先々週、コンテンツ課長から、地球環境対策室長へと異動になりました。在任期間たったの一年で代わることについては、個人的には極めて残念ですが、今後、公務では、地球温暖化問題と、Post京都の枠組み構築に向けた国際交渉に邁進していきたいと思っています。
そこで、何やら大仰なタイトルで恐縮ですが、今回は、この一年間を通じて、僕が最も痛切に感じたことをまとめてみようかと思います。実は、そのほとんどが、最近行った僕の尊敬する方々との座談会で、自分が感じたことと重なりました。
結論めいたことを言えば、今一番最初に目指すべきなのは、優秀な専門家の育成でも、資金調達の方法論でも、著作権をはじめとする法制度論でもなく、一つのことを目指す熱い人のコミュニケーションを作り直すことではないかと思います。だからこそ、デジタルやネットな人達にも、アナログを含めたコンテンツ産業全体の足元の話を、もっと広く知って貰いたい。
このブログを、今後、地球環境問題ブログにするつもりはないので、引き続き、この辺についても語ってみたいとは思いますが、今日は、いったん、一年間の総括的に、座談会を通じて感じたことを整理してみたいと思います。
1.コンテンツ産業の原点
この一年間、コンテンツ課では、今14兆円のコンテンツ産業をどうやって20兆円に伸ばしていくかをずっと議論してきました。しかし、足元の現状を見ると、今ある「コンテンツ産業」だけでは、14兆円を大きく伸ばすのは難しいのが実情です。この辺から議論を振り返ってみたいと思います。
(1) コンテンツ産業の現状(一つの視点)
コンテンツ産業の現状を、主として流通の多様化という視点から簡単にまとめると、次のようなことかなと思います。
流通メディアの多様化により、CDパッケージ、地上波放送など、従来、コンテンツ制作を支えてきた流通メディアのシェアが縮小。その売上に依存してきたコンテンツ制作企業の収益も圧迫されている。
しかし、ネット配信など新たに登場した流通メディアの中には、コンテンツ制作への投資を大きく拡大する動きは見られない。新たに登場したインターネットは、特に流通に要するインフラコストが安く、流通業者間の競争は、日々、厳しさを増しつつある。
こうした厳しい状況の中でも、流通メディア側が、従来のようにコンテンツ制作を全面的に支え続けようとすれば、ますます「売れる」作品への投資を効率化・集中化せざるをえない。 しかし、こうした投資の効率化・集中化は、結果として、コンテンツの広がりや多様性を無くし、中長期的には、その魅力自体を低下させる恐れがある。また、十分な余裕資金を確保するために、不動産事業などコンテンツ以外の事業の拡大へと関係企業を追い込んでいく可能性がある。
コンテンツ制作側にとっても、特定のメディアの価値を高めることを念頭にコンテンツを制作していれば、他の流通と併用することにより得られる利益を失う恐れもある。また、制作自由度の面でも、特定メディアからの要請に縛られることになる。
こうした関係を放置すれば、制作と流通の双方が、縮小均衡に陥りかねない。
これらの点は、かつても触れてきたことがありますし、多少くどくなってしまうので、もう少し丁寧な概説を別途文末につけることにしました。お許しください。
(2) コンテンツ産業本来の定義と役割
こうした流通メディアの多様化をはじめ、デジタル技術による制作技術の革新など、コンテンツ産業を巡る環境は、日々、激しく変化しています。また、そのことに悩みもするわけですが、だけど、本質的に大事な部分は、実はあまり変わっていない。コンテンツ産業の未来を考えるためには、その「本質的なところで、大きく変わっていないもの」をこそ、大切にする必要がある。
では、変わらない軸としてのコンテンツビジネスの原点とは何か。ある研究会でこんな風に教えていただいたことがあり、なるほど、とすごく感動したことがあります。その言い方をそのまま復唱すると次のとおりです。
「本当に素晴らしいと思ったものを、手間暇かけてアーティストと向かい合って心を込めて出していくこと」
「自分が心を込めたり、美意識のあるもの、満足感のあるモノを、たくさんの方に伝えること。」
であり、そして、
「可能であれば、それをビジネスにすること」
これがコンテンツ産業であり、また、その役割だと。
これを定義流に言い換えれば、「コンテンツ産業」を、次のように整理することもできるのではないでしょうか。
「コンテンツ」(広義)とは、「伝えたいもの」、「世界観」、「本当に素晴らしいと思ったもの」。こうした、論理や言葉では平易に説明しがたい「伝えたいもの(世界観)」を、映像・音響技術などのコンテンツ技術と、それを駆使するクリエーターのスキルを通じて表現することで、相手に伝わる「コンテンツ」とすること
ただし、このままだと、ブログの内容はもとより、何気ないストリートの演奏・実演、場合によっては日常の会話などですら、「コンテンツ」だということになります。確かに、実際そうだと思います。でも、「コンテンツ産業」になる「コンテンツ」と、フラットな「コンテンツ」が一点違うなと思うのは、
「コンテンツ」を、一過性のメッセージではなく、ビジネスモデルの確立や技術の標準化などのプラットフォーム化を経て、反復継続可能な形で制作・流通させるビジネスとして成立させる
この部分だと思います。前述の研究会での指摘でいえば、「可能であれば、それをビジネスにすること」と対応します。
例えば、芸術がコンテンツ産業と一線を画す面があるのも、この点かもしれません。もちろん、レプリカを量販すれば、芸術も産業になっていくので、あくまでも側面としてのとらえ方の問題ですが、「反復継続性」、これが、定義上の鍵だと思います。悪く言えば商業音楽の負の側面にも堕ちる可能性もあるわけですけれども、でも産業として成立してるからこそ、広く色々な人に感動を届けることができる。そのバランスがある。
さてはて、まさにこのバランスをどう創っていくかが、コンテンツビジネスの面白さでもあり、難しさでもあるのかなと。
2.コンテンツ産業の苦悩
では、このバランスをどうやって作っていくか。これが難しい。というのも、これまでは、レコードならレコード、放送なら放送といったように、一つのメディアが創る世界の中に閉じた形で、創作活動と流通(コンテンツのマネタイズ)が共存した世界をつくっていた。だから両者の間で、手厚い人間的なコミュニケーションも維持しやすく、結果として、それが、ある種のバランスを見いだすことにもつながっていた。
しかし、ネットの登場によって、このコンテンツ制作とコンテンツ流通の一対一の関係が崩れ始めている。本格的なクロスメディアの時代がやってこようとしている。そこに入り込もうとすればするほど、このバランスを維持するために必要な制作と流通の間の手厚いコミュニケーションや信頼関係が切れ始めてしまう。実は今、関係者はみんな、そのことに苛立っているのではないかと。
ここでは、その様子を、3つのポイントに分けて、少し丁寧に見ていきたいと思います。
(1) 創る現場のエネルギー
? 現場から出てくるエネルギーを如何に育むか
技術の進歩が喧しく語られる昨今、それでも、コンテンツを巡る根本的なところは変わっていない。そんな話の文脈の中で、座談会に参加された方がこんな点を指摘されました。
だから、創っている現場は、とても非合理だったり、非効率だったりしますよね。意外性と感覚とか、隙間とかで創られる。だから、なかなか計数化できない。ある会社では、100人規模のライブを積み重ねてからアルバムを出して、アーティストを売る。ある会社では、タイアップを取ったり、着うた・着うたフルからヒットを創っていく場合もある。A&R(Artist and Repertoire : アーティストの発掘、契約、育成、及びアーティストに会った楽曲の発掘、契約、制作等一連の業務)や音作りの現場は、本当にバラバラです。
確かにそうなのかなと思います。コンテンツを作る時って、別に計画尽くで何かが進んでいくわけではない。もちろん、大作映画のようなことになっていくと、そうも言ってられない面もあるとは思いますが、基本は、アーティストとリアルにやりとりしている中で、話がどんどん広がっていく。ヒントになるような話はあちらこちらに転がっていて、それを如何にうまく拾い上げて、エネルギーとして大きく育てていくか、そんな勝負なのかなと思います。
だからでしょうか、同じ方は、こうも指摘されます。
企業としては無論、(ビジネスとして成功することを)確信犯として目指しますが、結局、一人の人間が意志決定することはできない。みんな好き勝手にやっていて、そのチームの中から各々のリーダーが「これだ」ということをやっていければいい。子供から後ろ指さされるのは絶対に厭だと考えているチームリーダもいれば、100万人、200万人に届けたいと願っているチームリーダもいる。こういうことがすごく重要だなと思っています。
「創る」という作業の中から自然に湧き出てくる現場のエネルギーを如何に大切にできるか。創る現場では、とてつもなくすごい作品ができる瞬間というのは、分かるものだとも言います。出来上がったものを持ってきた人間を見れば見れば分かる。自身に満ちあふれている。
? エネルギーを育む流れが流通までつながらない
かつては、出口が特定のマスメディアに一対一対応していましたから、こういう風に良いコンテンツができたときは、それがそのまま自然に市場に直結した。でも今は、そこにクロスメディアに伴う迷いと組み合わせがある。若しくは、マスメディアの側は、あらかじめ売れると計算の立つものにコンテンツの内容をはめ込もうとする傾向がある。現場のエネルギーは変わっていないのに、伝わり方が違う。ニッチなところからメディアが動いて、トータルに伝わっている。そういう「創る」現場からの自然なエネルギーの流れがなかなか上手く作れない。
この点って、たぶん、自分自身が「創る」という現場に身を置かないとよく分からないことだと思います。百歩譲って、別にコンテンツでなくても良いかもしれない。例えば、通信ビジネス、ITビジネス、こういったところにも、「創る」現場はあると思います。実際に回線を引く、通話品質を作り上げる、ソフトウエアをプログラミングする、ソフトウエアのアーキテクチャを構想する。これらも立派な「創る」作業だと思います。
だけど、今、コンテンツを自分のインフラのサービスとして活用したがっているIT産業の大手企業の中には、こうした「創る」現場はほとんどありません。情報産業にとっての創る現場は、みんな、大手企業ではなく下請企業の方に行ってしまっている。「創る」より、ビジネスを「流す」。しかも、計算尽くで、人に説明の付くような形で、「流す」。作り手の思いとかいうことよりも、ビジネスとしての成算が立つことが大事。
コンテンツを創る現場から湧き出てきたエネルギーは、こういうものと出会ってしまうと、たぶん、止まってしまいます。簡単に言えば、「しらけてしまう」ということだと思います。そこで自然な流れの勢いがとまってしまうと、結局、「ビジネス」としても成功しない。冒頭紹介した「コンテンツの定義」の中でも、
「本当に素晴らしいと思ったものを、手間暇をかけてアーティストと向かい合って心を込めて出していくこと」
というメッセージの中の、「心を込めて」の部分がない、という問題になってくる。
実は今、みんな、そこがつながらなくて悩んでいるのではないでしょうか。
(2) メディアは自分のためだけのコンテンツを創りたい
? 通信ビジネスが中途半端な理由
創るエネルギーを大切にすることと、ビジネスとして成立させることのバランスの難しさは、昔からコンテンツ制作を支えてきた流通メディアの人達には、良く理解されていることなのだと思います。というのも、流通メディアだって、「創る」ものだからです。
今、新しい流通メディアといえば、その代表格であるネットビジネスの人達が(といっても、ネットを使っている人達はかなりクリエイティブな方も多いので、通信インフラビジネスよりの方ですが・・・)、どうしてもコンテンツへの関わり方が中途半端になってしまいやすい理由も、コンテンツの流通自身も「作る」ものだという意識がないことにあるのではないでしょうか。
「電気通信事業」というのは、もともと「他人の通信の媒介」を業とすることですから(電気通信事業法を参照)、自分たちは、通信の中身にはタッチしませんという哲学で育ってきている。でも、コンテンツの流通チャンネルとしてものを考えるのであれば、クリエーターと同じように、リスナーを考え、編集をし、どう見せるか、その中で起承転結をどう含ませていくか、どういう風に自身の魅力を生み出していくか、メディアとしての立ち位置や見せ方を徹底的に研究しなくてはいけません。しかし、電気通信事業の哲学で育つと、そこには関与しないのが自分たちの商売ですよ、ということになってしまう。
もちろん、それを地でいってグーグルのようなプラットフォームに徹したビジネスを展開するのも、産業やビジネスとしては、大切な一つの進み方だと思います。彼らは、コンテンツの中身にはいっさい口出しをしないし、制作への投資もしない。今そこにある情報を整理するのが僕らの仕事だという視点に徹している。そう公言している。
しかし、それは、コンテンツの流通チャンネルビジネスを創るということとは、違います。
? コンテンツの二次利用・三次利用が簡単ではない理由
この点を超えていかないと、コンテンツを創る人達とそれをビジネスにする人達の間で、ある思いや共感をシェアすることがなかなか難しい。苦労のリンクがつながっていかないようなところがあると思います。通信インフラビジネスの成長戦略としてはそれでも良いのかもしれませんが、少なくとも、コンテンツビジネスとしては、大きく育つことはできません。
じゃあ、そこの感覚がある従来のメディアの人達は何故できないのか。
ビジネスとして確信犯的に成功させるという部分と、創る現場のエネルギーを大切にしながら大きく育てていくという作業は、なかなか計画的に結びつけにくいものです。結局、ある総量とある確率を全体的に維持する歴史的なノウハウや直感みたいなところを持って始めて、両立しているようなところがある。
だからどうしても、メディアは、コンテンツ制作の現場を自分専用に囲い込んで、その中で、作り手のエネルギーとコンテンツのマネタイズを両立できるポートフォリオを組もうとしてしまう。これが、コンテンツの二次利用・三次利用といった議論が単純には進まない、大きな理由の一つだと思います。
もちろん、流通メディア側も、現実には、もはや、独占的なもの以外も扱わないと投資が回収できないし、そのためには、自分のコンテンツを他人にも使わせることが必要だ、そのことはよく分かっています。だけど、現場のエネルギーを放し飼いにして育てていくようなところと、企業として確信犯的に成功しなければいけないというところを両立させるには、どうしても、あるコンテンツの総量とヒットする確率のポートフォリオを独占的に持っておかないとやっていけない。とても自信が持てない。そういうことになる。
今でも、小さい企業は小さい企業なりに、大きい企業は大きい企業なりにやってるわけですから、本当は、扱うコンテンツの総量が問題ではないんだと思いますが、おそらく、制作と流通の間に通奏低音のように流れているメディアとしての文化や、手厚い人間関係の共有ということが、ポートフォリオの成立に大きく効いてきているんだと思います。
? 創る現場に、メディアへの拘りはない
以上はコンテンツをマネタイズしなくてはならない流通メディアの事情ですが、では、コンテンツを創る現場自身には、特定のメディアへの拘りはあるのか。座談会で僕は、こんな質問をしてみました。
<村上>メディアの選択肢がこれだけ増えて、逆に、(「創る」現場からすると)「これで行こう」と言い切りにくくなったり、迷ったりすることはないんですか?
そのお答えは、とてもシンプルでした。
<K氏>(現場は)あんまり深く考えていないかもしれません。お客さんの顔は見えているが、流通の形態はその都度変えていくしかない。その辺は、以外とラフな感じで考えていると思います。
<N氏>作り手側は、アロハシャツが似合っていて、そこそこの生活をしているといったような感じで、ターゲット像を考えていることが多いと思います。
<K氏>そうそう、テレビのここの時間のこれを見ている人、みたいなメディア先にありきではないんです。現場は、「ああ、それぴったりですね」。そう思えば、そのメディアにぴゅっと向くことができる。「こういうことを出したいんだけど、これはどこが一番良いの?」というのが、現場のA&Rが一番良くする聞き方ですね。
本当にそうなんだろうなと思いました。だから、新しいメディアと創る現場は、相思相愛の余地がないのかといえば、全くそんなことはない。ただ、現場から出てくるエネルギーを無視して、強引につながろうとしても、現場はそんなに計算尽くで動いけるわけではない。ハードの人達はすごく定量的にロジカルに分析できるけれども、ソフト系の人間は、「こんな感じだよね」。それでまかり通ってきたし、そこからヒットも創ってきた。この文化の違いをどうインターフェースするか、とても悩ましいところです。
- 現場の「創る」エネルギーを大切に育て、一人でも多くのユーザに届ける
- コンテンツをマネタイズするビジネスとして成算の立つ状態を創る
- ハード系・ソフト系文化の違う人達同士の間に厚い信頼関係を創る
この3つの課題を同時に満たしてなお、
- デジタルとかネットといった新しい技術をうまく消化する。
- 多様化するメディアをうまくコンテンツ産業に取り込む
を達成する。これが易しい課題であるはずがありません。
じゃあ、どこにもこの解を解くヒントはないのか。
(3) 若者の共感力の行き先
? 若者を見る
これまでも、新しいメディアや技術の登場にコンテンツ産業が直面してきたことはあると思います。映画産業の立ち上がり時期だって、 大衆娯楽路線から中流階級へのフォーカスの移動、そして大衆娯楽への回帰などの振り子の中でエジソンの会社とハリウッドのもととなった企業との相克がありました。レコード産業の立ち上がり時期だって、クラシック、ジャス、ロック・ポップスなど様々な音楽ジャンルの成立・広がりと一緒に、LPの文化を育ててきたわけです。
新しいメディアを取り込むための市場の変化は、新しいユーザの発掘とそこに浸透したメディア・ビジネスの市場化からスタートする。そうだとすると、今、一番、気になるターゲットは、若者です。もちろん、産業としては、団塊の世代をはじめエージフリー市場という別のビジネスチャンスが存在しています。これはこれで、追求すべき重要な市場となりますが、それだけでは、将来の市場が作れない。
? 共感空間はどこにあるのか
たぶん、90年代後半、メガヒットを続けた音楽や、最近好調の続くテレビ映画を基礎とした邦画市場は、某か、若者の共感の部分に届いている、若しくは届いていたんだと思います。 また、そこで90年代後半以降映像分野で普及した「製作委員会方式」の導入を始め、360度展開への気づきは、コンテンツ産業に多くの商業的成功をもたらした。ある種の好循環を達成したんだと思います。
しかし、音楽について言えば、最近、メガヒット不足に悩んでいる。ゲームも、内容が有名タイトルに偏っている。売れるアニメも、トップ10の顔ぶれはほとんど変わらない。邦画は好調を維持していますが、これについても、「製作委員会」を通じて利害関係者を増えたことで、作れる作品の幅が狭くなったとの声がある。コンテンツに裾野の広がりと多様性を回復し、新しいエネルギーを入れていくためにも、まずは、「感動や世界観を伝える」という原点に立ち戻る必要があるのではないか。
そのためには、パッケージビジネス的な成功に振り回されすぎずに、もう一度、最初にコンテンツが顧客の目に触れる「場」、入り口としての共感力の高い場の再生する必要がある。単純に言えば、映画なら映画館だと思うし、音楽なら、やはりライブということになるんだと思います。そこにエネルギーのある場が欲しい。こういう空間があるなら創ってみたいとクリエーターが思うような、また、そういう空間があるなら無理してでも行ってみたいとユーザも思うような空間、そういう共感力の高い空間がなくてはならない。そこの勢いがぶれると、後の流通は本来設計できなくなってしまう。
結局、DVDが売れるのも、音楽CDが売れるのも、映画館での大画面での迫力のある映像の鑑賞や、ステージを囲むライブの熱狂といった感動の原点があることがわかっているからではないでしょうか。現地・現場には行けないけれども、その感動を追体験したい、そのための多少の質の低下は問わない、それが、コンテンツ産業のこれまでの商業的成功を支えてきたパッケージビジネスの基礎にあると思います。だから、最初に共感力のある空間の力がぶれると、あとの流通市場の迫力・魅力も、ぐっと減ってしまう。
いつかは、ライブな空間で、直接それを鑑賞したい。「(様々な)ストロベリーフィールズ」ではありませんが、思いのベースになる神話があるからこそ、コンテンツビジネスは産業としての広がりがある。
? 若者にとってのカッコ良さ
では、今の若者にとって、その思いを支える共感力のある空間がどこにあるのか。これがなかなか、自分も含め親父連中からは見えない。悩みのエッセンスの一つがあるように思います。
結局、大切なのは、カッコよさ、です。ガツンと来るようなカッコよさ。
例えば、個人としてどういう人であったにせよ、先般亡くなられたマイケル・ジャクソンは偉大だったと思います。どれだけ多くの人に、思いと元気を与え、カッコ良さの原点となったことか。
しかし、こういうカッコよさは、時代背景ともリンクします。何をカッコいいと思うかは、世代世代によって、当然違ってくる。僕らの世代には、サブちゃんの魅力は、上の世代の半分しか理解できないし、初音ミクらが彩るMADの世界の魅力も、若い子達の、頑張って半分くらいしか理解できない。
テレビスターよりも、今ネットで流行っていることにいち早くキャッチアップしていることがカッコいい。ガツンと来るようなミリオンスターに嬌声をあげるよりも、ネットで密かに流行っているようなコンテンツを熟知している方がカッコいい。いわば「ネットに小さいコンテンツが分散している」。今は、そんなような状態なのかもしれません。
僕らの世代としては、そこを無理して分かったふりをする必要もないと思いますが、ビジネスとしては、それぞれの世代のカッコ良さへの思いを大切にしてあげられないと、次に進むことができません。
? 嫌儲意識
そこで、もう一点悩ましいのが、ネット特有の嫌儲意識みたいな部分です。
今のネットには、何となく儲けることがダサイみたいな雰囲気がある。儲けているとダサイとか、儲かっているものには近づかない。儲けていると思った瞬間にみんな引いてしまうようなところがある。でも、こういう状況のまま、権利フリーなコンテンツばかりに人気が集まっていけば、文化的水準の高い・低いは別にして、コンテンツを創ることで飯の釜を食う、プロの世界がつくれなくなってしまう。
でも、とても厄介なのは、このことを、若い人達自身がカッコいいと思っちゃってるかもしれない、ということです。良い悪いを云々するつもりはありませんが、やはり「創る」という作業に対して敬意を表し、そのことにきちんとお金も払う。その部分を守っていかないと、コンテンツ産業を成立させる基盤が崩れてしまいます。通信プラットフォームの方は、それでもトランザクションの量が確保できれば残っていけるかもしれませんが、このままでは、コンテンツを創るということが、ビジネスにならなくなってしまう。
結局、こうした部分も含めて、新しいメディアのことは、そこに通じた若い世代が創っていくしかない。そういう指摘もあるんだとは思いますが、 この市場の変化の速さは、そうはいってもとても速い。そこを取り逃していては、コンテンツ産業全体が一挙に縮小してしまいかねない状況もあります。何とかここを超えていきたい。
? 若者達の心を捉える
前々回のエントリで、次のような坂本龍一さんの発言を引用しました。
音楽で食べていくのは凄く難しい時代です。コンテンツはもはやほとんどタダになりつつありますし業界的にも斜陽です。でもおもしろいのが、常識的に考えるとお金にならない業界には優秀な人は集まってこないはずなのに、MySpaceなんかをみるとおもしろい人が沢山いる。全部タダだからお金にはならないんだけど若い子が沢山いるし、コンテンツの数も膨大にある。セールスという意味ではじり貧ですけれど、音楽全体としてみたときには豊かになっている。
本当に悩ましいと思います。極端な話、この際、お賽銭気分でもいい。大道芸人のパフォーマンスに対する投げ銭でもいい。「共感の証」を市場を通じてやりとりする仕組みを考えないと、コンテンツはビジネスではなくなってしまいます。
このパズルをどう解いていくか、若い世代の心を捉える新しいコンテンツビジネスの形がどこにあるのか、そのことに答えが見つかったとき、コンテンツビジネスに次の新しい未来が開けてくるのではないでしょうか。
実際、EXILEのヒット、Greeenのヒットなど、ガツンと来るようなモデルが全く成立していないわけでもない。ネットの中にしか解が無い、とうわけでもない。実は、案外、ヒントは、そこ彼処に、転がっているような気もします。
もっとも、こんなこと、いまもって明らかになったわけではなく、コンテンツ作りの現場からすれば、常に問い続けられてきたことなんだとは思いますが。
3.コンテンツ産業の未来
で、どうするかですが・・・
(1) グローバルかつオープンな産業
若者市場の実態はなかなか見えてこない。でも、少子高齢化は進んでいく。それでもなお、文化的なパワーを落とさないための一つの解は、海外展開の強化ではないかと思います。幸い、欧米どこでも、今、ものすごい勢いでアニメ、ビジュアル系音楽をはじめとした日本文化への関心が高まっている。この7月上旬に行われたばかりのJapanEXPO(パリ)も、15万人近くの人を集めた。ラ・トリビューン誌などは、20世紀初頭の日本文化の影響になぞらえて、ネオ・ジャパネスクなどと言い始めている。
むしろ、その過剰な拡大・浸透を忌避する米国側が、一部、意図的に流通から日本のコンテンツを締め出そうとしているんじゃないか、そう疑いたくなるような動きも出てきているのが現状です。
アジアだって、ファンサブのおかげで、20歳前後の世代のアニメやキャラクターの浸透度は強烈です。日本のアニメは、国境を越えた世代の共通体験として、もはやすっかり定着しているといってもいい。
* * *
クロスメディアな環境への変化を飲み込みつつ、現場の自由なエネルギーの確保とビジネスとしての成功の両立に必要な「全体の総量と確率」を維持していくためには、人口減少による市場の縮小均衡というのは解になり得ない。既存のパイの取り合いの中で、コンテンツの総量とヒットする確率を維持するようなポートフォリオを維持したいと思えば、先行防御が横行し、既存の流通同士のパイの取り合いゲームしか進まない。
新しい市場の可能性を見せながら、少しづつ、クロスメディア化を進め、コンテンツ制作の現場に直接、お金を流していく。そのための仕組みを如何に整えるかが本質的に課題となる部分だと思いますが、そのためには、どうしても、海外といった新しいコンテンツ市場の変数を組み込んでいくことが不可欠です。
メディアからみれば、自分専用のコンテンツを独占せずにもビジネスが成立し、コンテンツから見れば、特定メディアだけに依存しなくても制作ビジネスが立っていられる。そういう意味でのクロスメディアかつオープンなコンテンツ産業を創っていくためには、市場全体に、拡大の可能性と余裕がどうしても必要になるような気がします。
* * *
残念ながら、我が国コンテンツ産業の海外市場比率は、わずか2%程度しかありません。これだけ人気があってもです。米国コンテンツ産業がその20%弱を海外で売り上げ、映画興行にいたっては、海外と国内の売上がほぼ均衡しているという実態と較べると、大変寂しい限りです。これまでは、人口増とともに国内の市場が伸びていましたから、それでも我が国コンテンツ産業は一息をつくことができましたが、今後はそうもいきません。
コンテンツ産業をグローバルかつオープンな産業に変える
そういってしまえば、簡単なように聞こえますが、この重みたるや、相当なものがあります。本当に海外市場を拡げるというのは、かつて、製造業がものすごく苦労を重ねて市場を創ってきたように、そう簡単なことでありません。
加えて、オープンな産業体質と、制作と流通の両立をどう図るか、流通同士が既存のコンテンツをただ奪い合うとう構図を如何に避けるか、という悩ましい課題が、次に控えています。
(2) コンテンツビジネスのパッケージ化
流通メディア間でのコンテンツの取り合いを、如何にポジティブな形に変えていくか。そのためには、どうしても、ある程度、コンテンツ企画・制作の当初段階から、制作と複数の流通が一体となって総合的に市場開拓に取り組むような、コンテンツビジネスのパッケージ化が必要になります。
実は、世界で一つ、こういうコンテンツビジネスのパッケージ化に成功した例があると思います。それが、70年代のハリウッド。70年代にハリウッドが大不況に陥るまでは、米国でも、映画は、すべてスタジオサイドが面倒を見ていた。今、日本の映画が大手配給会社とテレビ局の丸抱えになっている傾向があるのと同じです。ハリウッドでは、それを、脚本家や俳優のエージェント達がお金を集めてプロジェクトにして、スタジオサイドも、いいと思えば、そこに金を出す。そういう風に流通と制作の視点がひっくり返った。近い将来、日本にも、このコンテンツビジネスのパッケージ化に近いことが、起きていく必要があるんだと思います。
実際、米国のコンテンツ産業で起きたことは、メディアビジネスのコングロマリット化というより、コンテンツビジネスのコングロマリット化です。動きの基点に、映画やコンテンツを制作する企業としてのハリウッドがあり、 そこが、ABCやNBC,CBSといったメディアを買っていった。基本がコンテンツ中心になっています。
もちろん、日本には日本の産業構造や歴史がありますから、テレビ局や大手配給会社が産業構造改革の中心になってはいけないということではありません。むしろ、日本の場合は、引き続き、販促力の面でも、鍵となるプレーヤーは、こういった方々だと思います。ただし、視点は、メディア価値の最大化からコンテンツ価値の最大化へと移す必要がある。そうしないと、縮小均衡連鎖に陥る可能性があることは、累次指摘してきたとおりです。
型どおりにいえば、こうした発想の転換を促すために、人材育成、コンテンツ制作の実態を踏まえた財務会計環境の整備、権利処理環境の整備といった多くの政策課題を指摘することができると思います。
でも、僕はちょっと違うような気がする。変化を起こしていくためには、こうした環境整備に先立つ本当に大切なものがある。
どうやって、タダでさえ難しい創る現場と流通ビジネスとの対話構造を、クロスメディアな状態で創っていくのか。メディア価値を維持しつつ、特定コンテンツの独占も回避しながら、市場を大きくしていけるのか。
「コンテンツサプライヤーとメディアが渾然一体となった新たなサービス」作りに向けて、制作と流通が互いに協力し、それぞれのそれまでの立場を忘れて、コンテンツの原点にかえったビジネスモデルの再構築を行う。そのことが必要なんだと思いますが、そのためには、やはり熱い思いとネットワークが必要です。権利処理環境や人材育成などだけを先に議論しても、おそらくピントはずれなものになってしまうと思うし、そこをぐちゃぐちゃ言ってるだけでは、縮小均衡の流れは、たぶん止められないように思います。
(3) 思いのネットワークの強化
ここで、僕が一年間を振り返って、どうしても思い出すのが、東映アニメーションの泊会長の次のお言葉です。
東映アニメーションの経営理念は、「世界の子供達に夢を贈る」ことだ。子供は人生のゴールデンタイムの中を歩いている。
たとえ貧困の中にいる子供達も、少子化の中にいる子供達も、皆人生の一番良い時代を生きている。その子供達に良いアニメを見せてあげたい。そう思ってやっている。
アニメが世界の若者達に共通言語であるのも、子供時代に心に残るアニメを見たからだ。子供達に愛されるアニメを作らなくては、アニメコンテンツ市場の未来もなくなると考えている。
もう少し勉強してみたいと思っていますが、ハリウッドで70年代、何故、映画ビジネスのパッケージ化が進んだのか、今まで立場の違う人達が、プロジェクトを通じて手を組む環境ができたのか、不思議といえば不思議です。ユダヤ人的なネットワークの強さや、地政学的な環境、人材市場の流動性の高さなど、いろいろな論点を指摘できるんだろうと思いますが、僕が感じているのは、やはり「世界最高のエンターテイメントは俺たちが創る」、そういう気概みたいなものが、それぞれの立場を超えて、その当時のハリウッドに強く共有されていたのではないか。
所詮、流通の人間には制作現場の本当の思いや苦労は図りかねるところがありますし、制作の現場が、流通の人達の資金調達や成果のマネタイズでの苦しみをどれだけ理解できるかといえば、極めて疑わしい。だからこそ、コミュニティとして制作と流通が同じ文化の枠に入り込まない限り、両者の対話が不能だった。我が国コンテンツ産業としていえば、そういうことであったのではないかと思う面があります。
しかし、それを言っていては、いつまでも立っても、特定メディアと独占的コンテンツ、という時代から脱却できない。そこをオープンかつクロスメディアに変えていこうとすれば、文化や生活圏を超えた、「思い」の共有がどうしても必要になるのではないか。思いの熱さを互いが実感でき、少なくとも目的のレベルでは某かの熱さを共有できている。そう信じれることが、オープンだけど一つのプロジェクトとしてコンテンツビジネスを成立させるために、どうしても必要なことなんだと思います。
情報産業の側では、クリエイティブ産業論やコンテンツ論が盛んですが、しかし、今の日本の情報産業には、そのことが分かっていない。実際、情報産業自身も、「創る」という作業を下請に任せ、その精神を忘れ、米国発のビジネスモデルに翻弄されている。産業をリードする大企業の中に、「創る現場」がなくなり、思い無きビジネスばかりがはびこるようになってしまった。
こういうと何だか悲しくなってきますが、それが、日本の情報産業とコンテンツ産業の間に溝を作っている最も深刻な課題であり、両者を巡る不幸の構図のスタートになっているのではないかと思います。
* * *
この一年間、ITとコンテンツの架け橋、もっと言えば、ITだけでなく、非コンテンツ産業とコンテンツ産業の架け橋を自分なりに創ってみたいと思って仕事をしてきました。その期間が短かったのは、とても残念でしたが、色々な方に大切にしていただき、楽しく充実した日々が過ごせたと感謝しています。
一つのエントリが長いこと自体、いつも申し訳ないと思っています。勉強させていただくことが多すぎて、自分でもなかなかうまくコンパクトにまとめられません。下手な記述で恐縮ですが、でも、貴重な経験をさせていただいた一年間の僕の感じ方をご紹介することが、 少しでも、全体の何かの動きを触発することができれば嬉しいです。
なお、このエントリは、冒頭言及した座談会のエッセンスを、僕の視点から勝手に再構成したようなものです。各出席者の方の思いを正確に反映できている自信がないので、ここでは敢えて、参加者のお名前も控えさせていただき、あくまでも僕個人の文責でのご紹介にとどめたいと思います。
もしご関心を持っていただける方がいらっしゃいましたら、8月下旬に発刊予定の「デジタルコンテンツ白書」(昨年度版の紹介はこちらです。)を、是非、お手にとってご覧頂ければ幸いです。
今後は、仕事とブログのテーマとの接点が遠ざかってしまうものですから、今月がそうであったように、少し更新頻度が落ちるかもしれません。でも、個人的なフィールドとして、ITもコンテンツもとても大事なものですから、「情報産業の未来図」ということで、 引き続き、別の分野の視点も交えつつ、エントリを続けさせていただければと思っています。
ご参考:コンテンツ産業の現状
本文の「1.」では、非常に概括的な記述にとどめてしまったので、コンテンツ産業の現状に関し、ご関心の向きは、以下をご参照いただければ幸いです。基本的には同じことが書いてありますが、もう少し丁寧に記述したつもりです。
? 流通メディアの急速な多様化
この10〜20年間、流通メディアの多様化が急速に進みました。ネットの普及が大きいことは論を待ちませんが、パッケージを見ても、CDからDVD,DVDからBDへと進化、その派生系として高音質CDもあれば、DVD一つとっても、色々なジャンルの製品が出てきました。放送を見ても、地上波+BSから、CSの普及、新規BSの市場創設、それぞれの中での膨大な新規参入と、その流通パスの多様化は、枚挙にいとまがありません。
他方、コンテンツを試聴する消費者の目線自身(業界では、一部に、これを眼球の数にたとえて「アイボール」と呼ぶ方もいらっしゃるようです)が急激に増えるものでもありません。むしろ、人口増加の時代は終わってしまいましたから、国内では減ると考えるのが自然です。そうすれば、自ずと、流通メディア同士の間で、良いコンテンツの取り合いになる。CDパッケージ、地上波放送など、従来、コンテンツ制作の現場を支えてきた伝統的な流通メディアのシェアは、相対的には縮小することになります。
その結果起きることが、その売上を大きな収益源としてきたコンテンツ制作企業の収益圧迫です。
例えば、今、テレビ番組制作企業の収益は、広告市場の縮小に伴うテレビ市場の構造改革の中で、非常に厳しい状況に追い込まれています。某県では、50年の歴史を持つ制作企業が、昨年度末に2社も倒産しました。
世界に冠たる我が国アニメ制作企業も、2006年までは、テレビの深夜枠市場(そこでの露出を活用したパッケージ販売市場)などを梃子に、近年も成長を続けてきましたが、その後、テレビ業界の苦境などにより急速に厳しい状態に追い込まれています。
CD販売の落ち込みが激しいレコード産業も、急速に多角化を進めたり、エイジフリー市場の開拓を急いでいるとはいえ、十分な制作費の維持・確保という意味では、状況は甘くはありません。
(念のためお断りしておきますと、市場の実態では、流通メディアとコンテンツ制作とは、そんな単純に企業体として分かれてはいません。積極的に両者を持っている方もいらっしゃるし、成り立ち上、どちらかの立場に拘り続けざる得ない方もいる。ここは議論を単純化するために、機能的な議論ということで単純なアナロジーをお許しいただければと思います。)
? 縮小均衡への懸念
では、ネット配信など新たに登場した流通メディアが、これらに代わってコンテンツ制作に投資してくれるかというと、そうでもない。
かつて映画出てきたときは、映画会社が一生懸命自分でソフトを創りました。放送が出てきたときも一生懸命、放送会社が放送番組を育てました。レコードもそう。新しいメディアが出てきたときは、本来そこに出すコンテンツもメディアが自分で初期投資をして、きっちり回すところまで引き上げてきたものです。
しかし、ネットという新しいメディアが特殊なのは、ネットにはコンテンツを養うだけの財力がない。ネットは、そもそも流通コストが安く広がりが大きいことが売りですので、従来のように自分がメディアとして含み益を積み上げる構図をつくって、その中からちゃんとコンテンツ制作の現場にも利益配分をする、きちんと先行投資をする、といった型に持ち込みにくい。だから、「後からお金は払うからコンテンツを使わせて頂戴」となる。その辺の本音をストレートに言っちゃったのが、実は、昨年度話題になった「ネット法」だったのではないか。
今、厳しさを増しているのは、流通業者間の競争です。著作権問題を議論する方々の中に、ユーザの権利といったようなことを指摘される方が多くいらっしゃいますが、今、本質的に課題になっているのは、この流通業者間の競業規整をどうするか、ということなのではないかと思います。
こうした厳しい状況の中でも、流通メディア側は、従来のようにコンテンツ制作を支えようと必至になっています。しかし、それでも、落ちるシェアは落ちますから、コンテンツ制作を全面的に支え続けようとすれば、ますます「売れる」作品へ投資を効率化・集中化せざるをえなくなります。
しかし、こうした投資の効率化・集中化は、前回や前々回の「坂本龍一特集」でも触れましたが、結果として、コンテンツの広がりや多様性を無くし、中長期的には、その魅力自体を低下させる恐れがあります。製作委員会が投資したがる映画ばかりを作っていては、日本の映画市場がつまらなくなってしまう、といった類のことです。
それを避けて資金を確保しようとすれば、今度は、十分な余裕資金を確保するために、コンテンツ以外の事業の拡大へと追い込まれていく流れができる。気がついてみたら、事業収益の基礎が、コンテンツ・ビジネスではなく、不動産事業になってしまったりする。
コンテンツ制作側にとっても、特定のメディアの価値を高めることを念頭にコンテンツを制作していれば、せっかくメディアの多様化と、その向こう側にできている新しいユーザの市場をみすみす逃すことになる可能性がある。制作自由度の面でも、特定メディアからの要請に縛られることになる。
こうした、やや不幸な関係を放置すれば、中長期的には、制作と流通の双方が、縮小均衡に陥りかねない。
これが、現状なのかなと思います。
以上です。