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ありふれたことに驚く〜ユリイカの坂本龍一総特集(後編)

2009/06/07 22:32
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 前編では、テクノロジーと音楽という切り口から、坂本龍一さんの対談と三輪さんのエッセーを簡単にご紹介しました。お二人の話は、非常に重要なところでリンクしているように思います。またそれは、音楽業界の最先端で次の音楽の在り方に悩む人にとって、比較的普遍的な話なのかもしれません。

 うまく整理できるかどうか分かりませんが、後編では、その辺にフォーカスしながら、ユリイカの総特集の中から関係しそうな他のエッセーや、これらに関する自分の感じ方について、ご紹介してみたいと思います。

 なお、今回のエントリは、後半の部分で一挙に話題を拡げているため、特に読みにくいかもしれません。お許しくださいませ。 

 

  

1.「音楽とは時間をどう構成するかということ」

 

(1)音楽の力

 両者を読んでみて、坂本さんも三輪さんも、おそらく非常に似たような問題意識をお持ちになられているのではないかと思いました。もっと言えば、坂本さんが追いかけてこられた世界って、三輪さんが今回のエッセーで仰っておられているような疑問を、昔から、ずっと問い続けてきたプロセスなんじゃないかな、とも思えてきました。

 もちろん、「1996」や「/04」といった一種のコンピレーション・アルバムが魅せる、聴き心地の良さを前に出した作品もあるとは思いますけれど、前作「CHASM」から、最新作「out of noise」などのような、技術をふんだんに使いながらも、いわゆる一部に「音響派」とでも呼ばれるような、自然と向き合った作品を伺っていると、そのこと自体が、坂本さんにとって、「音楽」探しの旅になっているのではないかと、素人ながらに改めて実感します。

 ところで、前編で、楽曲の単位が無くなるという話を引用しましたが、それに関連して、「終わらせない終わり方」というサブタイトルが付いた対談部分の中で、坂本さんが、ちょっと気になることを言っておられます。

 

(佐々木) 何らかの形式を自家薬籠中のものにして、それを「坂本龍一の音楽」へと変換してゆく作業には、もう惹かれていない?

(坂本) 今は興味がないですね。様式とか形式とは多少意味内容が変わるけど、大きな視点でいうと音楽とは時間をどう構成するかということだと思うんですが、最近は構成する意志があまりなくなってきたかな。

 

 この「音楽とは時間をどう構成するかということ」という問いかけを、今の状況にどう当てはめて理解するかが、三輪さんの問題意識を解いていく上でも、重要な点かなと思っています。僕自身の音楽体験がプアなので、次元の異なるとても陳腐な読替での説明になってしまいますが、失礼をお許しください。

 音楽って、かかるとその場の雰囲気をぐっと変えますよね。レベルの低いところでは、YouTubeの画像一つとっても、楽曲付きと無しとでは全然、伝わるメッセージが違ってくる。

 例えば、最近では、JR東日本さんがケツメイシさんのTrainという曲を使って20周年記念CMを作りましたが、それをもじって、自分で撮影した映像にTrainをかぶせた映像がネット上に多く投稿されています。その優劣や是非をここで論じるものではありませんが、ただ、いずれを見てみても思うのは、どの映像も、映像より、Trainという楽曲の方が世界観を主張しているということです。作った方には失礼な言い方かもしれないですけれど、映像の多少の出来の善し悪しは、第一印象としては、あまり関係ない。

 この例では、あまり音楽を語ったことにはならないかもしれませんので、もう少しクラッシックみたいな部分で、非常にわかりやすそうな例を出しますと、フルトベングラー指揮するワーグナー「ニーベルングの指輪」(聴いてませんが、音質が劇的に向上したそうです。。)のようなわかりやすい影響力をもった作品もありますし、誰もが、同じような平和な気分に浸れるモーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハトームジック」。オモチャというイメージの原点はここにあるのではと今もって僕には感じられる、無名の作曲家エトムント・アンゲラー作「オモチャ交響曲」(つい最近までハイドン作だと思ってました。。。)。そして、ビバルディの「四季」。

 こうした楽曲を通じて、劇場でも音楽が空間を一つにまとめていきますし、一緒に並べるのは若干恐縮ですが、喫茶店の雰囲気も音楽一つで全然変わってくる。ディズニーランドにはやっぱりディズニーの曲が必要だし、JRの電車の発車ベルですら、よしにつけ悪しきにつけ、駅のホームの雰囲気を変える。

 80年代のテニスショップに流れていたVanHalenやU2をあげても良いし、トレンディードラマのBGMで定番を飾ったEarth Wind & Fireをあげてもいい。スキーブームで苗場にこだましたユーミンでも良いし、根強いEnya人気を取り上げても良い。やはり20世紀後半を語るなら、Beatlesが生み出した時代の興奮とレコードセールスは欠かせない。

 静寂が望ましい場合もありますけれど、気持ちの張りを動かそうと思うと、空間づくりが必要で、その空間作りには、多くの場合、音楽が必要になる。そこで過ごす時間の気持ちの張りや、感情の動きをどうコントロールするか、音楽が聞き手の気持ちの張りや感情の動きをどう持ってくるかで、その空間の持つ意味が変わってくる。

 音楽って、すごい力を持っていると思います。

 全然違う部分ですけれど、同じ坂本龍一総特集の中で、Shing02という方が、「アクティビスト・サカモト」と題して寄せたエッセーの中で、こう言っておられます。

 

音楽というのはとことんスピリチュアルなものだし、本当に人を明るくもするし暗くもする。すごい力を持っている。今、音楽というと商業的なものだと思われているけれど、本来は全然違うもので、人間にとって本当に身近で生きるために必要なものなんです。

(中略)

僕らはつい、音楽=仕事=お金、そういう風に考えてしまうけど、何でもかんでもお金で解決できるわけじゃないわけですよね。(中略)そうじゃなくて、音楽によって人の精神そのものに働きかける。人の意識を変えていくということなんですよね。

 

 逆に言えば、そういうとてもつもない力を持った音楽だからこそ、坂本さんご自身は、ヒーリングミュージックを安直に推奨する風潮を批判する部分で、その理由として、次のように表現しておられます。

 

僕がヒーリングミュージックを嫌いなのは、単純に音が悪いとかパターン化された音楽でクオリティが低いとか、あげれば色々あるんですが、もっと深いところで、音楽が聴いている人間にどれくらい影響を及ぼしうるのかということに対して、不注意といいますか・・・・・・。テレビなんかには「愛は地球を救う」というのと同じような文脈で「音楽は世界を変える」という言葉が平気で出てきますが、それは非常に危険なことだと思うんですよ。

 

 時間を構成し、空間を作る。人の気持ちに直接働きかけ、意識の持ちよう自体を変える。そういう力を持った音楽だからこそ、その時代的役割を考える、社会的役割を考える。そういう問題意識を持って、「音楽」のありようを考えていく必要がある。そういうことになるのではないかと思います。

 

(2)メディア技術と音楽の商業化

 本来、こうした音楽による時間の再構成は、ライブという現場でしか体験できない性格のものだったのではないかと思います。それが、録音再生技術の発達によって、レコード盤に刻み込まれることができるようになった。同じユリイカの坂本龍一特集の中で、大谷能生さんが、こう表現しておられます。

 

僕たちがレコード音楽に魅了されるのは、取り替えの聴かない個性の力がその盤面に直に刻み込まれているからであり、その代表が歌声である。響きとリズムもそうだ。こういった身体や空間に関わる要素は、どこにでも持っていけるルールとしての「譜面」それ自体には書き込むことができず、再現することもできない。

 

 カセットテープレコーダー、ウオークマン、iPod、高級AV機器などに人がこぞって群がった理由も、また、ここにあるんだろうと思います。そこに空間と時間を演出し、自分を「ずらす」ことのできる某かの力を実感しているからこそ、人は音楽を聴こうとするし、また、ミュージシャンも、そういう「感動」の提供が成就することを期待して、一生懸命に、自分の楽曲を市場に提供しているんだと思います。

 きついことをいえば、皮肉なことに、それが、Shing02が仰る”音楽=仕事=お金”という構図を押し進めてしまったとも言える。言い換えれば、「生で体験すべき音楽がメディアを通じて体験するもの」に置き換えられ、パッケージ・メディアという換金装置が、いつの間にか、手段の範囲を超えて目的に倒錯してしまった可能性がある。

 メディア技術の進歩こそが、「伝える」という音楽本来の役割を超えて、音楽自体が商業化してしまう、そのことの引き金にもなっている。ただし、そのことを恐れなかったからこそ、ポップスは、多くの人に「音楽」を提供することにも成功したとも言えるので、音楽の商業化が何か悪いことであるわけではありません。その点は、気をつけなくてはいけないと思いますが。

 

(3)「聴く」vs.「聴かせる」の構図の崩壊 

 最近、そのメディア自身に面白い変化が出てきている。それが、パッケージメディアに代わるネット・メディアの登場、そしてchain-musicのような新しい様式(?)の登場です。

 ここでは、「作品」ということに対して切れ目が無くなり、単純な「聴く」vs.「聴かせる」の構図が崩れてしまっている。単純に、「感動を与える」vs「感動する」の関係では語りきれない部分が出てきてしまった。これは、自分には、メディアがある種のライブ感を取り戻したということのようにも思えるし、商業音楽が突き進めた近代的な、きわめてモダンな市場の形に対する、21世紀的なポストモダンからのアンチテーゼのようにも思えます。

 確かに、単純に、パッケージをネット配信に置き換えただけでは、パッケージビジネスからコストを差し引き、少しだけ利便性を足した程度の変化しかないんだろうと思います。

 しかし、それが1000曲を超えるような山のような「楽曲の束」としてユーザ側に貯まり、それをユーザ側自身の意志で状況に応じてめまぐるしく、その度に、必要な形で引き出せるようになると、少なくとも楽曲の編集権は「聴く」側に移ってしまう。その限りにおいて、空間の再構成についても「聴く」側が積極的にコミットするようになる。

 そして、ついには、MADなどの作業を通じて、自分も作曲に参加し、「聴かせる」側に回ってしまう。この局面においては、作り手と使い手という関係は、完全に融合、若しくは融解してしまっている。

 こうなってくると、誰が音楽による空間の再構成に対して、積極的にイニシアチブを握っているのか、そこに、「音楽」という作品が存在するのかどうか、よく分からない状況が出現し始める。だからこそ、坂本さんが、「時間を構成する意志があまりなくなってきた」と仰られるような事態になってきたんだろうかと思っています。

 自分はまだ伺ったことがないのですが、フェルドマンという方の音楽を評する部分で、坂本さんはこういう表現を使っておられます。

 

音と音の空間にビートや楔を規則的に打ち込んでいくことで時間の単位が生まれてくるんだけれど、それを超えて「音」があるんだよね。

 

 同じくユリイカの坂本龍一総特集の中で、渋谷慶一郎さんが次のように触れておられます。

 

いずれにせよ最初に答えがあるのではなく編集、加工のプロセスによって全体を発見するという方法は構造化からの逸脱というよりも、振動する空気、弦のすれや声といった周期と非周期のあいだにある自然をどこからコンピュータの内部で行うかの差異こそあれど加工/編集/構成すると言うことが自由にできるようになったことによる必然と考えるべきだろう。

 

 ここまでの実感は、まだ僕にはありませんが、坂本さんの仰る「それを超えて『音』がある」って、こういうことにつながってくるのかもしれません。

 急激に進歩するテクノロジーのおかげで、音楽本来の姿は、どんどんと、商業化された音楽に聞き慣れた自分たちよりもずっと先に行ったところで、今もきちんと、新たな可能性を模索してくれているとことなのかもしれません。

 

 

2.「ありふれことに驚く」

 

(1)音楽という営みを考え直す

 さて、ちょっと結論を先走りすぎたので、議論を戻しますと、では、このコンテキストで、僕らは、何を悩み、何を考えていく必要があるのでしょうか。今の状況は、「聴く」vs.「聴かせる」が崩壊する、楽曲に単位が無くなっていく。ある意味、音楽が「融解」しているんだと思います。

 こういう難しい状況だからこそ、三輪さんが仰るように、

 

「音楽が人間にとって、そもそもどういう営みだったのかを考え直してみる必要がある」

 

のではないかと思います。ここで再度、僕には、この三輪さんの言葉が引っかかってきます。

 

人類のあらゆる危機がテクノロジーによって作り出される一方で、それら全ては再びテクノロジーによって解決できると信じ続ける、この、現代人の「信仰」であると同時に生々しい現実でさえある、誰に求められない「近代文明の無限ループ」に、音楽もまた、巻き込まれたにすぎない

 

 では、音楽が巻き込まれた「近代文明の無限ループ」とはいったい何なのでしょうか。それは「テクノロジー信仰」だけでしょうか。僕は、音楽を「巻き込んだ」、「無限ループ」の正体は、「モノの消費」を基点とした現代的な生活スタイル自体も大きく影響している、若しくは「テクノロジー信仰」と現代的な生活スタイルの問題が密接な表裏の関係を作っているのではないかと考えています。

 具体的には、今の商業音楽が深くパッケージ・メディアということに結びついているように、我々の現代的な生活スタイルも、大衆消費社会として符号化された「モノの消費」ということとことに深く結びついているように思います。

 いつかは車を買う、マイホームを買う、そういう形でモノを購買し、みんなと同じように、「良い消費」をすることが生活、若しくは人生の大きな目標となっている。古くは、テレビ、冷蔵庫、洗濯機といった三種の神器、それがビデオになり、ウオークマンになり、様々な台所用品になり、2000年を迎えてもなお、DVD、デジタルカメラ、平面テレビなどの新・三種の神器が話題を呼ぶ。大衆消費社会とも称される高度経済成長時代は、そういう時代的価値観に広く覆われていたように思います。

 家電製品や自動車など生活空間への機能的な装備品の充実が、人生の中で当たり前にゴールの一つとなり、まさに、ボードリヤール「消費社会の神話と構造」で語ったような記号の差異の構造に昇華され、社会の活力になる。20世紀後半とは、まさにそういう時代だったのではないでしょうか。

 しかし、いい加減、家で買いそろえるべきモノも、そろそろなくなりはじめています。生活上機能として不足しているモノも特にない。それでは産業の側は困ってしまうので、今度は、就職から、果ては結婚まで、人生の節目を「就活」、「婚活」としてコモディティ化し、あたかもみんなが買わざるを得ない「モノ」であるかのように祭り上げ、市場化してしまう。とにかく、今のままの産業の仕組みでは、次から次へと、消費対象を生み出さなくてはいけない。

 就活や婚活までいくと、さすがにテクノロジー信仰と裏表といういうことではないかもしれませんが、こうした消費社会の構造は、「イノベーション」という美名の下に正当化される、ある種の「近代文明の無限ループ」ではないかという気がします。

 冷静に見れば、こうした人生や社会の「構造化」も、ここまで行くと、ほとんどギャクかなとも思えてきます。ネットを通じて表出する若者達の感性は、一見極端に見えますけれども、A男達の消費スタイルや、通り魔事件が訴えかけてくる若者による時代に対する絶望感などの中から、こうした「ものの消費」社会に対する強烈なアンチテーゼが既に発せられ始めているような気もします。

      *      *      *

 さて、実は、音楽も似たようなことになってはいないでしょうか。音楽も、パッケージ・メディア化を通じて、生で体験するモノではなく、記号化された消費の対象となった。その結果、みんなが聴いているヒット曲を、みんなが聴いているように消費する。そういう現象が社会規模で起きてしまった。

 純粋な気持ちで始められた「ヒットパレード」が、いつの間にか自己目的化し、スターを生むということと音楽を作るという作業がだんだんと混乱していった。

 音楽や映画の世界では、受け手はあくまでもリスナーや映画館の来場者であって、「消費者」とは呼びたくないという気分がまだあると思いますが、パッケージ・メディアによる音楽の記号化が進む中で、実際には、その多くは単なる「消費者」になってしまっているのかもしれない。

 「伝えたい」、「共感したい/させたい」、「感動したい/さえたい」という原点から多少ずれて、カラオケを通じてヒットしている曲とその雰囲気についていきたい、そういうヒット曲探し自体のようなモノが、音楽市場の中で自己目的化して一人歩きを初めていないか。特に90年代後半のタイアップにより次々とミリオンセラーを生み出していった時期が、その傾向を助長したような気がします。

 まさに、音楽も、「近代文明の無限ループ」に「巻き込まれた」のではないでしょうか。

 しかし、90年代後半から一世を風靡し多くの人を熱狂させた小室さんの音楽を始め、カラオケということと二人三脚で世紀末を飾った商業音楽市場は、今、ミリオンセラー不足という苦境に立たされています。良い曲は時代を作る。その原点は、まさに今の商業音楽の成功を作ってこられた皆さんの原体験でもあり、そのことは、時代を作られた方ほど、身に沁みて分かっておられるわけです。

 今、商業音楽も、必至になって、再度、次の音楽を探さなければいけない。そういう大変な局面にいるような気がします。

      *      *      *

 なんかこのように申し上げてくると、「近代文明の無限ループ」は、都合の悪いことばかりだったのか。そんな感じになってきますが、決して、そんなことは無いと思います。 

 近代産業としてのポップスは、売上を上げ、産業として成長することで、クリエーターを養い、新たな創作の機会を提供してきた。音楽産業自身も、そのサイクルを維持することに自らの産業としてのミッションとし、そういう形で、時代における音楽の役割を守ってきた。これは、とてもすごいことだと思います。

 社会の側の「ものの消費」の時代も、その消費自体を自己目的化したサイクルによって「経済成長」を達成することで、多くの人を、貧困と飢餓から救った。急激な人口増加など、悪しき副産物も多かったのかもしれませんが、それでも、多くの人間の生活を豊かにし、支えてきたのは事実ですから、当たり前ですけれども、とてもすごいことだと思います。

 しかし、今、音楽の立っている地平も、近代文明の地平も、徹底的にズレ始めようとしている。もしそういうことだとすれば、これまでの全てを自己否定するのではなく、テクノロジー信仰が、パッケージ化された音楽が、社会に対してポジティブに働きかけてきた側面を肯定的に評価しながら、再度、音楽と時代ということを、前向きに考え直さざるを得ないのではないか。それが、三輪さんの仰られる、

 

 「音楽が人間にとって、そもそもどういう営みだったのかを考え直してみる必要がある。」

 

ということになるのではないかと、思います。

 

(2)多元性若しくは階層性

 では、「近代文明の無限ループ」に巻き込まれた音楽が、今、問い直すべき時代とは、どこにあるのでしょうか。そのことに対する答えは、もちろん、一つであるはずがありませんが、ユリイカ坂本龍一総特集では、そのことの一つにつながる面白いやりとりがあります。

 具体的には、総特集の中盤戦で、竹村真一先生と坂本さんが対談をされていますが、その中で、こんなやりとりがあります。

 

(坂本) 現在の僕らから見ると、20世紀というのは、ヨーロッパ的知性がアメリカ新大陸に移りそれが大量生産されて世界中に行きわたった時期で、20世紀の最初にあったヨーロッパ的知性への疑問というのがうまく受け継がれないで中断してしまった。今また100年たってそれを進化・継承させていく重要な時期に来ていると思います。

(竹村) 技術の進化は物質的に人間の力を外へ外へと拡張していくと捉えられがちですが、実は全ての技術革新は内面的な進化のトリガーなんです。 

 

 この対談では、人間の幼稚さと人間が獲得した自己認識力が話のベースとなっています。生物としてひ弱だったからこそ、幼形成熟と言われるような生物学的現実があったからこそ、人間だけが、自己認識できる窓を持つことができた(幼形成熟自体に興味がある方は、モンターギュの『ネオテニー』を題材としたこちらの松岡正剛さんのページなども面白いかもしれません)。

 地球改造力だけなら、36億年の太古から今に至るまで、バクテリアや菌類の方が、よほど大きな影響力を持っている。人間はひ弱だったからこそ、道具を発明し、環境を言語的に認識する能力を身につけ、厳しい気候の時代も生き抜くことができた。人間が地球自体を変えたり守ったりできると思うのは、余程不遜な思いこみである。

 坂本さんは、現状をこう表現されます。

 

「人類は進歩しすぎて自然を破壊しているのではなくて、未熟すぎて破壊している」ということです。だけど、その未熟さを自己認識できるくらいに成熟しつつあるのが現在です。

 

 技術の進化は、人間の力を一見強大化にしていくように見えているけど、そうじゃない。人の弱さを補い、どう全体と調和していくのか、技術の力をそういう内面的な進化とうまく結びつけてこそ、技術革新の意味がある。だからこそ、人間の特異性としての自己認識力をどう考えるかに、時代を説くカギがある。

 例えば、近年の「地球環境問題」ばやりにも、人間の力に対する過信から来ている単純な「エコ」論議が潜んでいるのではないか。技術が人間の力を強大化するかのように誤解している部分があるからこそ、人間が、自分自身の力によって、CO2を減らし、地球環境を守れるかのような思い込みが信じられる。でも、それこそ「近代文明の無限ループ」の力に対する過信ではないか。

 竹村先生も、「サステイナビリティ」なんて、消極的でネガティブな発想は、地球に対しても生命体に対しても失礼だと、仰います。

 

例えば、CO2の問題をとっても、短期的には台風や地震や噴火があり、数年スケールではエルニーニョのような変動があるし、数万年単位では氷河期や間氷期がある。それは人間がCO2を出しても出さなくても変動するものなんですよ。

 

 海面の上昇が心配なら、かつての高床式のセンスで家を造ればいい。都市も、それに備えて再設計することは、今の建築技術があれば容易にできるはず。変わることを止めようとする発想ではなく、変化の中で、何を生み育てていくかという発想こそが、ひ弱ながらにチエを育んできた人類にとって、まさに人間らしい営みであると言えるのではないだろうか。

 そういう視点で見たときに、アメリカ中心に普及してきた20世紀型のグローバリズムと、今現在、政治の舞台で繰り広げられている地球環境問題に対する認識は、あまりに浅く、脆弱ではないか。

 

       *      *      * 

 

 では、どうしてこんなに単純化された議論が、グローバリズムの名の下、世界をすっぽりと簡単に覆うようになってしまったのでしょうか。そこで、坂本さんと竹村先生のお二人は、岡倉天心や西郷隆盛を話題にしていきます。

 

岡倉天心の中にも、もう一つのグローバリズムがありましたよね。一つの価値観で世界を統合していくということではなくて、多様性を保ちながら一つの世界があるという思想ですから非常に仏教的です。マンダラのように多様性が担保されるような形としてのグローバリズムのビジョンを岡倉天心や西郷隆盛も持っていて、そこから展開され得たグローバリズムというのは、(現実に起きた20世紀とは)違うシナリオであったかもしれない。 

・・・(中略)・・・

21世紀のとば口では、多様性の担保が重要であることや、複雑系といった新しい価値観が出てきて、20世紀型とは異なるグローバリズムが語れる時代になった。だけど、実はそこまで包含したグローバリズムのヴィジョンを西郷隆盛や岡倉天心は萌芽的に持っていたかもしれない。

 

 例えば、岡倉天心は、日露戦争に勝利した1906年に、敢えて、次のような思いから、「茶の本」という本を英語で出版したのではないかと指摘しておられます。

 

武力や死の技術で世界に認められるのではなく、「生」の技術−Life of Art−すなわち茶に象徴されるような生きる美学で世界の一等国として認められる資格には日本にあるはずだ、そういう日本を見てくれということですよね。

 

 これは、日露戦争の戦勝国としての日本のイメージ、敢えて言えば帝国主義、覇権主義的な世界全体を覆う近代的な思潮に対し、しっかりとアンチテーゼを唱えているとも捉えられる。

 また、例えば、西郷隆盛の征韓論を、こういう文脈で引用しています。

 

実はあれは韓国に攻め込む思想ではなくて、明治維新の革命思想をアジアに輸出して、ヨーロッパの帝国主義からアジアの自立を守ろうとしたことだと思うんです。・・・(中略)・・・いくら兵器や技術を輸入しても、一般の民の知性とマインドが育たない限り絶対に帝国主義に飲み込まれてしまう。だからこそ「自立自尊」を提示した。

 

 岡倉天心、西郷隆盛、ともに、日本の個性を主張しているわけですが、それは、更にその上のレベルでグローバルに調和するための前提として、語られている。そこに20世紀初頭の日本のチエがある、というわけです。竹村先生は、こういう風にもまとめておられます。

 

さっき多様性の担保といいましたが、この国ではこうです、この民族ではこうですという水平的な多様性だけではなく、垂直的な多元性というものもあって、例えば、今の経済恐慌の最大の問題というのは、経済システムが多様性、多元性を失ってしまったことだと思うんです。

金融工学が悪いのではなく、そもそもそういう暴力的なレイヤーに影響を受けないお金の流れや、お金を必要としない交換の次元というのがニッチとしてローカルにあれば、リーマンぐらい潰れたって毎日のパンが手に入らないということはないはずなんです。

 

 では、こうした多元性と多様性を包含した形でグローバリズムを再構成していくためには何が必要か。

 二人は、分散型と集中型の適度なバランスが必要だといいます。データの管理効率よりも、データへのアクセシビリティの方が重要だと。特定の者が全てを知っている必要はなく、それぞれの立場の人が、それぞれの実情に応じて、必要に応じ、「知っている人を知っていること」。

 これからは、歴史や物語は、全部場所の記憶として残っていくのではないか。それを分散型のデータベースで担保できれば、正当な歴史によって無理に集中的な政治権力に紡がなくても、豊かなチエとともに過ごしていくことができる。今は強いリーダーがいて、そいつの命令で動くという時代じゃない。今よりは更に、分散型の志向が必要だと。

 

(3)ありふれたことに驚く

 さて、大分脱線しましたが、ここで、音楽の話に少し戻していきたいと思います。実は、この対談の中でも、こうした多元論を述べられた後、それに続く部分で、竹村さんが面白いことをいわれています。

 

われわれはグーテンベルグ以降「見る」ことばかりを重視していたけれども、「音」が我々にもたらしてくれる想像力のブロードバンド化作用はとても示唆に富んでいる。

 

 目で見るものの対象化作用は、複雑系の言語にならない部分も全て言語化して、それが世界の全てであるかのように捉える傾向がある。でも、聴覚的な回路は違う。

 

(竹村)これからの地球情報空間−もう一つのグローバリズムを作っていくのに必要なのは聴覚的な回路だと思う。

(坂本) その話で僕が思い浮かぶのは、最近の人類学や言語学で人間の言語の起源はむしろ歌だったのではという節があるんです。歌というのは一本のひとつの流れですよね。それを細かく分節化して切っていったのが人間の言語になったという考えです。

 

 音の方が、感じたことに対して素直にものを伝える力を持っている。もともと言語自体、そこから派生したものだった。概念化の行き過ぎと、そこに捕らわれてしまう「構造」的感覚に、人間自身の自己認識が歪められているのではないか。だからこそ、もう一度、音楽の持つ、「共感力」や「感動力」によって伝えることに、我々は注目をし直す必要があるのではないか。

 なるほど、これが「音楽がもたらす想像力のブロードバンド化」ということかと、こういう表現を思いつく竹村先生ご自身の想像力に、脱帽という感じですが、確かに、音楽って、単純な概念化・構造化からは、一番、遠いところにいるのかもしれませんね。音楽本来のライブであり、音楽が作る生の空間であるからこそ、「近代文明の無限ループ」が強要する様々な概念という雑音から、いったん離れることもできる。その力に、もう一度着目すべきではないか。

 グローバルに通奏低音として流し込むため、産業の側は、「三種の神器」のようにわかりやすく概念化され、扇動されたモノを、それに関し溢れるほどの情報とともに提供しようとする。21世紀になり、機能として買うべきものが無くなり始めてもなお、ITを通じて圧倒的な量の情報が流通することで、消費者の間ではそうした不安が煽られ、「みんなが追いかけているモノを、追いかける」という消費社会の構図が、「ケインズの美人投票」的なネットワークによって更に延命することになる。みんなが消費するものは、自分も消費したいし、みんなが聴いてるヒット曲は、自分も聴きたい。

 しかし、素に還ってみれば、確かに、聴覚というのは、そういう構図に対するアンチテーゼを作り込んでいくのに、最も可能性を持った手段かもしれません。

 そのことと、これからの音楽ビジネスモデルの変化がどう絡んでいくのかは、難しすぎて、とても今の僕にはすぐには分かりませんけれども、自分の子供が、歌から言葉を覚え始めている様子をみるにつけ、コミュニケーションの基礎には音があることは、とても強く実感するところがあります。

 音を分節して始めて、言語化された概念が共有される。音は、その前の素の姿をそのまま伝える力を持つ。そうした音の原点に返ることで、音楽は、新しい可能性を見つけ直すのかもしれない。音楽をこれまでの産業の形にはめ込むのではなく、音楽の持つ可能性そのものを追求していくようなところから、音楽産業の形も変わっていくんだろうなと、感じました。

 で、それは可能であれば、ITの世界がグローバルに紡いでしまった、自分が好きなモノではなく、みんなが好きなモノを当てっこしあうような、膨大な「ケインズの美人投票」のようなネットワークではなく、グローバルなネットワークの手前の部分で、もっと肌感覚のある新しい個性あるローカリティを見つけていくこと、その媒介手段として、音楽がもっと役に立つこと、そんな風につながっていくんだろうなということだけ、漠然と理解しました。お祭りのお囃子の原点に返る、みたいな感じかな。

 

       *      *      * 

 

 言い換えれば、こういうことかもしれません。言葉の世界で、がちがちに理解の進んでしまっている僕たち大人は、もっと音を通じて、若しくは聴覚的思考回路を通じて、

 

ありふれたことに驚く

 

 その力をこそ大切にし、日々の当たり前に感動を覚える。ケインズの美人投票に騙されず、身の回りにある当たり前のことを当たり前のように感じる力を回復する。音楽も、もっとそこに注力することで、音楽の新しい役割の再定義にもつながる。

 

 いずれにせよ最初に答えがあるのではなく編集、加工のプロセスによって全体を発見するという方法は構造化からの逸脱というよりも、振動する空気、弦のすれや声といった周期と非周期のあいだにある自然を・・・・・加工/編集/構成すると言うことが自由にできるようになったことによる必然と考えるべきだろう。

 

 先ほどもご紹介した渋谷慶一郎さんのお言葉ですが、たぶん、この辺に一つの全体と調和の取れたローカリティを、音によって表現していくひとつのきっかけがある。当たり前のことに驚く力こそが、「近代文明の無限ループ」から抜け出すきっかけを僕らに与えてくれる。構造化からの逸脱とはまた違った、「全体」の発見へと我々を導いてくれるのではないでしょうか。

 

 ちなみに、蛇足ですが、こうした「ありふれたことへの驚き」を音で伝える、そういう丹念な活動が成功すれば、ミリオンセラーという強迫観念に支配された現在の商業音楽市場を、新しい思潮と直感的な感覚に支えられた中規模な市場と、その上に柔らかに乗っかる世界のミリオンセラー市場という多元化された柔らかな構図に、もう一度再構成していくチャンスが作れるのではないでしょうか。

 商業音楽は、この100年、「現代音楽」に代わって、広く人々に「音楽」を提供してきたわけですから、それくらいのチャンスは与えて貰っても良いのではないかなと思います。

 

         *        *        *

 

 今回の自分の議論の当否は別にして、今回のユリイカの総特集は、かように色々な切り口から、しかもあまりヘビーに構えることなく坂本龍一を検証することができる、大変読み応えのある仕上がりになっていると思います。

 自分の理解の狭さが、逆に、この本の魅力を小さく伝えてしまっているような気もしますが、興味をお持ちになられた方がいらっしゃたら、是非、 実物を手にとってお読みいただければと思います。

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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