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テクノロジーと音楽〜ユリイカの坂本龍一総特集(前編)

2009/06/01 01:32
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 友人に勧められて、ユリイカの坂本龍一総特集号を読みました。気軽に楽しく読めるコラムもありましたが、坂本龍一教授ご本人のインタビューと現代作曲家の三輪眞弘さんのエッセーはじめ、とても面白く、かつ、考えさせられる内容でした。

 まずは、前編として、坂本さんの冒頭対談の一部と、三輪さんのお話を、紹介してみたいと思います。

 

1.テクノロジーと音楽

 

 テクノロジーの進歩は、音楽を大きく変えています。ピアノの前に座って五線紙と向き合いながら「作曲」活動をしてきた多くのミュージシャン達が、今、パソコンでデータをいじりながら音楽を作っている。本当は、演奏なんかしなくても、おそらくコンピューターは、正確無比に、その音を再現してしまう。考えてみれば、怖い時代だとも思います。

 しかし、それだけではありません。創作者がネットにつながっていくことで、創作スタイル自体が変わり始めようとしている。冒頭インタビュアーの佐々木さんは、坂本さんに対する、こういう問いかけから議論を喚起しておられます。

(坂本さんによる)カールステン・ニコライ、クリスチャン・フェネス、クリストファー・ウイリッツとの一連のコラボレーションは、全て基本的にファイル交換によって作られています。ネットの大容量化と高速化によって、時間と場所を共有しなくても共同作業が可能になった。それは制作アプローチの基本姿勢も変えました。

 それを受けて、坂本さんは、「CHAZM」というアルバムを作り出す頃から、こうした”chain-music”を始めたことをご説明されています。更に、その作業自体について、次のようにコメントしています。

まだ会ったことのないいろんな国の人がいて、その中で完成品を目指すのではなく、どんどんひととつながっていくことは僕には面白いし、それによって広がるネットワークがまた大きな力になっていった部分はありますね。

 佐々木さんは、これをポジティブな新しいクリエイティブな在り方だと断った上で、でも、次のように指摘します。

従来のCD一枚や曲一曲という単位での『完成』という考え方とは対立するところがある。・・・(中略)・・・最終的に『作品』と呼ばれるものに固定することが難しい

 これは、確かに、短期的な視座から見れば、大きな変化です。しかし、何百年という歴史の変化の中で見れば、曲というフォーマットの変化自体は、過去からもずっと起きていた。バロックの時代の貴族社会の要請、オペラが浸透していった時期の劇場コミュニティの要請といった社会的な要請ばかりでなく、電子楽器が出てくる、コンピュータが出てくるといった技術によって変わる側面も、見過ごせない。坂本さんの話は、こう続きます。

ダウンロードが主流になりつつある現在、シリアスミュージックではないという意味でのカールステンやフェネスまでを含んだポップな領域において、曲が完結していることの意味やアルバムという括りの意味は崩壊し始めていますよね。

聞く側は音楽を曲単位で購入できるので、それをシャッフルしたりリピートしたり自分でプレイリストをつくったりしてみんながDJ的に音楽を聴いている。

アルバムという単位は元々アーティスティックな要求から生まれた形式ではなく、単にアナログ版のA,B面両面をアルバムという一つの単位で示す、そういう技術的な要請から出来上がったフレームワークなわけです。CDも単なる盤に乗っているデジタルデータだからそこからまた形が移行すれば盤である必要もなくなる。そうするとアルバムや曲といった単位が崩壊するのは目に見えていますよね。

形式ということでも、例えば組曲形式だって純粋に音楽的な要請から生じた形式ではなく、作曲家が宮廷の舞踏会の時間に応じていろんな舞曲を集めてきて組曲にしたわけですから、パトロンの要請から生まれたとも言える。

でも大量複製時代の音楽の在り方には、たまたま技術的に可能だったからアナログ盤のA面、B面が生まれて、そういう分類ができたことで自然と組曲形式のような発想がミュージシャンの中に働くようになったりするように、技術的な要請でフレームが変化していくという面白さがありますよね。

僕たちは今インターネットという技術的な可能性に乗っかる形で音楽を作ったりしていますけれども、技術が変われば作り方もまた変わっていくんですね。

 質は大分違うのかもしれませんが、MADの盛り上がりも似たような側面を持つと言えるのでしょうか。最近では、小学校の卒業式に初音ミクでつくるMAD動画などが流されている例もあると伺ったことがあります。プロの世界がパッケージの売上減少に苦しみ、次の市場を見つけられずに呻吟している中、小中学生のような、ぐっと若い世代は、そんなことおかまいなしに、どんどんと技術変化の新しい波を乗りこなし始めているのかもしれません。

 ネットを通じたchain-musicで良いものができていっても、そこに「作品」という形がなければ、お金にはならない。MADが盛り上がり、権利処理の楽なものに若者の関心が集まっていけば、コンテンツを制作して儲ける産業は、当然苦しい立場に追い込まれていく。もちろん、chain-musicが続けば、それでトラフィックを稼ぐことのできる通信産業は儲けることができますが、創ること自体では儲からない。

 ただし、これが文化の振興という立場から見て、一概に悪いと言えるかというと、必ずしもそうでもない、というところが、また悩ましいと思います。坂本さんも、このように続けておられます。

 

音楽で食べていくのは凄く難しい時代です。コンテンツはもはやほとんどタダになりつつありますし業界的にも斜陽です。でもおもしろいのが、常識的に考えるとお金にならない業界には優秀な人は集まってこないはずなのに、MySpaceなんかをみるとおもしろい人が沢山いる。全部タダだからお金にはならないんだけど若い子が沢山いるし、コンテンツの数も膨大にある。セールスという意味ではじり貧ですけれど、音楽全体としてみたときには豊かになっている。

 

 YMO以来、新しい技術を積極的に取り込みながら、ネット配信にしても、ネットライブにしても、90年代のうちに真っ先に取り組み、著作権管理事業法の立法を後押しするなど、技術的変化にあわせたビジネスモデルの有り様まで悩んでこられた坂本さんのお言葉だけに、悩ましく、かつ、重く感じます。

 

2.「音楽に踏みとどまる」 

 

 三輪眞弘さんは、どちらかといえばアカデミズムの中に身を置かれている現代作曲家ですが、彼もまた、「最新のテクノロジーが放つオーラのようなものにぼくは深く魅了されていた」方のお一人です。そして、技術を追いかけながら常に音楽作りに取り組んでこられた坂本さんが、今、何をされているのが、常に、とても気になっていると仰っています。

 実は、坂本さんの側でも、三輪さんを、こう評しておられます。

アカデミズムからはあまりおもしろいものは出てきていないですね。音が聞こえてこない。でもその中で、三輪眞弘さんは面白いこととをやっていると思うんです。彼は元々アカデミックなところにいた人で、今も大学に在籍していますけれど音楽のアカデミズムではなくメディアアートという領域にいる。だからというわけではないけどおもしろおいものをつくっていますね。

 三輪さんは、坂本さんが芸大卒業後アカデミズムを離れポップスの世界に本格デビューをしていった時期、日本を離れて音楽の勉強のためにベルリン芸大に進まれています。

 その頃の彼の思いと、今の立ち位置を、三輪さんはこう表現しておられます。

「新しい音楽」というものがあるのだろうか?音楽について満足な知識もなかった当時の僕には漠然と、それが「音楽理論の深い理解の先に」、そして「テクノロジーの可能性とともに」あるような気がしていた。そして何より「音楽理論の深い理解」が得られれば、自分もいつか坂本さんと同じ土俵でそれに挑戦できるはずだ、とぼくは考えていた。

しかし、僕の結論を先に言うと、「音楽理論の深い理解の先に」はそれは無かった。僕が西洋音楽の勉強をした先にあったのは「思弁の音響化」とでも呼ぶべき風変わりな世界だった。

それは、昔ながらに楽譜を使ってオーケストラや西洋楽器の奏者が「現代音楽」として音楽と同様に演奏するものだが、「音楽」とはぼくは呼びたくない。何故なら、旋律もリズムも覚えられないような不可解な音響をどうして音楽などと呼べるのだろうか。

・・・(中略)・・・

「現代音楽」で多用される「雑音」は、音楽に使われる「楽音」ではないという定義こそ、他ならぬ西洋音楽の基本だったはずだ。・・・(中略)・・・きわめて様式化された「思弁の音響化」を反復し続けているのが今の「現代音楽」なのだ。

 僕には現代音楽の善し悪しを判断する能力が幸か不幸か全くないので(苦笑)、何とも申し上げようのない部分があります。でも確かに、現代音楽の「音」って、複雑な組み合わせの和音や、あえて普通でないコード進行から紡ぎ出されていて、素人には難しいですよね。

 三輪さんが抱くこうした実感を、坂本さんは既に、アカデミズムを離れてYMOを始めようとしたときに既に感じていたのではないか、こうも仰っていますが、それにしても、「現代音楽」を志している方が、厳しい言い方をされるなあと思いました。ただし、もちろん、彼は、こうも評しています。

くだらないものだと言っているのではない。むしろそれは人類が生み出した至極の技芸の一つだとさえ言えるだろうし、ぼく自身もまた数少ないその聴衆の一人なのである。

 さて、こうした西洋音楽の世界に生きてこられた三輪さんですが、彼は、西洋音楽が好む楽器の世界から離れて、電子楽器の世界と真摯に向き合う努力を怠っていない。音楽と技術の関係について、次のように議論を進めていきます。

 世界中の音楽には、その文化固有の発声法や音律、音色の微細な表現があり、それによって初めて一つの音楽的宇宙が出来上がっている。しかし、それは、西洋音楽の思想や美感のフィルターによって跡形もなく変形されていた。レコードやテープによって世界中の民族音楽が入手可能になったとき、自分はそのことに気付いた。

 そして、電子楽器の進化によって、民族音楽などに特徴的な音律、音色などの微細な表情も、電子的音響(=シンセサイザー)の「プログラミング」という作業によって周到に「作曲」できるようになった。それは、彼にとって「音楽理論」の枠組みを超えた発見であり、次に指摘するような、厳しい現実でもあった。

音楽が聴衆の耳に届く最終段階まで作曲家が全てを事前に設計/プログラミングできるというこの新しい可能性は、ある意味では西洋音楽の作曲史における一つのマッチョな野望の実現でもあったはずだが、それは同時に、人間による演奏というものを無意味にしてしまうことの始まりでもある。

・・・(中略)・・・

当時は、三人の凄い腕を持ったミュージシャン達(YMO)が演奏/身体というものを敢えて否定し、「テクノロジー礼賛」をしてみせたからカッコ良かったわけだが、コンピュータが普及し、インターネットが当然の環境となり、携帯電話を使って無数の人々が交信する現代、彼らのシニカルなメッセージはあっという間にすべて現実のものになってしまい、ぼくらは、もはやそれが「シャレにならない」世界に生きている。

 「現代音楽」の方は、後述するように、「シャレにならない世界」にあるテクノロジーの変化から自らを遮断してしまうことにより、「音楽」から逸脱してしまいました。では、世界のサカモトは、「シャレにならない」世界になった今も、「音楽に踏みとどまる」ことに成功しているのでしょうか。

 三輪さんの答えはYesです。彼は、世界中にサカモト・ファンがいること自体が、坂本さんが「音楽に踏みとどまっている」証明であると指摘します。

 その上で、しかも何故世界中にサカモト・ファンがいるのかが大事だと言います。というのも、彼の楽曲が「巨大なメディア空間に登録されているという前提があったから」、世界にファンができているからだと、言い切っておられます。逆に言えば、「音楽」の実態とは、今ではネットからダウンロード可能なデジタル・コンテンツのことでしかなくなっていると。

現代では「プロとして音楽を創る」ということは、いかなる手段であれ、聴覚情報としてのデジタル・コンテンツを作成し、それをメディア上のリストに追加していくことなのだ。それが「現代社会における新しい音楽のあり方なのだ」といわれれば、全くその通りだろう。

 こうあっさりいわれると、そんなに簡単に、デジタル・コンテンツとしての音楽を受けれてしまって良いのか。ちょっとそんな感じもしますが、三輪さんは、でも、それを受け入れるべきだと主張します。自戒気味にこう続けます。

現に、プログレッシブロックやモーリス・ラヴェルに憧れた自分たちですら、アナログ技術だったとはいえ、当時、電源コンセントにつながれた新たなテクノロジーによってもたらされたものを、「よいもの」と感じ、その可能性に心から魅了されていた。

 そういう自分たちからすれば、今の「新しい音楽」を否定する理由は何もない。むしろ、だからこそ、そこに、彼は現代の歪みと悩みがあるのだといって、議論を、こう次に続けていきます。

人類のあらゆる危機がテクノロジーによって作り出される一方で、それら全ては再びテクノロジーによって解決できると信じ続ける、この、現代人の「信仰」であると同時に生々しい現実でさえある、誰にも止められない「近代文明の無限ループ」に、音楽もまた巻き込まれていたに過ぎなかったのだから。 

ネットからダウンロードした音楽によって癒されている現代人のストレスの原因が、まさにそのような地球規模のネット配信や課金システムなどという途方もないものを限りなく考え出していかなくてはならないぼくら現代人の、その「信仰」にこそあると考えるのは皮肉な見方だろうか。

 三輪さんが追いかけてきた「現代音楽」は、その「信仰」に与せず、あたかもこの百年間テクノロジーの進歩など関係なかったかのように、百年前と変わらぬオーケストラの編成で「新しい音楽」を試みようとしました。そして、その結果、「現代音楽」は、「作者の精神性や感情の表出」であり、「伝えられるべきメッセージ」が込められた「聴覚体験」である、という近代音楽の定義から大きく逸脱していった。

 逆に、その定義を素直に踏襲し、近代産業にしようとしたのが、他ならぬポップスだったのではないか、三輪さんは、そうまとめます。

 もちろん、三輪さんは、ポップスと現代音楽のどちらが音楽として正しい、といったような議論をされたいわけではありません。現代という時代は、テクノロジーの進歩が、結果として、石油の問題、資源枯渇の問題、地球環境の問題、それに派生する様々な国際政治問題など、のっぴきならない様々な課題を作り出している。それをまた、更にテクノロジーで解消しなければならないと思いこんでいる、その「信仰」にこそ、現代人のストレスの原因があるのではないかといいます。だからこそ、

人間とテクノロジーとののっぴきならない関係のただ中で、「音楽」がそもそも人間にとってどのような営みであったのかを考え直してみることであり、また同時に、テクノロジーそのものに対する僕らの絶対的な「信仰」を相対化し、冷静に見つめ直してみること

 その作業が必要だと話をまとめておられます。それこそが、三輪さん自身がかつて夢見た「新しい音楽」づくりなのだと。

 

         *        *         * 

 

 では、こうした三輪さんの問題意識と、坂本さんの問題意識は、どのようにリンクしていくのでしょうか。次に書く後編で、その当たりの僕の感じ方をご紹介できればと思います。

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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