹿島茂さんのこの本は、そのルーツを正確に表現してくださっているようです。パリのパッサージュ論は、そもそもベンヤミンが拘っていたことで有名ですが、書いてみて思いましたけど、日本語でいう街角とは、だいぶ違うような気もします。誰か、日本版パッサージュ論を、やってくれませんかね。。。